ブルゴーニュ好きのパリ住民

15世紀の後期百年戦争に揺れる時代に、正統な主を欠いた王都パリは、ブルゴーニュ侯を頼みの綱としていました。今回はそこらへんの話しです。

簡単に言えば、アルマニャック派とブルゴーニュ派に割れるフランス王国でパリはブルゴーニュ派だったということですが、これは事体の横顔しか表していません。まずはアルマニャック派とブルゴーニュ派の闘争の源泉をオルレアン侯ルイとブルゴーニュ侯の争いに求めます。

1372年に生まれたシャルル6世の弟ルイはヴァロワ伯領、トゥーレーヌ侯領を親王領として受け、さらに1392年王領となっていたオルレアン侯領を下賜されます。彼は時代の人々からは「賭け事に打ち興じ、娼婦を愛する男」といわれ、後代の王家歴史家から「種馬のように、きれいな女とみればあとを追いかけ、ひんひんいななく」と辛辣に評されるなど極めて悪い評判ばかりがたった人物でした。

この一因に1392年に発狂した兄シャルル6世の存在があり、王妃イザボー・ド・バヴィエールといちゃついて、哀れな兄に代わって王位を狙う大悪人というイメージが民衆にはありました。当時の民衆にとって王は気高く美しく、自分たちが苦しめられるのは、王を囲んで悪政を行う取り巻きたちがいるからだという素朴な念がありましたから、王弟ルイの存在はまさにそれにピッタリだったのです。

しかし、王弟ルイも確かにそうでしたがもっと酷いのがシャルル6世の叔父たち、つまり先代シャルル5世の弟たちでした。アンジュー侯ルイはイタリア遠征に熱中し、ベリー侯ジャンは芸術と城塞建築に夢中になり、末弟ブルゴーニュ侯フィリップは自分の生きる道をフランドルに見出していました。さてこの金が何処から出ていたかといえば、これすべて王家の金庫から流出していたのです。シャルル6世の発狂以降、叔父たちは後見人と称して金庫から次々横領していたのです。

叔父たちの中でもブルゴーニュ侯フィリップは王家筆頭であるという自負を持ってことに望み、シャルル6世とバイエルン家との婚姻やリチャード2世と王女イザベルの婚姻を画策するなど、自己のフランドル政策のためにフランス王家を動かしていました。これを苦々しく思っていたのが王弟ルイ・ドルレアンであり、それ以上だったのがベリー侯でした。そうルイは実は叔父たちの喧嘩に巻き込まれていたのです。

さて1404年にブルゴーニュ侯フィリップが亡くなり、1405年に侯妃マルグリットが亡くなったことでブルゴーニュ家は代替わりを迎え、一時的にパリはルイ・ドルレアンのやりたい放題となったのです。王妃イザボーと組んだルイは王家大番頭ジャン・ド・モンタギュを抱き込んで王家財政の要職を一人占めにし、さらに故リチャード2世の妃イザベラが帰国すると息子シャルルと結婚させ、さらにアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世をシャルル6世に認めさせ、対英戦争再開を目論んでノルマンディー、ピカルディー方面の王軍総指揮官となってカレーのイングランド駐屯軍と小競り合いを始めさせるなど、ブルゴーニュ侯フィリップが築いたものを破壊する道に邁進したのでした。その極めつけが対イングランド戦争のための特別タイユ税の課税方針を王に強いたことでした。

さて、ここで相続問題をあらかた片づけたブルゴーニュ侯ジャン・サン・プールが登場します。アラスにあった彼は、このフランス王国全民衆に対する巨額なタイユ課税に荘重に反対の意を表明し、ここに全民衆に愛され称揚される「正義の人」ブルゴーニュ侯というイメージが生まれたのです。ブルゴーニュ侯ジャンは早速兵5000を率いてパリに入ります。一方のオルレアン侯ルイと王妃イザボーは狂気の王を残して逃げ出します。この対比。

パリは諸手を挙げてブルゴーニュ侯を迎え、これに対して侯は1384年以来剥奪されていたパリの諸特権と、パリ防衛の象徴である路上に鎖を張る特権を返します。これは夜間の軍事行動を制限するために往来に鎖を張って騎馬の行動を制限するもので結構効果があることでした。

パリの支持を得たジャンは、さらに王政改革案を提示します。これにはオルレアン侯と王妃が如何に私利私欲に走って王政を歪めたか、オルレアン侯の好戦主義が王家の財政を如何に逼迫させるものであるかを語るもので、自分ブルゴーニュ侯は平和主義者であり、王政の監視人であると宣言するものでした。この宣伝の巧さが30年後のシャルル7世のパリ帰還までブルゴーニュ侯とパリの親密間を創り出したのです。

そう、それは宣伝であり、詭弁でした。何故ならブルゴーニュ侯が平和主義者であるなどということを誰が信じるでしょう?対英和平は自己のフランドルでのネーデルラント権益の追求のためであり、造幣局を自領に造って王家の財政を逼迫させていたのは他ならぬブルゴーニュ侯だったからです。

ほどなくルイとジャンは仲直りしますが、ルイを支える王妃イザボーとベリー侯ジャン、王家大番頭ジャン・ド・モンタギュによってジャンの意向は思うように進みませんでした。そこで1407年11月23日、ジャンはイザボーの館の帰りのルイを暗殺させるという手段に訴えます。

ことの重大さに驚いて顧問団はなにもできず結局フランドルに逃げていたブルゴーニュ侯ジャンは翌1408年パリに戻り、3月にジャン・プチに暗殺の弁明演説をさせます。この茶番で侯は赦免状を手に入れます。赦免されるとブルゴーニュ侯ジャンはすぐさまネーデルラントの鎮圧に手を貸します。この最中パリで再びオルレアン派が動きますが、10月にブルゴーニュ侯が戻ると王を連れて四散し、パリはブルゴーニュ侯の統制に入り、翌1409年3月のシャルトルの和で王を取り戻すと、オルレアン侯ルイを支えた王家大番頭ジャン・ド・モンタギュを官服を身につけた折り目正しい姿で斬首します。

ブルゴーニュ侯に対して、翌1410年3月、ベリー侯、ブルターニュ侯、オルレアン侯、アルマニャック伯、アランソン伯、クレルモン伯らが王国防衛の名の下に連盟を結成します。その夏、ベリー侯の息のかかった野心家アルマニャック伯が自分の娘をオルレアン侯シャルルに娶らせます。そして秋、パリは北にブルゴーニュ軍、南にオルレアン派が布陣し、その中でも一際アルマニャック伯の白地の飾り旗が目立ったため、これ以降アルマニャック派と呼ばれるようになります。この対決はベリー侯による和平調停で事無きをえます。

しかし、翌1411年7月にアルマニャック伯に後押しされてオルレアン侯の遺児はブルゴーニュ侯告白の文書を公開し、一気に爆発します。ブルゴーニュ侯ジャンはパリを押さえ、アルマニャック派はベリー侯領の首府ブールジュを根拠地とします。この対決は10月にシャルル6世からアルマニャック派諸侯を謀反人とする宣言を引き出し、翌1412年7月の王軍によるブールジュ攻囲によって、8月のオーセールの和が結ばれて終わりとなります。

オーセールの和によって王政を手中に収めたかに見えるブルゴーニュ侯は1413年1月30日全国三部会を開きますが、これが思わぬ展開になります。会議全体がブルゴーニュ色になるかと思いきや、議題は王権王領の根絶に向かったのです。実は横領の筆頭であるブルゴーニュ侯にとって、これは答えに窮するものでした。「王政の擁護者」という仮面を付け続けることをブルゴーニュ侯に求める党派がそこにいたのです。そしてこれは王太子ルイとそのマルムーゼの行動でした。

この後、イングランドに対仏戦争再開を訴えるヘンリー5世が即位し、フランス国内の雰囲気は党派の対立を避けるようになったため、ブルゴーニュ侯はパリを退きます。すぐにアルマニャック派諸侯がパリに入城し、翌1414年にはアラスを攻囲するなど対英作戦に対して無意味な行動を行って歩調が合いませんでした。

そうこうするうちに1415年2月、ヘンリー5世は最後通牒を突きつけ、8月13日ノルマンディーに上陸し、10月25日のアザンクールの戦いでフランス軍を破って、アルマニャック派を混乱させます。統制を