生まれた王子は、普通の子どもより大きくたくましく、見るからに極めて強壮で、しかもその顔は、母后の麗質をうけて、まことに柔和で、美しかった。王子の秀でて立派であったことは、当時の画家で、王子と王后をキリストと聖母マリア像のモデルにしたものが多かったのに見ても、それと察せられる。
この王子を得た父王エドワード三世のよろこびは、実に言うべくもなかった。王は、よろこびのあまり、王子誕生の事を報告するために来たトーマス・ブライオルに、手元金の内から、一生毎年五十マルクの恩給を与える旨を申しわたし、なお王子の乳母となったオクスフォードのジョアンに毎年十ポンドの恩給、御守役のマチルダ・プラムトン女に対し、同じく十マルクの恩給を下賜する旨沙汰せられた。
また王子誕生の祝いとして、その後ロンドンに大トーナメントが催され、王は自ら十二人の騎士と共に闘技場へ出て、誰人にてもあれ志あるものは来れと、試合を望む騎士らを引きうけてその技を揮った。
この時、王后は、多くの貴婦人と共に盛装して、見物の桟敷にあがったが、工事を急いだためか粗造のところがあって、段をのぼる際、王后はつまづいて倒れた。あなやとばかり、人々皆手に汗を握ったが、幸いに無事であった。けれども、王は大いにこれを怒り、この仕事にあたった大工どもを、ことごとく捕らえて死刑に処せんとしたのであるが、王后は元来慈心に富んだことに優しい女性だったので、切に王に請うて、かれらの罪を赦した。
エドワード三世は、王子の生まれた時にようやく十八歳未満の若い君主で、ニ年前にこの王后フィリッパを迎えたのであった。王后は、エドワード三世より数ヶ月若かった。王がかく若くして父となったことは、今から見れば、異様にもおもわれるが、この時代の王侯は、十四歳、甚だしいのは十二歳で結婚することもあったので、何もエドワード三世のことばかりが、異例ではなかったのである。
それにしても、早婚は弱い無能児を生ずという説は、多くの場合において正当であるようであるが、このエドワード三世と王后フィリッパには、その説はあてはまらなかった。わが国においても、家康の父廣忠は、数え年の十七歳、すなわち僅かに十六歳未満、母傳通院は十四年未満にして、かれを挙げたのであるが、家康は、あの烈しい戦国時代の渦中にその英資を発揮して、終にわが国屈指の偉人となった。王子エドワードも、またこの例に譲らなかったのである。
王子は、生まれながらその父王に似て勇武闊達、加うるに母后からうけた優雅敬虔の性を兼ね備えて、ひとりその相貌において、威あって猛からぬ騎士の典型たるのみならず、またその資質においても、時代の理想人格たる威あって猛からぬ騎士の好典型だったのである。しかして、王子は、おりからイギリスとフランスとの間に起こったいわゆる百年戦争の初期において、父王を助けて征戦に従い、フランスのクレシー。ポワティエの合戦を初めとして、至るところに奮闘して、大いに武勇をあらわし、黒太子の名を言えば泣く子も黙ると伝えられた。
黒太子は、当時のイギリスを飾る武勇の華たるのみならず、また実に、遥かその以前よりヨーロッパの西部に発達しつつあった騎士道の終末期を飾るべき、その精華だったのである。著者は、すなわちこの書において、百年戦争における黒太子の活動を通じて彼の騎士道の精華の如何に培われ、如何に伸び、如何に咲いたか、その華やかな表面の下に如何なる暗黒面が隠れているかを述べんとするのである。
第一章 了