騎士道の華
第二章 燦然頭角をぬきんづ王子の生立

エドワード王子の初めの生活は、おもにウッドストックの猟宮に過ごされた。この猟宮は林中にあって、空気が良く、閑静で、景色も良かった。これらの点から、王后はことにウッドストックを愛したが、王もまたその好む狩猟のためにも便宜だったので、この猟宮の生活を愛しないではなかった。

その頃は、王が自ら王室領を巡視して、その管理の如何を監督し、また時々領内の臣民に顔をみせて、その勤王心を培っておく必要があったので、王及び王后は、自然絶えず居所を替わることになった。されば、王子は生まれて六ヶ月のうちに、オスニー、ノーザンプトン、クライブ、スタンフォード、リンカーン、ノッティンガム、ウェストミンスターの各所に移ったのである。けれども、そのうちの多くの日は、ウッドストックで過ごされたのであった。というのは、王夫婦が最も多くこのウッドストックの猟宮にいる事となったからで、王自らは、猟宮に最も適していたところから、ウィンザー宮城を第一に好んだのであるが、それが主にここにいるようになったのは、思うに王后の勧めが力があったからであろう。

王子の幼年教育は、当時の一般貴族と同じく、いわゆる四歳にして文字を学び、六歳にして文章を学び、十歳にして礼節を学ぶ、というような順序を踏んだものであったろうと察せられる。しかして、教師には、特に王后の推薦になる、有名なスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスの門人ウォーター・バーリー博士がその任にあたった。ウォーター・バーリー博士は、学徳高く、著書も少なからず、しかも迂遠な学者ではなく、よく事理に通じた人で、かつて王命を奉じ、数回教皇庁へ使いしたこともあり、王子の教師としては、最も適当な人物であった。

また当時の習慣として、貴族の中から、王子の学友として、同じ年頃のものが数名選ばれた。その中には、初代ソールズベリ伯の子ウィリアム・モンタギュや、のちに二代目のマーチ伯となったロジャー・モーティマーや、バーリー博士の親戚の子シモン・バーリーなどもいた。このシモン・バーリーは、王子より年が若かったが、深く王子に愛せられ、独り若い時の学友であったのみならず、終生の友として親交厚く、のち王子の子リチャードの家庭教師に挙げられた。

王子が、このバーリー博士から教えられたのは、イギリス語、フランス語、ラテン語の初歩、神学、法律その他当時行なわれた一般理学の概略、及びスコラ哲学の大要であった。スコラ哲学は、ギリシアの哲学者の説とキリスト教の教理とを調和して、一つの系統をつくったもので、極めて混雑した不完全な哲理である。あるいはこれを煩瑣哲学と訳しているのも、当らないではない。

しかして、当時平民から王侯に至るまで、すべてを通じて広く人々の間にもてはやされていた読物は、フランスの小説、カール大帝、騎士ローラン、アーサー王などの武勇譚を中心にした騎士道文学であった。これらの小説のうちには、教科書として用いられた物もあった。王子らも、また必ずやこの種の小説を手にしたことであろう。特にアーサー王物語の如きは、王子及びその学友には、込み入った煩瑣哲学の講義に万倍した興味を起こさせたことと思われる。現に王子は、アーサー王物語に記された騎士の行動をもって、常に己の標準、理想としていたようである。

それについて、ここに説きもらすことができないのは、王后が結婚の際エノーから王后に従って来て、そのまま王后附きの武官となっていたサー・ウォーター・ド・マンニーのことで、彼は、特別の任命は受けなかったけれども、事実において王子の武の方の教師ともいうべきものであった。マンニーは、剛勇にして、大胆、戦場の場数も多く踏んでその功労少なからず、イギリス、フランス、さてはネーデルラント地方に勇名赫々たる騎士であった。されば、あらためて任命するなどという事はなかったけれども、王からはそれとなく依託されもしたろうし、またもとより忠勇の騎士なれど、その主の若君をあるが上にも立派に育てあげようとの心もあった事とて、常に王子に武勇物語を講じ、武芸の極意、騎士の心得を教え、トーナメントのある時は、必ずや王子の側に侍して、試合の優劣を評し、その勝敗の間にも、行動の純潔さては卑怯の点を指摘し、かかる所ではかくすべきもの、この際はこう立ち振るまうべきものなど、丁寧に説き教えた。

トーナメントは、プランタジネット朝の時に始まったものであるが、一私人にしてこれを行うことは禁じられてあった。これ貴族がトーナメントに托して党派をつくるの機会となし、あるいはために私怨遺恨を含み、ひいては貴族騎士らの間に私闘を醸すことが少なくなかったからであった。エドワード三世もこれを好み、依然私人のこれを催すことを禁じたに関わらず自らはしばしば公開した。ことに王子の幼少の時分は、ほとんど毎年行われた。騎士らは、この機会において名誉をあげ、かつ貴婦人の愛を得んとし、さながら戦争の開かれるのを待ちでもするように、このトーナメントの日の近づくのを待ったのであった。

こういう風だったので、王子もまた大いにこのトーナメントに興味を持ち、これに対するマンニーの講釈は、とりわけ熱心に聴いて、深くその胸にたたみこんだ。思うに、王子の人格は、恐らくはバーリー博士よりも、マンニーに負うところの方がむしろ多かったであろう。何となれば、興味を伴った教訓は、その効果が一層大きいからである。しかしてまた王子は、天性武勇の気性に満ちていたからである。

この他母后は、自ら王子に宗教の教義を説き、礼節を教えた。のちに至るまで、王子が常に敬虔の心深く、神に仕えて純誠の情厚かったのは、全くこれがためで、王子が一面優雅にして礼儀作法の上にその非点のなかったのも、またこの母后の膝下における教化によったものであったろう。

王子の生まれた年、すなわち一三三〇年の九月十六日において定められたところによると、当時王室のものであったチェスター伯領の収入のうちの五百マルクを王子の費用にあてられたが、のち一三三三年五月十八日に至って、王子をチェスター伯に封じ、次いで一三三七年三月十七日に至り、七歳未満の身をもって、コーンウォール公に封ぜられた。これまでイギリス王は、ノルマンディー公と称し、アキテーヌ公と称していたけれども、イギリスの国内では、その時までは公爵というものはなかったのであった。イギリスの国内で公爵となったのは、このエドワード王子が最初だったのである。

しかして、この年において、教皇ベネディクトゥス十二世の使節がイギリスへ来たので、この幼いコーンウォール公は、サーリー伯その他の貴族とともにロンドン市外一マイルのところまで出向いて、かの使節を迎えた。これ実に、王子が公の儀式に出た最初の記録であった。

越えてその翌年、すなわち一三三八年に入り、王子は俄かに非常の大役を負うことになった。すなわち王が外征をする事になったのにつけて、王子は、その留守中王に代わる王国の摂政役に任ぜられたのであった。もっとも王子が如何に英材であったとしても、おりから八年未満に過ぎない時だったので、実際の事は、総てカンタベリー大司教ストラトフォードを議長とする、顧問会議において処理されたのであったが、しかも、単に名目というだけではなく、王子が出席されなければ顧問会議は開くことができなかったのである。また国会の如きも、この王子の名により招集される事になっていたのであった。

さて、王はどうして外征するようになったのかと言えば、それは、この年において王はいよいよフランスの王位を争う事に心を決し、まずフランスへ攻め入る策源地たらしめんがために、フランドルを略取せんとしたのであった。しかして、これ実に百年戦争の発端だったのである。

第二章 了

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