騎士道の華
第三章 経済的利害開戦を促す

フランドルは、今のベルギーとオランダの最南部及びフランスの最北の一部を含んだ地名で、当時の支配者たるフランドル伯はフランス王の臣下で、その姻戚であった。しかるに、このフランドル地方は、ガン、ブリュージュ、イープルをはじめ、羅紗製造を以って知られたところで、その原料たる羊毛は、すべてイギリスに仰いだ。フランドル伯は、代々フランス王に忠誠であったものの、その人民は、経済上の利害関係からイギリスと親しみ深く、従ってイギリスに同情を持っていた。これに反してフランドルの貴族らは、多くはフランス王に心を寄せたので、フランドル伯もあるいはフランス王に従い、あるいはイギリス王と同盟することもあって、その態度が一貫していなかった。

フランス王フィリップ四世の時、フランドル伯がイギリス王エドワード一世に党したので、フランス軍攻め来たって伯を虜にしフランドルは一時その直轄地となった。しかるに、元来が商業の盛んな地方の人民の癖として、フランドル人は自主自由を愛したので、フランスの代官シャチョンが圧政を行うや、人民はたちまち反旗を翻し、職工組合長ペートル・コニンク、屠肉組合長ジョン・ブレイテルらの率いた民軍は、一三〇二年七月十一日クールトレーの合戦に、落し穴の計略を以ってフランス軍を全滅し、夥しく騎士の拍車を分捕ったので、さてこそこの合戦を「拍車の戦い」と言った。中古において、烏合の民軍が堂々たる騎士軍を破ったのは、稀有の出来事であった。それで、フランスもフランドル伯を放ち還してこれと和睦した。

かくてイギリスとフランスとの軋轢ようやく甚だしくなるや、一三三七年エドワード三世王は、ついに、フランドル地方へ羊毛を輸出することを禁じた。ガン、ブリュージュ、イープル、その他の諸市の打撃を蒙ったことは非常で、織物業者は一時にその産を失い、職工は皆その職に離れて路頭に迷う有様となった。

ここにおいて、ガンの豪族にして羅紗の大製造所を有し、附近の諸市間に最も勢力あるジャック・ファン・アルテフェルデという者、この窮状に激発されて職工組合党の巨魁となり、封建的抑圧に反抗する産業自由発展の運動を起した。これ実に、中古的社会組織に対する近世的経済運動の初めであった。しかして、一三三八年の早春から、彼は単独にエドワード三世に向って談判を開き、当時財政困難に苦しんでいたエドワード三世に金を貸す事を条件にして、羊毛輸出の禁を解かしめたので、フランドル地方は俄かに蘇生の色あり、職工らは、その巨魁たる彼を、さながら天から送られた天使のように謳歌し、崇拝した。

フィリップ六世王及びフランドル伯ルイは大いに驚き、アルテフェルデは畢竟イギリス王に従はんとするものであろうと推して、彼の運動を阻止する強圧手段を取った。アルテフェルデも、その勢力なお一時的で薄弱なのを思い、フランドルを中立地とするの条件の下に、ついにフィリップ六世王に屈した。かくして一三三八年の六月、エドワード三世王とフィリップ六世王との間に、将来如何なる事が起ろうとも、フランドルを戦地となさず、また互いにフランドルに対する商業上の交通を妨害することなかるべしと約するに至った。フランドル伯ルイは、これに反対したけれども、その王が承認する意思だったので、やむなく服したのである。しかしながらこの約成り、イギリスから羊毛の輸入されること旧時のごとく、フランドル地方の産業は再び活気を呈する事になったので、アルテフェルデの声望は隆々としていよいよ勢力を加え来り、フランドル伯はほとんどその捕虜のごとく、ただ虚器を擁するに過ぎず、すべてアルテフェルデの言うところを用いなければならなかった。

これらの事件と前後して、フランスの海軍は、あるいはアキテーヌ地方を脅かし、あるいはイギリス海峡のジャーシー島、ガーンジー島、ワイト島などを侵し、またサザンプトン港に上陸しては、市を焼き財産を奪って乱暴狼藉を極め、ポーツマスにおいては、イギリス艦隊を襲って、その最大艦たるクリストファー及びエドワード等を捕獲し去った。

エドワード三世は、四囲の情勢到底フランスと和すべからざるを察し、ついに決然として兵を以ってフランス王位を争う事に意を定め、まず侵攻の策源地として、フランドルを固めんがために、一三三八年七月十六日、進んでフランドルに向った。

百年戦争は、一三三九年から始まったように言われているが、実際は、敵対行為はすでにこの年すなわち一三三八年から始まっていたのであった。

しかして、エドワード三世は、アルテフェルデと議して、自らフランス王としてフランドル伯をその臣下たらしめるがために、ガンを初め、フランドルの諸市に多くの特権を与え、かつ、先にフィリップ二世が奪った地をフランドルに与える事を約し、以ってこれをフランス侵攻の根拠とせんとしたのであった。ルイ伯は、かくと聞くや、堪りかねてついにフランスに走った。

この事があって、エドワード三世は人望を得る一方策として、王子エドワードを、一三三九年のキリスト降誕日の礼に参すべく、フランドルのアントウェルペンに招いた事があった。同市は、当時すでに繁華な海港であった。王后もあまたの女官と共にそこに在って、朝廷の盛儀は大いに市を賑わしめつつあった。時にコーンウォール公たる王子はまさに九歳であったが、その優にやさしい容貌と、その閑雅な挙止とは、フランドルの女子らの推称を博し、その骨組の逞しく健やかげなのには、男子らをして大いに末頼もしい心を起さしたという。このおりから、王子は初めてジョン・チャンドスという若武者に出会った。チャンドス初陣に功あり、フランス出師について、王自ら式の先達となり親しくその剣を肩に加えて騎士となすの礼を行った。彼の勇武絶倫にして、しかも聡明なる、終生黒太子に仕え、顧問として参謀として、政治にも戦争にもその股肱となって多くの功をたてた。

かくて、エドワード三世とアルテフェルデとの間に議せられつつあった協約は全く成立し、翌一三四〇年に入り、エドワード三世はついに堂々としてフランス王を名乗るに至った。しかして、まずその第一戦はスロイス沖の海上において開かれた。

第三章 了

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