かくしてエドワード三世は、この年を以って、『イギリス国における統御の第十四年、フランス国における統御の第一年』と称するに至った。しかし、王はイギリスの政務が多端で、このまま長くこのフランドルに留まっていることができなかったために、二月十一日まずイギリスへ帰った。
さて、この場合にフランス側はどうしていたかと見ると、フィリップ六世の方も、決して受動的ではなかった。一方において、アキテーヌ地方に圧迫を加えると同時に、しきりに海軍を放って海峡の諸島その他を脅かさしめ、またその太子ジャンをノルマンディー公とし、ノルマンディー人民をして大いにイギリスの沿岸を荒らさしめた。元来ノルマンディー人は、海上の活動に慣れているのみでなく、敵愾心の盛んな人民だったので、彼らは単に敵国の海岸を襲ってこれを脅かすに止まらず、大計画の遠征を企ててイギリスに攻入り、その公ジャンをしてイギリス王兼ノルマンディー公たらしむること、かのウィリアム一世の如くしようとした。流石はその昔北方の猛族たるノルマンの子孫だけあって、勇敢にしてよく進みよく闘い、大いにイギリス人の胆を寒からしめた。
とにかく、この頃はフランスの海軍が優勢であって、常に海上を制していたので、エドワード三世は、つとにこれを圧するだけの海軍を起さなければならないと考えていた。イギリスは、一三三八年から一三三九年にかけて、フランスの海軍のために威嚇されること甚だしく、ことに一三三九年五月サザンプトンに現れたフランスの海軍は、その二十七日上陸してヘースティングスを荒らし、更にプリマス港において数隻の英艦を焼き沈め、のち二日再び来たって総ての艦船を火炎の中に沈め、多くの家屋を焼いた事さえあった。フランスと戦うのには、どうしてもまず制海権を回復する必要があったのである。これエドワード三世が、第一着に海軍拡張を企てた所以だったのである。
かくしてエドワード三世は、海軍の拡張に鋭意して、一三四〇年に入り、その拡張計画のようやく成るに及び、意を決してその年六月二十日を以って自らトマス號に乗込み、翌々二十二日帆を張って征途に上った。かねて、フランスの海軍がスロイスにある事を探知していたので、まずその方向に進んだ。率いた艦数は、初め二百隻であったが、途中において、サー・ロバート・モーリーの率いた北方艦隊の五十隻がこれに加わったので、総勢ここに二百五十隻となった。
イギリスとしては、かくの如き大艦隊を編成して、敵軍攻撃に向った例は未だ無い事で、自らトマス號に乗り、この大艦隊を率いて堂々海波を圧して敵国に進むエドワード三世は、雄心勃々、意気すでにフランス軍を呑んで余りあるものがあったのである。
越えて二十三日の正午頃、このイギリス艦隊は、舳艫相含んで、フランドル・ブランケンベルク沖に達したが、時に彼らは、十マイルを隔ててスロイスの港口に、案の如くフランス艦隊の、来れ戦わんとばかりに、陣形正しく厳然として待ちかまえているのを目撃した。スロイスは、現今の地図では、海岸から数里内地へ入った村であるけれども、その頃は、深い良港の奥にあったのである。かくと見るや、エドワード三世はサー・レジナルド・エバム以下騎兵若干を上陸せしめ、まず敵情を偵察せしむると共に、諸将を会してあらためて戦闘方略を議した。新たに編成されたイギリス海軍の、大いにその威力を発揮すべき機会は、まさに目前に迫ったのである。エドワード三世は、果たしてその希望を遂げる事ができたであろうか。借問す、海上第一戦の結果や如何。
第四章 了