騎士道の華
第五章 海上の勝利仏の第一防御線を破る

スロイスにあったフランスの海軍は、大艦およそ百九十隻と、ほぼ同数の小艦とであった。小艦は、あまり戦闘の役に立たなかったが、その大艦中の十九隻は、特に大型の艦で、しかして先にイギリスから捕獲したクリストファー、クイーン、エドワード、ローズ等もその中にあったのである。

このフランス海軍の統率者はノルマンディー人ヒュー・キリエという戦いに慣れた猛将で、別将として、ニコラス・バルミュシェーというものがいたが、これは主に会計のことを司った。また大艦の大部分を占めたジェノヴァの海軍に長たるものは、バルベナァルという勇将であった。乗組人員は、あるいは二万五千人といわれあるいは三万五千人であるとも言われている。実数はその中間ぐらいであったろうと思われる。しかして、大将のヒュー・キリエは別将のバルミュシェーがあまりに倹約に過ぎるために、万時不整頓であるというこを以って彼を責め、両将の間とかく一致を欠くことが多かった。

さて、フランス海軍の方でも、イギリス艦隊の近づき来れるを知るや、軍議を開いてその作戦方略を議したが、その時、かのバルベナァルは、速やかに洋上に出でて、行動の自由なところで戦うべきことを主張したけれども、フランスの諸将らは、この正当なる戦略に従おうとはしなかった。しかして、激論の末、ついに双方の主張をやや折衷して、港口まで出る事になり、各艦運動を起して陣容を張った。すなわち大艦を前に四列の横陣を作って各艦錨をおろし、各列の艦は、鎖もしくば綱を以って連結した。しかして、この大艦のうちでも、ジェノヴァの諸艦には弓手があったが、フランスの諸艦にはこれが無かった。

イギリス方の陣立はと見ると、これは二列横陣で、前列には大艦を置き、第二列には、小艦を置いた。しかして、射手を多く乗り組ました大艦の間へ、敵艦突入に適した闘士を載せた小艦を入れ、これとかれとを相隣りせしめた。第二列の小艦は、皆弓手を載せた。すなわち、大体において、弓手はイギリス側の強点だったのである。フランス側ではジェノヴァの艦のほかには弓手を持たなかったので、かれらは、石を積んだ小舟をその帆柱に繋ぎ、これを投石の用に供して敵にあたらんとするに過ぎなかった。

あけて二十四日の朝、イギリスの艦隊はおもむろに運動を起して、やや北方に航した。おりから六月の天は清らかに晴れて、海には微北東風が軽く碧波の上を撫でて吹いていた。時にフランス軍にあっては、イギリス艦隊のこの運動をもって、かれに戦意のないものと思いあやまり、たちまちこれを追わんとして、少しく西北の方向に艦首をむけて総列共に航し出した。そのうちには、錨の鎖を切ったものもあった。

かくて、やや北方に進んだイギリス艦隊が、風上の好地位に達するや、エドワード三世は、いでこそかかれと全軍に攻撃命令を発した。イギリス軍の前列司令官サー・ロバート・モーリーは、ただちにかの被捕獲艦クリストファー目がけて襲いかかった。ハンテントン伯、ノーザンプトン伯は、各々その艦を以ってこれに次ぎ、王子エドワードの武の教師たるサー・ウォーター・マンニーの艦長たる第四番艦もまた進んで戦いを開き、他の諸艦また遅れじものと、一時に攻めかかった。フランス軍は御参なれとばかりこれに応じて、かつ防ぎかつ戦い、両軍ここに入り乱れてたちまち大混戦となった。

イギリス方は、まず弓手をして矢を雨の如くに飛ばして敵を射すくめしめ、その隙に乗じて敵艦に突入を試み、短兵急に攻めたてた。フランス方も、また極めて勇敢に戦ったが、しかもイギリス方の戦術と攻撃の猛烈なために、次第に退けめになって、討たるるもの多数にのぼり、かかる間に、クリストファーはたちまちイギリス方に奪い返され、反って鋒を逆に他のジェノヴァ艦に撃ち向うに至り、フランス軍の前列は、みるみるうちに潰滅した。前列の敗亡を見るや、後列の士気大いに阻喪し、見苦しくも逃げ出さんとした。そのために、かれらは却ってイギリス軍に囲まれ、むしろ一層の窮地に陥ったが、ジェノヴァの漕船から成る第四列だけは、すこぶる機敏に逸走したので、過半敵の包囲の外に出た。ジョン・クラップの率いたイギリスの分隊は、それと見てこの第四列を追撃したが、かれらは極力防戦して、ようやく逃げおおせた。けれどもそのうちの二十四隻は、数日ののちに至って捕獲された。

しかしてこれ以外のフランスの諸艦は、ほとんど全滅してしまったのである。戦闘は正午に始まって暮れに及び、フランス及びその同盟軍の死するもの二万五千、イギリス方においては、四千人を失ったのみという。多少誇張されたものと察せられるが、しかもフランス軍の全敗に帰したという点は、疑いを容れない。大将キリエは戦死し、バルミュシェーは生捕りにせられたが、バルミュシェーは先にイギリスの海岸を荒らし、その際に残酷の行為があったので、復讐として殺され、その上屍体は、彼の旗艦であった艦の帆柱に吊り曝された。

イギリス方の主な戦死者は、王の又従兄弟たるサー・トマス・ド・モンサーマーだけで、吾人のすでに知れるサー・ロバート・モーリーや、かのランカスター伯ヘンリーの子ダービー伯ヘンリーや、サー・ウォーター・マンニーや、サー・ジャン・チャンドスらは、いずれも最も勇敢に戦って、類稀なる働きをしたという事である。

エドワード三世が、苦心の結果整備し得たその海軍を率いて、初めて試みた海上の第一戦は、ここに首尾よく大勝利を占め得たのであった。この戦勝の報告は、エドワード王からわが摂政コーンウォール公エドワードに送られ、次いで、王からカンタベリー大司教に送られた公文は、ただちに公衆の前に読み上げられ、しかして、一般人民に対し感謝の祈祷会を催すべきことを命令した。

実に、この海戦の勝利により、イギリスのフランスに攻め入るべき道は初めて開かれたのであった。何となれば、海上の安全が保たれない間は、イギリス軍にしてたとえフランスに入るも、その本国との交通が遮断せられるおそれがあったからである。これ島国が、大陸に事をなさんとするに臨み、常にまず制海権を得るのが、第一の絶対条件であることを事実に語るものであった。

第五章 了

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