騎士道の華
第六章 名将もまた債鬼に敵せず

エドワード三世の名声は、スロイスの海戦によって、ヨーロッパの四方に響きわたった。けれども、その結果は充分に利用されなかった。

当時の戦争なるものは、今から見る時は、一体に極めて悠長な、のんきなものであった。現今における強国間の戦争は、数週間で決せられるのがむしろ常例であって、日露戦争の如く、二年も続くことは、ヨーロッパなぞでは到底あり得べからざる例だと言って、これすらのんきであると評したものさえあったくらいである。けれども中古時代には、国際戦争と私闘と局所紛争と、その区別明らかならず、とかく長年月に渡ったのである。

これは、ひとり人の心が悠長であったのみならず、軍備を整えるのについて、今のように平時から完全に用意がしてあるので無く、事の起ったその時々に兵を集め設備をするので、種々の故障があって万事に手間がとれたためであった。ことに、封建時代においては、武士に対する出兵催促なども、かれら各自の都合もあって、なかなか早急に運ばず、かつまた何にしても先だつものは、金で、とりわけ金銭に欠乏がちな上に、金融機関の欠乏していた中古時代においては、この軍用金を調えるのが容易のことでなかった。

エドワード三世は、やや現代式の外交術を解し、この以前から、ドイツ王すなわち神聖ローマ皇帝ならびにドイツ諸侯のある者を味方としようとしつつあったが、しかもこれがために入費多く、いとど財政上の無理算段を重ねざるを得なかった。かれは、ただ国内においてしばしば新税を徴するのみならず、かのフランドルは商業の盛んな地方とて、資金も比較的豊かだったので、その地方の資本家から借り入れた金額は、まことに少々ではなかった。しかしてエドワード三世は、かれらの催促を緩和するために、常にフランドル人の機嫌を取る必要があったので、まずかれらがフランスに奪われた旧フランドル所領地の回復に力を用い、兵をその方面に分った。それらのために、スロイス戦後、その勝ちに乗じ、大軍を進めて一気にフランス本領へ攻め入るべき最良策を取り得なかったのである。しかも、そのフランドル旧領回復の局地戦も思わしく行かなかった。

時に、エノー老伯爵夫人は、フォンテネルなる女子修道院の院長であったが、同夫人は、フランス王の妹で、イギリス王后フィリッパには母にあたる間柄の事とて、両王家のかく血を流して長く相争うを見るに忍びず、両者の中に立って和睦の斡旋をし出した。これと同じにその地方のブラバント公、エノー伯を初め、他の主なる諸侯が、公然もはや戦いを欲せざる旨を唱え、また両王共に内々財政上持余していたのでこの老伯爵夫人の調停は、案外に容易く行われ、一三四〇年九月二十五日、トゥルネーの南の原野にある、エスプレシンの小堂において、イギリスとフランスとの間に、一時、翌年の夏までを限り休戦の約が成りたった。しかして、のちに至りこの休戦の期間は、一三四五年まで延ばされた。

さてこの休戦の条約が成ると、フランドルの債主らは、エドワード三世に対し、かねて軍用金として貸した金の償却方を一層厳しく催促し始めた。しかるに王は同盟を作るためやら、戦士を雇い入れるためやら、彼の好むトーナメントを催すためやらで、さらでも窮乏がちの金櫃はいよいよ窮乏して、本国の人民から少なからず誅求はしながらも、それだけではとても償却の余地などないので、止むなく本国の摂政王子を補佐する顧問府に対し、しきりに送金を要求した。しかしながら、本国においてもすでに引き続いての徴税に困憊していた事とて、顧問府もこれを如何ともすることができなかった。けれども、債主側はそんな事には頓着なく、約束の履行を迫っていよいよ烈しく督促した。

流石百万の敵をも恐れない豪邁な王も債鬼の来襲には適し難く、一つには本国の措置にもどかしがって、ついに一三四一年十一月二十五日、言を郊外散歩に託し、王后及び八人の武者を従えたまま、忙しくガンを脱出し、ひそかに船に乗って本国に向った。貧すれば果敢なや、身はイギリス王の栄位を以ってしても、時にかかる憂きめも見なければならなかったとは。あわれ、王のこの行為は、事実借金のために夜逃げをしたのに他ならなかったのである。

かくて、エドワード三世は、途上一通りならぬ風波の難に苦しみつつ、二十九日の黎明に至って、ようやくロンドンに着したが、もとより予告のなかった帰府の事ゆえ誰一人も出迎えず、王はただちにタワー、今なお現存している城に、行った。同所には、王子エドワード以下の王子たちがいたのであった。王はタワーに行って見ると、エドワード以下の王子は事無くいたはいたが、そこにはただ三人の従者がいるのみで、一人の番兵も詰めていなかった。王は大いにその警衛の緩怠を怒って、タワーの守備長、ロンドン市長その他の役人を召喚してただちに拘禁し、また摂政顧問府長たる大司教ストラトフォード、及び財政の主任たる司教ロジャー・ノースバラを免官した。

当時フランスの拿捕船は、イギリスの諸所に出没し、かれらはすこぶる大胆だったので、あるいはもしタワーの防備無き事かくの如きを知ったならば、かれらは密かに上陸してタワーに忍び入るべき計略を立てて、王子らを人質として奪い去るような事を敢えてしないとも限らなかった。王の怒るのももとより無理ならぬ事であった。けれども、一方から言えば、王が外征のために誅求さらに誅求を続けたために、本国政府の金庫は著しく窮乏して、行政費などの不足は少々でなく、ために諸事共に行きとどかない点が多かったようである。これを以って見ても、中古のヨーロッパの経済状態が如何に萎靡枯渇の境にあったか、また当時イギリスの財政が如何に窮乏荒廃の極にあったかを知る事ができよう。実に目下は世界の富国として栄華に誇る英国も、その頃はほとんど信じられない程の憐れな状況にあった。

第六章 了

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