ウェールズは、イギリスの西にある山地であるが、初めエドワード一世がこれを従えんとした時、住人屈せずしてややもすれば叛いたので、王はウェールズの諸侯を集め、『予は汝等の愛国心を敬し、ウェールズに生まれた者をもって汝等の主人となすべければ、汝等はよくこれに従えよ。』と諭した。諸侯らは、この王の言を聞いて共に満足の意を表し、感謝しながらも、さていずれの人をもって、我々の主人とするのであろうと、思い迷っていた。しかるに、王は、少し前にウェールズのカナヴォンにおいて生まれた、その太子エドワードを衆に示して、これこそは予のいう汝等の主人なれと言って、彼らに対して、この幼い太子の前に忠誠の誓いをさした。これから、代々太子をプリンス・オブ・ウェールズとするのが例となったのであった。
越えて一三四四年に至り、王は太子を騎士となし、ガーター勲章なるものを創設して、これを太子に与えた。ガーターとは、英語の靴下どめの紐の意で、この勲章は、胸へかけるのでは無く、膝の下の長靴下の上に結びつける青い紐で、その表には Honi soit qui mal y pense (これを悪く思う者は害を被らん)という文字が記されてあった。
この勲章が、懸けどころが著しく他と違っているために、その起源に関し、種々の説がある。普通人の耳にするものは、美貌花の如きソールズベリ伯爵夫人(一説に王后フィリッパ)が、舞踏の際知らずその靴下どめを振り落したのを、はからずも王が拾いとって、夫人の恥をかくさんとの任侠心からこの語を放ち、予はこの靴下紐を以って、すべての貴族が欲望する如き名誉あるものとなさんと言って、ついに勲章となすに至ったのであるという説である。けれども、これは十六世紀に至って出来た伝説で、事実ではない。
案ずるに、一三五〇年、大司教がガーターに関する演説をして、その中に、これを以って武勇の団結を意味するといったのは恐らくはその真実を語ったものであろう。けだし、王は、騎士道のようやく衰え行く形勢あるを憂い、これを再び盛んならしめんとし、かの伝説のアーサー王の円卓騎士にならい、四十人の騎士の一団を作り、これを青靴下紐の騎士団と名づけ、かねてアーサー王の創設したと伝えられるウィンザー城を再築し、その内に円卓を作った。これらを見ても、かの大司教の演説中に語られたものが、ガーター勲章の真の起源であったろうと信ぜられる。
なお注意すべきことは、この最初のガーター騎士中に、サー・ウォーター・マンニー、ノーザンプトン伯、サー・レジナルド・コバム等、その武勇を幾戦場に練った老武者を加えず、多くは年少者で、黒太子の如きは十四歳未満、ソールズベリ伯の如きマーチ伯の如き共に十六歳で、サー・ヒュー・クルトネーは十八歳だった。しかして、二十三歳以下のものが、この他に八名あったのである。またこの騎士団は、必ずしも高貴な人のみでなく、二十六人中九人は、終身単に騎士たるにとどまった。これからも察すると、エドワード三世が、この勲章をこしらえた時は、太子を中心として武勇の花たる一団を作り、終生その補翼たらしめんと考えたもののようであった。
しかして、これらの最初のガーター騎士の老死したるのちには、功勲の顕著な騎士を以って補欠する習慣となり、その習慣は今に続いて、さらに当時に増して名誉の高いものとなった。現に、我が先帝陛下及び今上天皇陛下も、この栄誉ある勲章を有せられ、世界有数の騎士と仰がれ給う。
第七章 了