されば、エドワード三世は方面を変えて、一三四二年十月サンドウィッチから乗船してブルターニュに上陸し、当時の戦争の習慣とて、四方の土地を荒らし、さらにヴァンヌに迫って、厳しくこれを囲んだ。この時フィリップ六世も、また軍を率いて来たり、あわや両軍の間に接戦を見んとしたが、双方共に物資の欠乏に加うるに兵士の疾病あり、互いに進出を危ぶみつつあった折りから、教皇クレメンス六世の使節が来て仲裁をしたので、これを良い機にして、一三四三年一月、両王の間に再び休戦の約成り、エドワード三世は帰国し、和議の談判は、教皇の在るアヴィニョンに開かれたけれども、イギリス側は、教皇がフランス王に偏頗なことを忌んで、議は容易にまとまらなかった。
かくて、一三四四年に入り、フィリップ六世は、イギリスに通じたとの嫌疑を以って、クリッソン以下数人の騎士を刑した。これを聞くや、エドワード三世は大いに怒り、条約面における休戦期限たる一三四五年の至るを待つに耐えざる程に、その心を苛立たした。
しかして、その年七月ウェストミンスターに開かれた国会は、王に、『この戦役を戦闘により、もしくば名誉ある和睦により、早く終結せしめられん事を請い願い、しかして、教皇の書状、依頼等に頓着なく、剣の力によりて決せられん事を望む。』旨を上奏した。ウェールズ公たる太子は、王族として初めてこの議会に列席した。
王は、この上奏に対し、同意の趣を答え、国会は、軍資のために、十五分の三の所得税を協賛するに至った。
ここに注意すべきことは、国会の上奏中にある『教皇の書状依頼に頓着なく』という意味である。かつてはグレゴリウス七世が宗内一統一切衆生の頭首となる大願を起し、インノケンティウス三世に及びほとんどその理想実現され、各国の王侯共にその鼻息をうかがうに至ったのに、今や、イギリス国会のこの上奏に見ると、教皇のなすところに一向重きを置いていない。これはどうした訳かと言うと、中世の中頃は宗教熱盛んにして、十字軍により一時炎々として燃えあがったが、その末は、かえって焼け尽くして勢いおとろえ、中世末期には、宗教心もやや薄らいで、ようやく自由の気を生じつつあったために、信仰の中心たるべき教皇も次第に力を失い、これに加えて、各国国家主義の発展は、宗内統一の理想と両立せず、いよいよその傾向を助長する事となった結果であった。しかしてボニファティウス八世は、この情勢を再びインノケンティウス教皇時代にかえし、グレゴリウスの大理想を再現せんと焦ったけれども、時世はすでに教皇に組みしなかった。すなわち、彼は、フランス王フィリップ四世が、教皇の許しを受けずして聖職者に課税した廉を咎むるに及び、一三〇二年、フィリップ四世の初めて招集した、貴族聖職者平民の三部からなる三部会は、これを拒否して王の措置を正当であると認めたので、教皇は憤って、フィリップ四世を破門し、フランス国の全部に宗罰を加えんとした。しかるに、フィリップ四世は、人をもて、教皇をアナーニに捕らえてこれを辱しめ、教皇はそれがためについに憤死するに至った。そののち、フィリップ四世は、フランスの聖職者クレメンス五世を教皇として、一三〇九年彼をフランス王領に接した教皇領のアヴィニョンに移し、これから一三七八年まで、教皇は代々ここにいた。これを、イスラエルの歴史にある事蹟に真似て、教皇のバビロン捕虜時代と号した。
この間、教皇は、多くはフランス王の意思するところとなり、その政治上の道具となった。されば、これまでイギリスとフランスとの間に立って、しばしば調停したことはあるけれども、常にフランス側に贔屓したので、イギリス人は教皇を喜ばなかった。ことに、かつて、イギリスの暗王ジョンが、インノケンティウス三世に破門せられ、その赦免を得んがために臣下の誓いをなし、イギリスを教皇から封土として受けた事があって、そののちイギリスの国会はこれを認めなかったけれども、しかもこれらの事から、ややもするとイギリスに宗教税を課せられるので、イギリスは教皇に対し、日頃からあきたらないところがあったのである。のちかの宗教改革に際し、イギリスが官民相一致してローマ教会から分離したのも、その一つの原因はここにあったのであった。
されば、かのエスプレシンの休戦条約の中にも、両王は、『教皇もしくは教会の主なる人によって、この条約文の修正をなし、これを一方の王に迫る事なかるべし。』と互いに誓った条文があった。これを見ても、その消息を察することができよう。
かくの如くにして、教皇の居中調停も功を奏せず、ついに一三四五年に至り、エドワード三世は、敢然としていよいよ再び戦いを開く事に意を決した。
第八章 了