騎士道の華
第九章 堂々敵国に入る太子の初陣

エドワード三世は、いよいよ再戦の決心をかためたが、しかもこの決心を敢行せんとするにあたって、彼をして最も困難を感じせしめたのは、金にあった、軍資の調達にあった。

これより先、ネーデルラント地方、ライン地方、イタリア地方の資本家は、王に対し轟々として貸し金の払い戻しを迫ったが、王は債主に向って、『予は約束の期限において、予が債務を果たしあたわざる事を悲しむ、いな赤面にたえず。』と言ったのみで、すべてこれを拒絶した。これがために、イタリアの富豪バルディ家ペルッツィ家などは破産するに至り、またフィレンツェの如きは、その影響を受けて経済上の恐慌を招いた。中世には、王侯が、かくの如き不信用を敢えてしたことは、少なくなかった。利息の高かったのは、一つにはこれがためであった。

王はこういう有様で、外国の資本家に対し債務を果たすことができなかったので、とても彼らからこの上の資金を借り入れることはできなかったために、もっぱらイギリスの経済界に依頼する他はなかった。ここにおいて、王は、ロンドンにおける資本家の巨頭たるギョーム・ド・ラ・ポールと称する、モーティマー以来政府の用金調達方を勤めつつあったものを、裁判官となし、特にバロンの爵を授けた。イギリスの商人にしてバロンとなったのは、これをもって嚆矢とする。

しかしながら、王の信用は一般に高からず、金の調達も意の如くならなかったので、王はただひたすら議会に依頼した。しかして、議会は、一三四一年、王が議会に対し約束を破ったことがあったに拘わらず、特にフランスに対する敵愾心が高まった結果、この事を咎めずして、先に記した如く寛大な協賛をなし、王をして軍資をつくるに便ならしめた。

かくて、一三四五年六月、エドワード三世は、スロイスにおいて功労のあったダービー伯ヘンリーをして、南方アキテーヌ地方に活動せしむべく、まず発してバイヨンヌに上陸せしめた。しかるに、その地方の貴族ら、争って馳せ参じ、ヘンリーまた武略に富んでいたので、しばしばフランス王の領内深く攻め入った。しかして、その勢いは日をおっていよいよ盛んになったので、フィリップ六世も大いに驚き、太子ノルマンディー公ジャンその他多くの勇将を南方に派し、もって彼を防がしめた。

エドワード三世が、ヘンリーをして南方に活動せしめたのは、これ自分がその地方を根拠として、フランスの大軍を南方に牽制し置き、不意に進んで近いノルマンディーから攻め入ろうと計ったのであった。しかして、王は、ヘンリーを発せしめたのち、その準備にかかり、軍勢を集めることに腐心したが、集めても集めてもなお不足だったので、果ては、罪人をさえ引き出し、罪を赦すの条件をもって軍隊に編入した。

我が太子エドワードもまた王より、半ば槍手、半ば弓手から成るウェールズ兵四千人、他に太子附きの騎士等を率いて、一三四六年一月までに、ポーツマス港に至るべき命を受けた。

軍資の調達といい、兵員の徴収といい、今度の出征に関する王の努力はいうばかりもなかったが、やがて、その年も暮れ、一三四六年の六月二十五日に至り、ようやくにしてその準備は全く整えられた。しかして、王は、太子も十六歳になったので、初陣に伴わんと決心し、第二王子ライオネルを城にとどめて摂政たらしめた。

準備のようやくにして成るに及び、王は、ついに七月十一日をもって、その軍を率いて遠征の途に上った。王は、その行先を敵に知らしめないために、味方にも参謀官の他にはこれを知らしめなかったが、幸いに波穏やかに風もまたよかったので、何の故障も起らず、安らかにイギリス海峡の一衣帯水を渡って、翌朝ノルマンディー海岸のサン・ヴァースト・ラ・ウーグにと着した。ここは、イギリスにとっては、すこぶる記念すべき場所で、後年イギリス艦隊が、フランスの名将トゥールヴィルの率いた艦隊を撃破ったのも、またこのラ・ウーグの沖であった。

イギリス軍のここに船をとどめて上陸せんとするや、フランス方では、もとより少しも思い設けていなかった事とて何らの備えもなく、ただ僅かばかりの土地の民兵がいたのみであったが、彼らはかくと見て大いに驚き、小勢ながらも出でて防がんとしたけれども、太子の旧学友たる若武者ソールズベリ伯の率いた陸戦隊が、たちまちこれを蹴散らしてしまったので、全軍共に極めて容易に上陸を了した。

首尾よく上陸を終わってのち、王は港に近い小丘にのぼり、港内の艦船、上陸した兵士の目前において、自ら剣を取って、先に一旦騎士とせられた太子エドワードに対し、正式にさらにあらためて騎士となすの式を行い、同時に太子の二人の学友ソールズベリ伯、モーティマー卿、ロジャー・ローズ卿その他の若い貴族の多数を騎士となし、もって士気を鼓舞した。

次いで、王はまず四方に兵を派して、奪掠焼打を行わしめた。今であれば、迅速に前進して敵の虚を突き、一挙にしてその根拠を覆すべき方略を採るのであるけれども、その頃は、戦術もまだ幼稚で、ただ敵地を荒らし敵の人民を苦しめ、これによって敵を寒心せしめ、自ずから屈服せしめんとするのが、当時の戦争の常例だったのである。軍隊の規律の厳粛でなかったその時分の事とて、兵士の乱暴や察すべく、実にこの時代における戦争は、今に比してさらに一段の惨禍であった。

されば、エドワード三世の方略も、またこの常例を踏むの他はなかった。すなわち、王は太子と共に本陣に将として進み、その右翼には、ハーコート伯ジェフリー、五百の騎士と二千の弓手を率い、本陣より六、七リーグを離れて進み、特に土地を荒らすことにあたり、左翼には、ウォリック伯の指揮する一隊、やや引きさがって艦隊との連絡を保ちつつ進んだ。しかして、本陣は三隊に分れ、先鋒隊は太子これを指揮し、王は中央隊を率い、ダラム司教殿隊を督した。

かくの如くにして、イギリス軍は行々掠奪をたくましゅうしつつ進んだが、このあたりは、富裕な地方だったので、分捕品は山の如くあった。しかも、軍馬、牛羊、雑穀の類は、すべて王のものとなったけれども、金銭や小さな物品などは、皆兵士らの着服するところなった。されば、軍隊の進行遅々として捗らず。一日に六英マイルを超えることは稀であった。

王は、七月二十三日の正午に至り、カーンに達した。カーンは、当時ロンドンを除いては、イギリスにこれと匹敵すべき市はなかったくらいの土地であった。イギリス軍は、ここへ来るまでには、言うに足るような抵抗に遭わなかったが、この市は、ウー伯、タンケルヴィル伯が三百のジェノヴァの弓手と若干の騎士とをもって守備していて、イギリス王の勧降に応ぜず、厳としてこれを拒絶した。イギリス兵は、何を小癪なとばかり、競ってこれを攻めたが、フランス兵の防戦なかなかに根強かったので、王は、ウォリック伯に命じ、一先ず味方の弓手を呼びかえそうとした。しかるに、ウォリック伯は勇心勃々禁ずるあたわず、王の命に背いて、自らその攻撃に加わった。これを見て、王は今は猶予すべきにあらずと、太子と共に駆け向ってこれを助け、ついに城門を破って乱入した。

この際太子エドワードは、初陣の功名せんと、すこぶる勇敢に戦い、著しく人目を惹いた。しかして、敵将タンケルヴィル伯は、太子附きの騎士の手によって虜にせられ、その他イギリス軍に捕虜となれるもの、ウー伯以下騎士百人従士百四十人を算した。しかも、騎士従士兵卒さては富豪なる市民の屠殺されたるもの少なからず、彼らの武具衣服は剥ぎ去られて、その記をとどめなかったために、いずれが貴人であるかさらに見分けがつかなかったという。

イギリス軍では、一人の従士の他死ななかったが、しかし、弓手、槍手には、市街戦で倒れたものが少なくなかった。それと言うのは、住民らが、狭い市街の両側の二階三階から、石あるいは手あたり次第の家具を投げつけたためであった。これにより、戦いの第一日に生じた死傷者五百人に及んだので、王は怒って、翌日は容赦なく市を焼き、手あたり次第に市民を殺せとの命令を下した。実に、表面華美な西洋騎士道の下に、こういう残忍野蛮な復仇心もこもっていたのである。

しかして、幸いにこれを諫言する者があったため、その惨の極に達せずして終わったけれども、しかもこの諫言も、その主意仁恵のみのためではなく、士卒の規律の余りに乱れるのを恐れた故である。現にのちに太子妃の父となるサー・トマス・ホランドは、このおりから馬で市街を乗りまわし、兵士等の乱雑に陥るのを鎮めんとしたのに、初めはなかなか命令に従わないので大いに困難したということであった。当時の兵士は、いずれも分捕功名騎士の習いと思っていたので、特に太子の部下のウェールズ人などは、その地方に私闘が絶えずあったために、この種の乱暴は、当然の事と考えていたのであった。さらにいわんや、このイギリス軍中には、兵役に従うために特別に赦免された罪人さえ少なからずいた事とて、その狼藉の如何に甚だしかったかは、推測するに足るのである。

第九章 了


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