クレシー村は、クレシーの森の北、メイという小さな河の彼方にある丘の麓にあった。しかして、村の東は、その丘とこれに対する丘との間に、南北に走る谷間をなしていた。これをヴォレー・オー・クレル(出家ヶ谷)と名づく、両丘の高さは、百五十フィートないし二百フィートであった。エドワード三世は、クレシーの森は密な森だから、騎兵の多いフランス軍はこれを通らずして、必然アブビルの本道を進んでくるであろうと察し、それを見こしてこの地の利によったのであった。すなわちここによれば、敵に側面攻撃を受ける憂いなく、かつ場所が狭いので、敵如何に大軍なりとても、その前列は広きことあたわず、されば、騎兵の少ないこちらは、まず優勢なる弓手をもって敵を悩まし苦しめんか、しかる時は、真の騎兵戦を見るに至らずして、十分にこれを撃退することができようと考えて、その作戦計画を立てたのであった。
かくして敷かれたるイギリス軍の陣立てや如何。
まず西丘の麓に陣したのは、太子エドワードを大将とする一軍で、参謀官としてウォリック伯、オックスフォード伯、ハーコート伯の如き思慮に長けたる武将これに従い、ガーター勲章を受けた、名誉の騎士サー・トマス・ホランド、スタッフォード卿、バルノーガーシュ卿、バーソロミュー、さては例のサー・ジョン・チャンドスなど剛勇の面々を初め、この手につくもの重騎兵一千五百人、弓手四千人、ウェールズの槍手三千人、総勢八千五百人と註せられた。弓手には、かねて令を下し、敵の襲撃に接するや、十分にこれを射立てしめ、しかして、敵がなおそれにも屈せず攻め来る時は、左右に退いて、側面からこれを差し挟んで射よ、と伝えた。かつ前面の谷には、方一尺深さ一尺の穴を多く掘り、敵の人馬がここへ来た時たちまちつまずき倒れるように仕組み、しかして、一度つまずき倒れたならば、重い鎧を着け鉄靴に拍車を着けた騎士は、急に起きることができないために、狼狽を極めるその咄嗟に、味方の槍手をして思う存分にこれを撃ちとらしめる計画であった。
太子の軍の側面にやや引き下がって、同じ丘麓の、ワディクール村のこなたに、ノーザンプトン及びアランデル二伯の指揮する一軍が陣した。この手に属するものは、重騎兵一千二百人、弓手三千人、合わせて四千二百人で、騎士はわざと下馬して拍車を脱し、弓手を側面に置き、敵の側面攻撃に備えると共に、太子の前陣にして危うしと見んか、ただちに突出して横合から敵を撃ち破らんものと控えた。
西丘の最高所、ラグランジュの森の前面にあたる、戦場を一目に見ることのできる地点に、総司令官エドワード三世は馬を立てた。その勢およそ八千人、うち重騎兵一千五百、弓手四千、ウェールズ槍手二千五百で、これは総予備隊だったのである。
エドワード三世は、二十六日の早朝、手に白き司令棒を携えて駒に跨り、二人の将官を従えて、しずしずと各陣の前を巡回しつつ兵士らを激励したが、その辞色勇壮にして元気に満ちていたので、全軍期せずして相共に勇躍した。
この巡閲の終わったのは、あたかも午前十時ごろであったが、エドワード三世は、陣にかえって、さらに兵士らに十分の食事と各々一杯の酒を飲ましむることを命じた。兵士らは、欣然として安らかに飲食を果たし、その食器らを包んで輜重車に積み、すでに仕度は十二分にできたり、いで来よ来れと腹を打って各陣地についたが、なお合戦始まるまでにはかなり時間があったので、かれらは兜を脱ぎ弓を前に置いて、悠然草の上に坐し、心静かに英気を養った。
しかも、この間エドワード三世の旗本には、敵の動静を探るために出した、斥候隊からの報告が、頻々として致された。それは皆、フランスの大軍が、刻々にこの地に近く進み来りつつあることを報ずるものであった。フランス軍は、果たしてかくクレシーに迫ったのであろうか。しかり、フランス王フィリップ六世は、敵に三倍する兵力を頼み、勢い猛にこのイギリス軍の陣地に向って、その軍勢を進めつつあったのである。ここにおいてか、すなわちクレシーの大戦は起った。
第十二章 了