騎士道の華
第十五章 仏軍破れて名族多く仆る

太子の旗本勢と、フランドル伯及びロートリンゲン伯の率いたフランス勢とは、互いに死力を尽くして突撃奮闘、ここを詮度と双方火水になって戦いつつあったが、そのうちに、イギリス方の鉾先ようやく敵を圧しフランス方はフランス方は次第に退色だって見えた。フランス軍は、敵陣深く切りこんだ味方の形勢可ならず、ことに、その先頭に翻りつつあったアランソン、ロートリンゲン両伯の旗の、敵勢の真中になびくのを眺めるより、さてこそ危急と覚えたり、彼らを討たすな、とばかりいとど焦り立って、彼らの隊へ続こうとしたが、そこへ行くのには、敵の弓手が両側面に控えた路を通らなければならなかったので、折角突き進んで来ても、彼れらはこれに射追われて空しく突きかえされた。二度突進を企て、三度これをくりかえしても、彼らはついに両伯の軍に続くことはできなかった。両伯の軍は、根かぎりの悪闘を続けたけれども、後に続く味方とてはない事とて、敵の掩撃いよいよ加わり、ほとんど全滅に陥った。両伯は、この時目ざましい働きをしてここに討死を遂げ、名ある騎士の鏡を残した。

フランス軍は、必死になって突撃また突撃、敵陣の切り崩しに全力を傾けたけれども、彼の先鋒の二隊の他は、皆途中で、大方潰滅に帰してしまった。ただし、敗れたといえども、フランス勢の力闘は敢えて敵に譲らず、いずれも皆よく戦った。その中にも、最も顕著なのは、フランドル伯ルイとボヘミア王の盲目王ヨハンの活動であった。

ヨハン王は精力盛んにして事を好み、ドイツ、イタリア方面で絶えず活動し、南船北馬、常に席の温まることを知らなかった。フランスの王室と姻戚関係を持っていたので、フィリップ六世の救いを求むるや、彼は両眼とも盲れていたのにも関わらず、軍を率いて直ちに来援したのであった、しかして、クレシーにおいて戦いいよいよ起るに及び、ヨハン王は左右を顧みて、『戦況如何。』と問うた。左右の騎士は、『ジェノヴァ人失敗し、フランス人は王命により彼らを殺しつつあり候。』と告ぐるや、王は覚えず歎息して、『嗚呼悪しき手始めなるかな。我が子カールは何処にありや。』と言った。『知り申さず、多分は前方にて戦いたまうならんと存じ候。』と答えると、王は、決するところあるが如く、その声を励まして、『諸君、卿らは総てわが臣下なり、わが友人なり、わが戦友なり、予をして今日一撃を試みしめるために、速やかに予を前方に導け!』と叫んだ。騎士らは、皆『承り候。』と呼びあって、さて乱軍となっても、離ればなれになら無いため、一同その馬を繋ぎ合わせ、王を真中に包んで、勇ましくも敵前にと進み出たのであった。かくて、左右の騎士の槍を揮って戦いはじむるや、王もまた剣を振りかざし、盲目ながらも流石場なれた老武者の、勢い鋭く敵に迫り、当るを幸い切り立て切り立て、奮戦した。盲目の王にしてすでにこの奮戦あるを、血気の騎士の如何で一歩も退くべき、彼らの一隊は、敵の猛撃の中にあって、一際烈しく渡り合い、ついに王以下、一隊ことごとくその場に倒れた。翌日イギリス人がこれを発見した時、その乗馬は、依然として繋ぎ合わせたままで、人馬一列に同じ名誉の屍となっていたという。

やがて日は沈み果て、暮雲深くこの修羅の野を被ったが、合戦は、夜に至ってもなお止まなかった。それというのは、前に進んだ味方の形勢いよいよ非なりと聞くや、中陣後陣の騎士らは、憤激一倍、言甲斐無き先陣の面々かな、いで我ら出でで、イギリス人の眼にもの見せてくれんずと、何の猶予もなく、後から後からと推し進んだがためで、彼らの突撃は、前後十五、六回にも及んだ。その勇や賞すべしといえども、しかもいたずらに逸り立つ結果、節制なく規律なく、ほとんど薪を携えて火炎の中へ飛びこむが如き猪勇犬死に過ぎなかった。中には、一騎もしくば数騎の、敵の矢の雨と降る道を潜りぬけて、イギリス軍の旗本へ肉薄するものもあったけれども、いずれも衆寡敵せず、敢無き最期を遂げた。

フランス軍は、こんな風であったが、イギリス方では、一度も逆襲を企てなかった。これ王命で、すなわちエドワード三世は、我が兵少なく、また敵には応援兵の途中にある者なお多きことを知っていたがためだったのである。しかも、ウェールズの槍兵は、ややもすれば命を背いて出で、落馬した騎士を刺し、敵の馬を止め、敵の屍に掠奪の手を加えた。

夜色の加わると共に、自然に合戦は休止された。この夜イギリス軍は喧囂せず、極めて静粛を持し、月なければ諸所かがり火を焚いて、厳しく陣営を戒めた。エドワード三世は、終日兜を被らず、かつその位置を動かなかったが、今しその軍を率いて山麓に下り、太子の陣に近づき、その出でて迎えるや、これを抱いて接吻し、かつ言えらく、『やさしき我が子よ、神は汝に良き忍耐力を与えたもうた。それでこそ吾が子ぞ。汝は、今日最も忠実に振舞った。汝は、君主たるに適する。』と。こう言う王の眼は、無限の喜びに輝いた。太子は礼をなし、自ら謙って、

『これ一つに皆父上陛下の威徳によるのみ。』

と答えた。嗚呼、敵前の陣営粛として、かがり火物々しく夜を警むるところ、この父王とこの太子と、したたかに勝利の鮮血を浴びて憩える三軍の将卒を前に、親しく相対してこの語あり、まさにこれ神の意匠なれる千古不滅の好画図ではなかったか。

エドワード三世は、この夜、三軍に対し厳に騒擾喧雑を戒め、大声を発する事を禁じ、しかして、静かに神に感謝の祈祷をなす事を命じた。

その夜はかくて明けて、二十七日の朝となった。イギリス軍は、まだ昨日の合戦におけるその勝利の程度を明らかにしなかったので必ず夜の明くると共に、敵は攻撃を続行し来るべきを期し、さらに陣立を整えてこれを待ち構えていた。しかして、折りから朝霧深く、眼界遠く模糊としていたが、その中に、遥かに軍の動くが如き影を認めたので、王は、サッフォーク、ノーザンプトンの両伯に、五百の重騎兵と五百の弓手を授け、行ってこれを偵察せしめた。

命を受けた両伯は、彼の霧の中に認めた黒い影のところへ行ってみると、それは北方のルーアン及びボーヴェーなる正兵の部隊で、彼らは前日の戦争の事などは少しも知らず、フランスの本軍を訪ねて、これに合せんがために来たものであった。イギリス軍は、破りやすき敵と見るやたちまち襲いかかったので、彼らは、不意の事とて一溜りもなく散乱した。

両伯は、これを撃破しつつも、なお進んで、さらに敵の一隊に出会った。それは、ルーアン大司教及びフランス国大修院長の率いたルーアンの市兵であった。その部下には、重騎兵もいたので、以前のように左右無く破られもせず、ここに再び烈しい戦いが起ったが、何を言ってもフランス方は、急に思いも設けない襲撃を受けた事とて、長くイギリス方の猛勢にあたるあたわず、ついに両将以下全軍ほとんどその場に滅尽した。この他、前日の進軍に落伍し、あるいは道を失って味方の敗北の事を知らない者など、そこここで出会ったが、両伯の軍は、概ねこれを討って殺した。しかして、フランスの本軍とも見るべきものは、全くこのあたりにその影を見せなかった。

されば、サッフォーク、ノーザンプトンの両伯は、王の朝の礼拝から帰って来た時に帰陣して、ありし次第を逐一に報告した。ここにおいて王はもはやフランス方の規則立った軍の来る事無きを知り、ヘラルドを送って敵の死者、その階級等について細やかに調査せしめた。ヘラルドは、騎士の作法、先例、系図、紋章等の事に精通した封建の副産物的役目で、常に王の傍らにあり、トーナメントの審判者、指図人、世話役となり、また使節などを勤める者であった。

王の命を受けたヘラルド等は、戦場に行って、鎧の紋、兜の記章などにより死者の身分を考え、帰り報じて曰く、ボヘミア王ヨハン、フランドル伯ルイ以下、高貴の人十一人、バシネット(自己の紋章ある旗を立てて出陣する資格ある騎士)八十人、騎士一千二百人であると。しかして、ヘラルドは、この以下は詳しく調べなかったが、歩兵はおよそ三千人というを当れりとする。あるいは一万人ないし二万人という説があるけれども、これは信じられない。

このクレシーの戦いにおけるイギリス軍の働きは、まことに目ざましいものであったが、特に華やかであったのは、太子エドワードの武者ぶりであった。敵のフランス方では、太子の剛勇に驚き、相伝えて舌を巻いた。太子を称して、黒太子というに至ったのは、すなわちこのクレシーの戦いからで、フランス人が太子を恐れたあまり名づけたのによる。

彼らは、始めは暗黒獰猛というような意味で、 Le Prince Noir と言っていたのである。当時フランスの婦人は、この語をもって泣く子を黙らしたという事である。しかしてこの名は、ついに剛勇の意味において、イギリス側では、たとえば彼の悪源太、悪七兵衛のごとく、名誉の称として用いらるるに至ったのであった。 Black Prince を、鎧の黒いところから言ったものであると唱える説は、古から伝えられているけれども、これは事実でないようである。太子は、多く銀色あるいは銅色の鎧を着していて、黒い鎧を着た例証はさらに無い。何にしても、太子エドワードの武名は、このクレシーの合戦によって高まり、黒太子の威名は、このクレイシーの奮闘によって、初めて世に喧伝されるに至ったのである。

第十五章 了


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