かのクレシーの戦いの時のごとき、黒太子は大いに武勇を発揮し、軍中の老将らが、のちに太子は我が軍中最も武勇なる騎士の一人であると誇った程であるが、実は、クレシーの場合に示した武勇は、これ匹夫の勇に過ぎず、その指揮統率は、ひとえにマンニー等のなしたところであった。しかるに、今回は、マンニーのような老功者の付随せるにあらず、すべて太子自ら指揮して、しかしてかくのごとき成功を収めたのを見て、人々皆その真の末頼もしきを思い、相共に祝し合ったという。
さて王は、クレシー、カレーの大勝に関わらず、軍の補充が甚だ困難だったし、またネーデルラント地方に同盟を作る計画が破れ、人民皆戦いのために租税を出すことを喜ばず、一般に休養を希望したので、ついに一三四七年九月二十八日、カレーにおいて休戦条約を結んだ。しかして、その後王女マーガレットを生んだ王后の肥立つのを待ち、王子王后その他を伴って、十月十六日ロンドンに帰り、人民の盛んなる歓呼に迎えられて、ウェストミンスターの宮殿に入った。
王及び貴族らは、分捕品や捕虜の償金で裕福になり、華美を競ったが、一般社会もまた戦勝後の景気すこぶる良く、従って市況賑わい、衣食足りて楽しみを思い、演劇、弓会、フットボール、球投げ等の遊戯至るところに行なわれ、ことに、王は盛んなトーナメントを催し、王朝の春を誇った。されば、当時の社会は、著しく奢侈に走り、その服装のごときは、努めて人目を引くことを求め、男子は、絹、ビロウド、毛皮、縫箔の着物を用い、腰のあたりは極めて身体に密着するようにし、袴は膝の辺に終り、その下には、長い下ズボンを穿き、かつ左右その色を異にし、上着もまた荒い線の模様で、その上に皮あるいはビロウドの外套をまとい、頭には、宝石輝く絹の頭巾を被り、靴はその突端甚だしく細長く延びて、歩行のためにこれを折りかえし、金銀の鎖で膝へ引っ掛けて置くようにした。髪は、前を短くして、後ろを非常に長くし、髯は余り長くないのを尊んだ。
婦人の衣服も、目立つことに努め、左右違った色で、袴には縫箔をなし、紋章などを一杯に散らした。頭に冠ったのは、高さ三尺の円錐形をした帽で、その後ろについた絹は、長く垂れて地に引いた。トーナメントなどには、婦人連はいずれも着飾って華美を競い、腰に金作りの短刀を下げ、肥馬に跨った。しかして、その取り締まりも厳重でなかったようで、貴婦人ならぬ出所の怪しい女も、よくそこへ紛れ行って、当時の道徳家をして、『神を怖れず、廉恥の声に赤面もせず、万事傍若無人に振舞った』との歎声を発せしめつつあった。
王は、黒太子に政治上の任務を授けなかったので、年の若い太子は用事も多からず、かつ他に楽しみもなかったので、大いにトーナメントに熱中し、華美を好む性情から、自然に豪奢を競い、また寛大を示さんとて、その友人に馬を送り、鎧を配ち、あるいは多人数を招いて宴を張ったりしたので、東宮宛ての経費では、なかなか足らず、しばらくの間に借金の山を築くに至った。
イギリスの戦後における繁栄は、かくのごとく盛んであった、しかしながら、長く続かなかった。どうしてそういう事になったかと言えば、それは、主として黒死病の襲来に悩まされたがためであった。
この黒死病という世界的大疫病は、一般に伝えるところによれば、一三三三年支那から発し、商路を伝って一三四七年ヨーロッパに来り、一三四八年には、フランスのアヴィニョンに現れた。フランスは、戦敗につぐ飢饉をもってし、今やまたこの疫病の難を蒙った。このフランス国を襲った疫病は、同国がイギリス人のために散々に荒された後だったから、一層伝播に都合がよかったので、その害毒はすこぶる烈しかった。
されどフランスは、計らずもこの疫病によって、仇を報いるに至った。恐るべき黒死病は、たちまちフランスからイギリスに襲い行ってたのである。その病症は、身体ことに関節部に黒い点が生じて、熱気燃ゆるがごとく、患者は血を吐きうわごとを言い続けて悶え死ぬのであった。その病勢の猛烈にして、伝染の盛んなる、当時における不完全な医術、不完全な衛生設備の到底よく防ぐところにあらず、人心惶々、病気があると、父母妻子も捨てて逃げる有様であったと伝えられた。
ヨーロッパ全体にして、一三四八年から一三五〇年に至る三年間に、この黒死病のために死するもの、二千五百万に及んだと称せられ、多少誇張もあろうが、随分大いなる数に登ったには相違ない。イギリスの死亡者もまた少なからぬことであった。されば、一三四九年一月一日、及び三月十日において、議会召集令は発せられたが、黒死病猖獗のために開会することあたわず。また高等裁判所も開廷することができなかった。これ判事の病死者多く、その数に不足を生じた結果であった。
しかして、その年の夏になって、賃金及び物価の問題が起こった。これは、病死者が多いのと、生の測られざるがため、労働の気力が失せたのとで、したがって労働者に欠乏を生じ、これまで、農夫の一日の賃金二ペンスであったのが、今は手鎌を用いる刈り手が、八ペンス、大鎌を用いる刈り手が一シリングに騰り、なおその他に食料をも受けなければ働かなかった。王及びその他の顧問官らは地方を巡視して実際を知り、救済策として労働者取締規則を作り、勅令でこれを発布した。すなわち、黒死病流行前、五年間の平均賃金を標準とし、 それ以上の賃金を要求し、もしくば支払う者を禁固に処することにしたのである。
一三五一年の議会は、王のこの勅令に協賛を与えた。これ当時の議会は、中等以上の人民の代表だったからであったが、しかし、経済上の原則は、法律によって支配さるるものにあらず、けだしエドワード三世は、地主らの困難を訴えるの聴いて、かくもしたらばと考えたものであったろう。下等社会の人民には、これに抵抗すべき気力も組織もなかったけれども、こういう事は、到底行えるものでなく、地主もまた一々法律によって、労働者を強制することは不可能であった。たとえ、強制したところで、本気になって働かなければ、事実何の役にも立たなかったからである。されば、法は一片の空文となり、自然雇主は、物価相当の賃金を支払うか、しからざれば、その土地を荒蕪に任すよりほかなかった。当時の行政機関は、能力が十分でなかったので、事々にこれを咎め立てしていることは得しなかったのであった。なお議会はこれと同時に、物価をも公定して、高くないようにした。けれども、これも経済上の原理を知らざるもので、もとより行われはしなかった。何となれば、黒死病のために物資少なく、労働が少なくなったから、物価の高くなるのは、自然の趨勢であった。
しかして、黒死病流行のために、大地主らが従来のごとくその下人をこき使うことができなくなった結果、大地主らは、その土地を割いて下人に自ら耕さしめ、少許の借地料を払わしむるにとどめて、彼らを落ちつかすように努めたので、主従の関係は、やがて地主小作人の関係になった。これ中世末の現象で、黒死病だけがその原因ではないが、しかも大いにこの勢いを促進したことは奪うべからざる事実である。
黒太子は、騎士的豪快を喜び、人に物を贈り金を与えて、その経費の過大になるのを意としなかったが、これいわゆる大名心で、その金が、コーンウォールその他の領分に住む人民の、粒々刻苦した膏血たることをさらに知らなかった。されば、自らコーンウォールにも行かず、万事その支配の任に当たった書記に任じて顧みなかったので、これらの者は、なるべく余計に人民から取り立ててその収額を多くし、もって恩賞にあずからんとし、また自らも多少の上前をはねたのである。
一三五二年から一三五三年に渡る冬は、寒威酷しく、収穫が多くなかったため、太子の所領チェシャの人民はことに困難を感じていたが、租税は少しも軽減せられず、誅求は相変わらず烈しかった。ここにおいて、かの賃金制限の法律に不平を抱いていた人民は、たちまち蜂起して、一揆の勢いはなかなか盛んであった。
王は、太子、ランカスター公及びスタッフォード伯ウォリック伯らに、かなりの兵士を与えて、これが鎮定に赴かしめた。当時、軍隊によって鎮圧された一揆の運命は、憐むべきものであった。されば、チェシャの一揆もこの軍隊の勢いには到底敵しがたいのを知るとともに、鎮圧後の運命を恐れ、その鉾を受くるに先だち、彼らはやむを得ず、五千マイルの金を太子に献じて、宥免を請うに至った。
かくして、事なく乱も鎮まったので、太子はこの償金の十分の一を、祖父の時代において建立に着手し、その後半途で止められたヴェール・ロイヤル寺院の建築成就の資に備えた。窮苦に泣く人民の膏血を搾り、これをもって名聞のために社寺を建立するに至っては、名聞に走るの弊も甚だしと言うべく、西洋騎士道には、かかる欠陥は少なくなかった。これまた燦然たる西洋騎士道の裏面に落とされた、暗影の一つである。
第十七章 了