さりながら、この表面上の休戦状態は、要するに表面の休戦状態にとどまって、これがために平和があるのではなかった。ノルマンディーに、ブルターニュに、カレーに、南部フランスに、双方の大将は、内々その君主の同意をもって、こもごも小競り合いをなしてやまなかったのである。なかんずくブルターニュにおいては、イギリス方のジャン・ド・モンフォール公と、フランス方のシャルル・ド・ブロア公とを中心として、絶えず戦闘があった。しかして、フランス騎士の亀鑑と謳われて、黒太子の最好敵手となったかのベルトラン・デュ・ゲクランは、このブルターニュの争闘中に、その武名をなすに至った。彼は黒太子に比して十歳の兄で、すなわち一三二〇年、小貴族の子として、ブルターニュなるディナン市付近のラ・モット・ブローン城に生まれた。性聡明にして武勇絶倫、歳十七にして、レンヌにおける演武会に初めてその技能をあらわし、大いに衆を驚かして名誉賞を得た。伝説によれば、彼は、事により父の怒りに触れて勘当されつつあったので、ひそかに兵甲を着け破冑をかぶって演武会に出たところが、場に現われるや、その父もまた演武会にあり、この騎士の動作のなんとなく優れたるを見て、もとより冑を取らなければそれが現在の我が子であろうとは知る由もなく、良き騎士こそ参りたれ、相手にとって、面白し、いで一手打ち合わんと、彼に試合を挑んだ。ゲクランはもちろん親に向うべき槍なければ、とっさに捨鞭をくれて逃げ出し、父が、卑怯なり返り合わせよと、背後から声を浴びせて追っかけて来たけれども、彼は、これを耳に入れなかった。すでにして、他の騎士と槍を合わせ、見事にこれを突き落とし、公衆より喝采を博し、やがて賞を授くる時に至り、彼が冑を脱いだのを見るや、父はかつ驚きかつ喜び、ただちにその勘当を許したということである。彼はシャルル方に加担してよく闘い、その武勇は常にイギリス人の恐るるところであった。
カレーでは、傭兵隊長で、イタリアのパヴィヤ出身のアメリックというもの、市の一部の保塁に長として、これを守っていたが、フランスの将にしてサントメールの守備長たるジェフリー・ド・シャルニーより賄賂をもって誘われ、一三四九年の大晦日をもって、城内にフランス人を引き入れる約束をしたが、後に至ってこれを悔い怖れ、ついに守備長たるジョン・ボーシャンに事の次第を密告した。
ジョン・ボーシャンは、書状をもって直ちにこれをエドワード三世のもとに報じた。王は、右の報告に接するや、こは面白し、事を欲する敵に一泡ふかしてくれんと、口元に微笑を浮かべつつ、黒太子及びその最も信任する一騎当千の騎士若干を率い、密かにロンドンを出て、ドーヴァーから船に乗って無事カレーに着し、さて、かのアメリックをして、フランス人を招くの合図をさした。アメリックは、すなわち十二月三十日の朝、かねて申し合わせて置いた通り、フランスの旗を立てて、周囲のすべて成った合図をした。
この合図の裏に何が潜んでいようとは、夢にも知らないシャルニーは、よく三十一日の真夜中頃、五百の騎士を率いて、場外にと来り、先ず従士両名を送って偵察せしめた。アメリックが万事好都合であるから、早く来られよ、と言った旨を告げた。シャルニーは、即ち馬を進めてさらに城に近づき、エデュワード・ド・レンチという者に、一隊の騎士を率いてまず城中に入らしめ、しかして約束の二百クラウンを、アメリックの手に渡さした。アメリックは、この金嚢を受取り、
「彼らは、みなここにありや。」
と問うた。ド・レンチの然りと答えるや、アメリックは、
「然らば、しばらく間たれよ、予は、城門の鍵を持ち来たらん、鍵は、城塞の内に用意し置きたれば。」
と言ってなかに入った。
然るに、この言葉の未だ全く終わらざるに、たちまち櫓より大石を投げたので、釣橋は手もなく破壊せられた。サー・ウォーター・マンニーは、それよとばかり、兵を率いておっとり囲んだので、ド・レンチの一隊は、真に袋の鼠となり、をめをめ槍を投げ出して降伏した。マンニーは、笑ってド・レンチに向かい、
「貴公は、カレーの鍵は、ただ与えよと言えばとりえらるるものと思っていたか。」
と嘲った。
肌を裂く夜半の寒風に吹きさらされながら、城外に待っていたサー・ジェフリード・シャルニーは、ド・レンチの一隊の久しく帰り来りざるに、その安否のそぞろに気遣われ、
「かのロンヴァルディア人は、何として今頃我々を待ち疲らすにや、かくてあらば我々は寒気のために死せん。」
と唸るが如く叫んだ。時に、部下の小隊長の一人、ピピン・ド・ウェールはこれを聞いて、
「神の名において、かのロンヴァルディア人は、抜け目のないやつ、やつは貨幣を一々調べて、その内に贋金はなきや、その数に不足なきやを確かめつつあるならん。」
と洒落た。けだし、イタリアは、当時ヨーロッパ第一の富国で、その商人は、多く諸国の王侯に金を用立てているので、どこでも、イタリア人と言えば、すぐに守銭奴と同様に感ぜられたものと思われる。
かくてあるうちに、時は移り、夜はすでに明方近くなったので、シャルニーも、洒落を聞いているどころの事ではなく、いとど心配が加わって、どうしたものかと思い惑っている時しもあれ、たちまち城門がサッと押し開かれて、「ド・マンニー救助!」と叫ぶ声と諸共に、一隊の重騎兵、ほとばしるが如く突出して、やにわに撃ってかかった。
サー・ジェフリー・シャルニーも流石名を知られたフランスの騎士とて、さては計られたかと知ったけれども、今はもはや是非無しと観念し、
「諸君、諸君もし逃れんとせば、全滅あるのみ」
と叫びもあえず、真っ先に進んで、城兵にと槍を向けた。狭い場所だったので、敵味方とも馬を乗り捨てて徒歩となり、双方必至となって戦った。
エドワード三世王及び黒太子は、共に普通の騎士の風をして、この一隊の中に加わり、混戦りに奮闘したが、王は、興に乗じて味方の同勢よりやや離れ、かつおのれの身分を隠していた事さえ忘れて、
「エドワード、セントジョージ、エドワード、セントジョージ!」
と叫んだので、敵は、さてはエドワード王ぞと、たちまち彼の身辺に群がり来ったので、王は多くの敵兵を相手に、獅子奮迅の勢いで戦いつつあったが、時に黒太子は、遥かにこの様子を見て、
「すわことぞ!」
と、飛ぶが如くに駆けつけ来り、王を囲んだ一軍の騎士をめがけ、剣を打ち振り、無二無三に切り立て突きたて、見る見る彼らの数人を討ち倒した。そのうちに、他の騎士も馳せ加わり、敵の同勢を引き包んで、ついにフランスの一隊は全滅し、大将シャルニー以下多く捕虜となって、はからずも、彼ら自身、空けて一三五〇年の元旦を祝うべき格好の贈物都とはなった。
イギリスの君臣は、年頭の功名に心嬉しく、この際騎士の情けを充分示さんと欲し、その夜、これらの捕虜を饗応し、太子以下の騎士は、直ちに食卓に就かず、自ら給仕人となって、献立の第一の皿を、王及び捕虜の騎士に配る役を勤め、第二の皿より初めて席に就き、もって捕虜らの屈辱を慰め、饗応が終わってのち、王は、おのれの敵手として最も武勇をあらわした同じ捕虜のフランスの騎士、サー・ユスタシュ・ド・リボーモンをさし招き、自分の首に掛けつつあった真珠づくりのみごとの鎖をとってこれを贈り、
「サー・ユスタシュよ、予は今日の戦いにおいて、最好漢として卿にこの鎖を贈る。こいねがわくば、予の記念としてこれを掛けよ。今卿は予の捕虜なれば、予は卿に自由を返付す。明朝、卿は卿の欲するところに立ち去るべし。」
と告げた。
このカレーの出来事は、イギリス人一般を非常に喜ばしめた。彼らの誇りとなったのである。
フランス王フィリップ六世は、自分は、この事に関係ない事を弁解したけれども、イギリス人はこれを進ぜず、一三五一年において、ランカスター公はテルアンヌからエタープルまで、例の乱暴遠征を行って、もって報復した。
しかして、これに先だって、フィリップがイスパニアのカスティーリャ国を煽動して、イギリスの近海を荒さしめんとする企図は、事ならずして破れ、かえってイギリス海軍の名誉と、王と太子の武勇をあらわす種とはなった。それは、章をあらためて次に述べよう。