エドワード三世王は、報を得て、我が領海において、かかる傍若無人の挙動をなすとは何らの暴慢ぞと、激怒まなじりを決し、直ちに令を下して海軍をサンドウィッチに集め、太子と共に乗艦して自らこれを指揮した。
カスティーリャ人は、その帰路イギリス人の報復的襲撃を受くべき事を予期していたので、多くの軍需品を積みこんだ。なかんづく、大石、鉄棒、鉄板の類を多く積め込んだが、これは、それらを投げつけて、敵艦を沈めんと企てたものだったのである。
八月二十九日、イギリスの艦隊は、ウィンチェルシーの沖を遊弋しつつあった。時に、旗艦では、王は黒いビロウドの外套をき、黒いかわうその帽を戴き、すこぶる上機嫌で、黒太子の親友サー・ジョン・チャンドスが、王の音楽隊の演奏に伴って、ドイツの踊りの歌を謳っているのを聴いて、興を催していた。
おりしも、忽如として、大帆柱の上の番兵が、
「船あり、船あり、敵艦なるが如し。」
と叫んだ。
「二隻あり、や、三隻!四隻!否々遥かにそれ以上!神我を助けよ、予は、彼らの数を知るあたわず。」
と絶叫した。
ここにおいて、ラッパは響き渡った。各艦の騎士は、急いで鎧を着け、しかして、冑を被る前に、各自なめし皮の酒袋から、ぐいとばかりに一息ずつ飲んで、英気を養った。イギリスの各艦長は、始めから訓令を与えられていたので、今突然敵に遭遇しても、各々皆そのなすべきことを知っていた。彼らは何ら遅疑するところなく、自若として予定の行動を進めたのであった。ただし、当時の海戦は、戦術が幼稚で、多くはただちに混戦に移って、艦と艦との闘争になること、あたかも陸戦の場合においてすぐに隊と隊との戦となるのと大差はなかった。
両艦隊相近づきて、たちまち合戦の開始せらるるや、黒太子は、敵の最大艦めがけて、その艦を突進せしめ、部下を下知して大いに奮い闘ったが、敵艦は、形大いにかつ遥かに堅牢だったので、いかに果敢に攻めつけても、彼に及ばず、かえってその打撃を蒙ること深く、見る見る我が艦隊に多くの穴を穿たれ、浸水しきりにして、これを防ぐに由なく、今はそのまま沈没の他なき危急の有様となった。かくと知るや、太子は、万死に一生を得てんものと、たちまち躍進して、敵艦突入を企てた。けれども敵艦は大かつ堅なるのみならず、乗組員もしたがって多く、攻め入ることは容易ではなかった。
たまたま前年その父ヘンリーに継ぎランカスター伯となり、今や王より公爵に挙げられたダービー伯ヘンリーのこれを見るに及び、や、やとばかり驚きつつ、急に、
「ダービー救助!」
とうち叫びうち叫び、やにわにその艦を進めて、敵艦の他の舷側に付け、太子の艦とこれを差し挟んで、激しく攻めたてた。これには、流石の敵艦もたまらず、討たるる者算なく、ついに太子の乗っ取るところとなった。しかして、太子が、十分に敵を圧伏して、全くこれを領略し終わるや、ほとんどその刹那、これまで彼の乗っていた艦は、あっというまにたちまち沈没してしまった。ああ、何という危ない事であったろう、何という僥倖なことであったろう。その間一髪を入れなかったという事である。
かくして、合戦いよいよ乱戦となったが、イギリスの艦隊は、力戦少しも屈せず、晩までに奪った敵艦の数すでに十七隻に及んだので、さしものカスティーリャ勢も、今は敵しかね、そのほかは散々になって、先を争って逃げ去り、夜に至って、ついに一艦影をだにとどめざるに至った。
カスティーリャ王は、この敗戦に驚くと共に、イギリスと戦うことの不利なることを悟って、やがて和議を結んだ。
話しは陸上に移るが、当時の傭兵にして、給料を受けない者は、イギリス側でもフランス側でも、いずれもいわゆる自由隊として、あたかも賊のような暴行を行った。ダンカッスルという弓手の小頭があった。彼は、カレーの南方に当るギーヌの捕虜となっていたが、密かに、脱出して来て、その隊の者と謀り、かねて捕虜中に知り得た間道より、不意に同都市を襲い、まんまとこれを陥れた。休戦中の事だったので、彼は、自由隊長として独力これを取ったものとし、競売に付して、ギーヌは、無論エドワード三世王が最高価をもって買い落とした形式によって、これをその手に収めた。かくて占領されたギーヌは、カレー南方の出城として、イギリス方に多くの利便を与えた。
これより先、フィリップ六世は、かのウィンチェルシー沖海戦の一週前に死んだが、彼は死に臨み、「決してフランス王の代々の権利を棄つべからず。」と遺言したので、フィリップ六世に次いで王位に就いたジャン二世は、この遺言を心に録してあくまでもこれを守るべき決心をしたが、さりとて、公然戦いを宣してイギリスの圧迫をはね斥けるには、なお実力が不十分だったので、彼は、やはり例の表面だけの休戦状態を続け、その間ひそかに地歩を固める方策を取った。
しかるに、教皇インノケンティウス六世は、一三五二年教皇位に就き、それと共に、先代クレメンス六世の志を継いで、イギリスとフランスの間の仲裁に腐心し、その尽力によって一三五四年四月六日に至り、ギースの仮条約なるものが成った。エドワード三世は最初主張した如く、南フランスを十分の主権をもって譲り受くれば、フランス国の王位に関する言前を棄てることに同意すべし、と約したのであった。しかして、イギリスの国会は、この王の諮問に対し、かくして和睦されんことを希望する旨を宣明した。
イギリス側が、こういう意思を表示したに拘わらず、フランス王ジャンは、父の遺命を思ってこれを決するあたわず、事に託して和議を延ばし、ついに、一三五五年に至り、南フランスに対し、主権を全然譲る事を拒んだ。ここにおいて、エドワード三世怒り、イギリス国会また憤って、王の宣戦に全幅の賛同を表した。
エドワード三世王は、その年の夏、黒太子を将としてアキテーヌより敵対行動をおこさしめ、同時に、ランカスター公ヘンリーを、ノルマンディーに送らんとした。しかるに、烈しい西風が長い間続いたので、久しく出発を延ばしたが、九月に至り、風も収まったので、エドワード三世王はランカスター公と共に、ノルマンディーに渡り、黒太子もまた出でてボルドーに着いた。
王がノルマンディーに向ったのは、どういうわけかというと、フランス王ジャンの婿となったナヴァール王シャルルは、ノルマンディーに多くの領地を持っていたが、ジャン王と事を争い、エドワードに款を通じて来たので、王はこれを先手としてフランスに攻め入ろうと考えたためであった。けれども、早くも舅のジャン王と和睦してしまったので、エドワード三世王の、ノルマンディーに向った目的は空に帰してしまったために、彼はカレーに赴いた。しかして、例の土地を荒らす遠征をなしつつあるうちに、スコットランド人がイングランドに攻め入って、ベリック城を囲んだとの報があったので、彼は速攻帰国した。
北方の遠征は、かくの如くにして多くの功果を挙げ得なかったが、これに反して南方に向った黒太子の遠征は、図らずも大なる事変を起こした。