騎士道の華
第二十章 黒太子の遠征南仏を風靡す

黒太子が、ボルドーに着いて、その軍の上陸を終わったのは、プリマス港を出て丁度十三日目、即ち一三五五年九月二十日のことであった。太子時に二十四歳、気象壮潤、勃々たる雄志既に敵を呑んだ。従うものは、その参謀長たり兼ねてまた顧問たるかのサー・ジョン・チャンドスをはじめ、スタッフォード伯、サフォーク伯、オックスフォード伯、サー・ジェームス・オードリー、サー・ヘンリー・エアム、サー・ニール・ロリング等にして、その他当時名の聞こえた騎士少なからず、軍勢の数は、一千の重騎兵、二千の弓兵、それに多くのウェールズ槍兵が加わったもので、軍には、甲冑、武器、沼や河を渡るのに使う道具、漁舟、糧食等いずれも十分に準備された。

太子は、二十日の夜は、その親友と共に賽を振って遊び、翌日からいよいよ任務の遂行に着手し、まず午後三時を期して、聖アンドリュー僧院でボルドーの市長以下主だった人々を前に置いて、父王から受けた辞令書を読みあげた。すなわち王は、太子をアキテーヌ公領の目代となし、行政、財政、司法、兵馬等の全権を付与し、しかして特にその行政を刷新し、反徒が奪った土地を回復すべきものである、とあった。これを読みあげ終わったのち、太子は、片手を聖書に載せ片手を十字架にかけて、ボルドーの助役ジャン・ド・ストレートリーの読みあげる条文に従い、「予は善良忠実なる領主なるべく、予が祖先以来人民に許したる権利、自由、慣例、特権を尊重すべし。」と誓うや、市長及び司法官は、聖書と十字架に手をかけ、その他の人々は手を挙げて、「我々は殿下の忠実な臣民となり、何人にもせよ、彼の権利、擁護、またこの権利を犯したるものから取り戻す事に助力すべし。」と一斉に声を合わして誓った。

これ実に太子の一生に新局面を開いたもので、太子は、ここに新たに重大な責任を負うことになったのである。けれども、彼は、元来行政の方にはさして興味を持たず、もっぱら心を軍事に走らした。しかして、この遠征を促すためにわざわざイギリスへ行き、今や太子と一緒に帰ってきたポンミエール卿、ローゼン卿、ド・レスパーニュ卿、その他の土着のフランス貴族らと謀議を凝らし、フランス王が次第に蚕食した旧公領地を回復すると共に、背いた貴族を屈服するの策を講じ、まず南方アルマニャック地方より、トゥールーズ地方地中海沿岸までを荒すべき遠征を試むる事に決した。けだし、これらの地方は、富裕にして、フランス王の高収入地なので、これを荒らしてその財源を枯渇せしめんとするのであった。

この遠征軍は、十月九日をもって三隊に分かれてボルドーを発した。先鋒隊は、重騎兵三千、ウォリック伯これを督し、中軍は、重騎兵七千、サフォーク伯、ソールズベリー伯これを指揮した。この他弓兵、槍兵、僧侶、従僕等を合わせて、その総数実に六万人と註せられた。

かくて、軍は、堅固に構えた城塞は、敢えてこれを長囲みに囲んで攻めとる事をなさず、例により行く行くただ沿道の町村に対し、焼打、破壊奪掠を行い、行程を急ぐことなく緩々と進んだ。これに対し言うに足るべき抵抗にも会わなかったが、カルカッソンヌでは、守将チボー・ド・バルバゾンが、市街の所々に鉄鎖を横に張り、もって騎兵の進入を妨げこれを防御したために、一時退却せざるを得ざるに至ったが、軍は、太子の激励に勇気を起こし、ついに鉄鎖を破って突いて入り、怒りにまかせて、多くの罪無き市民を殺戮した。さりながら、内城は頑強に抵抗して容易に降らなかった。しかして、市民は金貨百万クラウンを賠償として差し出すべしと言って、太子の恵みを請うたが太子はこれを許さず。三日の間、兵士の乱暴を許し、その挙句、第三日目においてついにこれを焼き払った。

太子の遠征軍は、十一月八日に至り、地中海の海岸に近いナルボンヌに達した。ナルボンヌは、下町と山手町とに分かれていた。下町の方は、戦わずして陥ったけれども、山手は防備厳にして、ナルボンヌ子爵アルメリック五百の重騎兵を督してこれを守り、降伏の勧告を斥けてがえんせず、最初の一日半、イギリス兵は、大砲その他の攻城具を用い、一向強襲したが、城兵よく防いでこれを抜くあたわず、ためにイギリス兵の討たるるものすこぶる多かった。黒太子は、ついに山手の略取を断念し、第三日目に下町を焼き払ってここを去った。

教皇のあったアヴィニョンは、ナルボンヌの東北三十リーグに過ぎなかったので、教皇は、この報に接するや、大いに不安を感じ、二人の司教を使節として、イギリスとフランスの間に立ち、あらためて和議の仲裁を試みよう、と申しこました。二人の使節はオービヤンにおいて太子の陣に達し、告ぐるに教皇の意をもってした。太子は、教皇のフランスに好意あるを疑い、かつこれがために自己の遠征の目的を妨げられんことを怖れ、彼らに答えて、「かくのごときことは、我が父王に向って話されよ、予はただ父の命に従うより他なしあたわず。」と言ったので、両使節は空しく帰った。

太子は、なおしきりにそれらの地方を荒らしつづけたが、その間に軍の最も苦しんだのは、水であった。しかし、諸方の寺院で、多くの葡萄酒を得たので、始めは、兵士らはこれを物ともせず、水の代りに貪り飲み、甚だしきに至っては、湯の代りに酒で食物を煮て、相共に王侯の富を得た心地をして、思わぬ贅沢におごっていた。が、ただこのためにとんだ憂き目をみたのは馬で、兵士らは、自分らも喜ぶから馬も喜ぶだろうと思って、水の代りに酒を飲ましたところが、馬はこの王侯の富にあてられて、甚だしく悩まされたのであった。馬に葡萄酒は、猫に小判の沙汰どころの事ではなかったのである。

折りから、トゥールーズには、アルマニャック伯の軍が城を固めていたので、太子は、これを挑んで、野戦をさそうとしたが、敵はこれに応じなかった。

かくて、太子の遠征軍は、十二月九日山の如き戦利品を車に載せてひとまずボルドーにと帰着した。

履歴


次回、『深く敵領に入って危地に陥る』をお楽しみに

第二十一章へ

第十九章へ

目次

他を読む