1398年、リチャード2世はイングランド最大派閥の領袖ランカスター侯ジョン・オブ・ゴーントの息ヘンリー・オブ・ボーフォートを10年の国外追放にしました。さらに翌1399年2月にランカスター侯が亡くなるとヘンリーに相続されるべき所領を没収し、それがヘンリーの怒りを呼んで大逆襲となり、リチャードは国王の地位を追われ、プランタジネット朝の幕を降ろすこととなります。
こういうことが概説ではさらっと書かれますが、追放ってどうして?没収ってなに?廃位されるってどういうことって?っていう疑問が起きませんか?それを解すのが今回の試みです。
百年戦争の張本人エドワード3世は1370年代になると戦争に飽きてイングランドの政治は迷走をはじめ、黒太子エドワード、エドワード3世が亡くなると、黒太子の息10歳のリチャードが王位につきました。幼少の王であれば、摂政が立てられるのが当然ですが、カリスマをもった大貴族がいなかったため、利害関係のあるものたちが共同で補佐することになりました。このころのイングランドはクレシー・ポワティエの勇者たちの世代交代が進み、敗戦続きで諸侯はどれもぱっとしませんでした。
一方で、リチャード2世は1381年にワット・タイラーの乱に参加した叛徒を説得したことがきっかけとなって王の統治を模索するようになります。リチャード2世の模索した政治は、大貴族を廃して官僚を中心とした専門家による顧問会議による政策を進めるもので、いわゆる寵臣政治と揶揄されるものでした。
リチャード2世が生活を共にしてきた下級貴族たちと政治を行おうとした理由を考えると、リチャードが幼少で王位についたことによる貴族党派の形成が欠如していたことがあげられます。エドワード3世はクーデタ時に大貴族を味方を付けていたことがその後の百年戦争遂行にも大きく影響しましたし、ヘンリー5世は1406年から父王に代わって議会を運営することで貴族の支持をえることができましたが、ボルドーでうまれたリチャードは軍事力をもった大貴族を味方につける機会はなく、その唯一の候補である叔父ランカスター侯とは距離を置いた関係、さらにいえば王位簒奪を狙っているという不信があり、結果的に軍事力を王自身が集める必要がありました。
この時代の政治とはいってみれば金集めで、都市や農村は一定の希望を満たしてくる代償に供物を出し、その執行者は問いませんでした。つまりいままで大貴族が管理していた地域を国王直属の官僚が管理することで、財源の確保を急いだのです。国王の増益は、諸侯の減益であり、当然対立することになります。
また、諸侯は自身の地位を保つために一定の軍事力を持つことが重要で、そのために所領の確保が問題でした。対仏和平を積極的に推し進めているリチャード2世にとって諸侯が軍勢をもっていることは望ましいことではなく、諸侯の財源を奪うことは、そのまま軍事力の低下にもつながったわけです。つまり一種の軍縮が考えられます。
官僚によって統治され、軍事力が王に集中されれば、それは絶対王政でしょう。しかし、そうはなりませんでした。まず絶対王政期のように貴族と土地が切り離されていなかったこと。そして貴族が地方の利権に深く関わっていたこと。さらに計算違いが官僚たちのリチャードに対する忠誠度が高くなかったことでしょう。ヘンリーが上陸し、王位簒奪の意思があることがわかったときに、官僚たちは自分たちの身が保全されることを知るとあっさり主君を乗り換えたのです。
とまあ、試論だけで長くなったので、これをさらに調べようとおもいます。読み返すと、最初の問いになんにも答えていない。今後の課題は、ヘンリー追放事件、領地没収の意図、廃位にいたる道筋を明らかにすることです。