まさにランカスター侯の言葉こそ、たいへん重要なことでしょう。なぜなら侯はわずかばかりの自分の利益のためになんどなくフランスに侵攻し、打ち破っていたからです。侯の遠征はつねに肉体的に過酷なもので、侵攻中に国土を焼き払い廃墟と化そうともすぐに元通りになってしまったのです。侯の考えは、いま直面している戦争は永久に続くだろうが、いずれ形勢が逆転してイングランドを深刻な状況に落し入れるだろうというものでした。王の平和への熱望という事実が侯の警告を逃しませんでした。
わたしには、この問題の正否については皆目解りません。しかし、指摘しておきたいのは、ランカスター侯の二人の娘がともにカスティリャ、ポルトガルといったヨーロッパの王たちと結婚したということです。カスティリャ王は若く、フランスと和平にあることが有利で、国土は平穏無事でした。つまり、フランスとカスティリャの和平がイングランドによって裂かれない事が必要でした。なぜなら、もしそうなったら、フランス生まれのアラゴン王妃ヨランド・ド・バールの領域を通って、ふたたびカスティリャに攻めこんでくるからです。アラゴン王妃はカタロニアも領していました。バスク地方、ベアルンもフランスよりで、なぜならフォア伯が亡くなって、ベアルンの後継者シャトーボン準伯は、フランスでこの権利を誓い、刻印したのです。くわえてかれの妻はフランス生まれで、ナヴァール王もパリに2人の王の関心を誘っている弟がいました。
ウェストミンスターの長期議会の最終的結果、1394年6月まで休戦されることになりました。フランス人大使は署名と刻印のされた文書を持って帰り、平和が保たれました。
名医の死にもかかわらず、シャルル6世王の回復は万全になり、冬の半ばにパリのサンポール館にもどりました。キャロル、ダンス、その他の催し物が長い冬の夜をすごすために宮廷でとりおこなわれました。シャトーボン準伯はベアルン相続の臣従礼を王にするためにパリにやってきて、父の庶子エヴァン・ド・フォアを王の好意により寝室警備兵に加えてもらい、王冠の褒美として12頭の素晴らしい馬を授かりました。