名誉

フロワサールは

フランスとイングランドの戦いで実践された、名誉ある企て、高貴な冒険、みごとな武勇が正しく語られ、いつまでも人々の記憶にとどめられるように、かれらを手本とする優れた者たちに立派な行動をとるよう励ますためにも、私はここに座り、賞賛に価する歴史を記録します。

と書き始めますが、これをホイジンガは

フロワサールは、かれじしん、騎士道叙事詩のはなはだ浪漫趣味過剰な取木ともいうべき『メリアドール』の作者であり、魂あげて、理想の「勇武」と「めざましい武芸」とに酔い痴れているのだが、にもかかわらず、ジャーナリスト、フロワサールのペンは、裏切りや残忍な行為、ずるがしこい私利私欲と強者の権利、完全に利得のたねとなってしまった軍功のことなどを、せっせと書きつけている。

とからかいます。この理由をホイジンガは現実に目にする戦争、政治を見てもそれが関連しあって説明できるような視点が欠如していたからとし、一つ一つの合戦や儀礼をまとめあげるために、騎士道理想を利用したのだとしています。

さて、ここで騎士道理想の要、『名誉』について考えてみましょう。

ホイジンガも引用しているブルクハルトの説明から。

名誉心は良心と利己心のふしぎな混合物である。近代の人間は、自分のせいであるかないかは別として、他のすべてのもの、信仰と愛と希望は失ってしまっても、それだけはまだ残している。名誉心は多くの利己心や大きな罪悪と手を結び、恐ろしい欺瞞をもあえてすることができる。 しかしまた、一個の人格の中に残っている一切の高貴なものは、これにつながりをもち、この源泉から新たな力を汲み出すことができる。普通に考えられているよりもはるかに広い意味で、それは個人として発展した今日のヨーロッパ人にとって、行動の決定的な規準になっている。そのほかに道徳と宗教をなおも忠実に守っている人々の多くも、もっとも重大な決意は、無意識のうちにもやはり、名誉心という感情に従って行う。

と述べ、中世の『名誉』はヨーロッパ人の古層として脈々と流れているとします。ホイジンガはイタリア・ルネサンスの栄誉愛好、名誉欲を中世フランスから輸入として騎士の名誉欲が源泉なのだとします。だとすれば、イタリア人の金言もまた中世騎士の『名誉』を考える指針となるでしょう。グイッチャルディーニを引用すれば

名誉を重んじることにまさるヴィルトゥ(力)はない。つまり名誉を重んじる人は、危険も恐れはしないし、見ぐるしいことは絶対に行なわない。このことをしっかり頭脳に焼きつけておくように。そうすれば、どんなことをやってもほとんど不可能なことはないであろう。そのことをわたしは経験からいうのである。

この態度はまさしくクレシーの戦いでのボヘミア王の姿や捕囚となったジャン2世を思わせます。結果よりも態度を優先させてしまう『名誉』の魅力とはなんでしょうか?それは中世人の本音を書いたマキャヴェリが教えてくれます。

そうだ、われわれイタリア人はとくに無信仰で邪悪である。

教皇庁のお膝元でこれが言えるのはなぜか。それは中世の人々には自分が『悪』を犯している意識があるのです。本当は善人なんだが、どうしても『悪』に手を染めてしまう。その恐れがあるのです。そして『悪』に対抗する唯一のものが『名誉』なのです。

神を敬愛するキリストですら十字架上で助けてくれない神をうらみます。そうした態度は人間だからしてしまう。そうした弱さを正すために『名誉』に適う行動が求められ、もしそれが貫徹できればそれはアーサー王などのような伝説となり、神に近づけるわけです。つまり『名誉』を追求することは神に近づくことなのです。

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