当然のことながら経済的富裕は芸術活動を支える要件であり、この点でフランドルとイタリアは優位に立つが、特にフランドルでは放浪芸人によって受け継がれたローマ劇と大衆の教化のために聖職者等が演じた宗教劇とが結び付いた中世劇が盛んに上演される様になった。それらの内一三世紀初期のボーヴェーで市民によって演じられた典礼劇「ダニエル物語」や、一四世紀初期の道徳劇「フォーヴェル物語」の音楽は現存しており、後者の音楽には新たな様式であるアルス・ノーヴァを確立し、それを自らの理論書の題名として名付けたフィリップ・ドゥ・ヴィトリ Philippe de Vitry (1291-1361)が関わっていると考えられている。
また単旋律音楽である世俗音楽と多声音楽である教会音楽との融合が行われたことが挙げられる。オック語の詩を歌うトルバドゥールは、フィリップ尊厳王の進出とアルビ派十字軍によって彼等を保護していたプロヴァンスの領主達を失って離散し、その技法は一二世紀後期に現れたオイル語で歌うトルヴェールに受け継がれた。特にアリエノール・ダキテーヌの再婚はポワティエ宮廷の音楽をノルマンディへ移植する結果となり、またその王女マリの嫁いだシャンパーニュの宮廷もトルヴェールを保護した。これらの詩人達の音楽は単旋律音楽であったが、その詩や技法は当時の教会音楽の先進地であったパリのノートルダム楽派で生み出された多声音楽に一三世紀を通じて取り込まれる様になった。これは教会自体の世俗化とそれに対する外部からの批判により教会への崇敬が喪失されて世俗と教会の領分が不明確となり、また諸侯の宮廷がより高尚な多声音楽を娯楽とする様になったためと考えられている。両者の融合の完成者が中世音楽最大の作曲家でシャンパーニュ出身のギヨーム・ドゥ・マショー Gillaume de Machaut (ca.1300-ca.77)である。
いま一つはフランドルが音楽家達の情報交換の場所となったこと。一四世紀初期からヨーロッパ中の音楽家達が移動や巡業の途中でフランドルに立ち寄り、互いに曲目や技術などを交換し合う「スコラ」が出来上がっていた。またヨーロッパ各地の宮廷や教会に仕える音楽家達のネットワークは政治的外交的にも重要な情報源となり得るため、このスコラはスパイ組織として活動していたのではないかとも考えられる。
更にイングランド音楽の影響。一四世紀を通じてイングランドでは様式的には旧式であるが大陸の音楽よりも柔軟なリズムが用いられ、また和音の響きの良い曲が好まれており、大陸の音楽の影響を受けずに発展する。そして一五世紀初期の二人、レオネル・パワー Leonel Power (ca.1375-1445)とジョン・ダンスタブル John Dunstable (ca.1380/90-1453)の音楽がフランドルに大いに影響を与えることゝなる。特に後者はベッドフォード公の礼拝堂付歌手としてパリやノルマンディで活動し、ブルゴーニュ宮廷の音楽家とも関係があったと思われる。
以上の様な環境の中から初期ルネサンス音楽の、またブルゴーニュ楽派の最初の大作曲家ギヨーム・デュファイ Gillaume Dufay (ca.1400-74)がカンブレー近郊に生まれる。彼はカンブレー大聖堂聖歌隊に所属した後ペーザロのマラテスタ家に招聘され、1428年から教皇庁聖歌隊に在籍し、1439年以降はカンブレーに戻っていることが多かったが途中シャンベリーのサヴォイア公アメデ八世とルイ一世、フェッラーラのエステ家の下でも活動している。デュファイの国際的活動とは逆に同年代のジル・バンショワ Giles Binchois (ca.1400-60)はモンスに生まれ、1430年以降の殆どをフィリップ・ル・ボンの宮廷礼拝堂で過ごした。彼のシャンソンはブルゴーニュ宮廷のメランコリーを表現するものとなっている。ブルゴーニュ楽派第三の人物はアントワーヌ・ビュノワ Antoine Busnois (ca.1430-92)であり、シャルル・ル・テメレールに仕え、彼の死後は公女マリの礼拝堂歌手として活動し、故に彼は宮廷シャンソンをハプスブルグ家に齎すことゝなった。
ルネサンス音楽二番目の大作曲家ヨハンネス・オケヘム Johannes Ockeghem (ca.1420ダンデルモンド生-97)はブルゴーニュ宮廷でバンショワに師事し、アントウェルペンのノートルダム大聖堂聖歌隊、ムーランのブルボン公シャルルの宮廷で活動した後、1450年頃からフランス王室礼拝堂聖歌隊楽長としてシャルル七世、ルイ一一世、シャルル八世に仕えている。尚ブルゴーニュ公国崩壊後に盛時を迎えた北部フランスやフランドル出身の 作曲家を総称してフランコ・フランドル楽派と称することがある。他にフランドル出身の初期ルネサンス音楽を代表する人物としてはジョアンヌ・ドゥ・ランブルジア Johannes de Limburgia (一五世紀中期)、ハイネ・ファン・ヒゼヘム Hayne van Ghizeghem (一五世紀中期)、カンブレーとナーポリで活動したヨハンネス・ティンクトリス Johannes Tinctoris (ca.1435-1511)等が居る。
中期ルネサンス最大の作曲家ジョスカン・デ・プレ Josquin des Prez (ca.1440-1521)はサン・カンタン付近の出身と思われ、1459年頃にはミラーノのドゥオーモの歌手、1486年にはシスティーナ礼拝堂歌手となっている。彼の活動場所は余り定かではないが一時期パリやフェッラーラの宮廷にも仕えている。ジョスカンの同年代の作曲家には優れた人物が非常に多く存在する。ロレンツォ・デ・メーディチとマクシミリアン一世に仕えたハインリヒ・イザーク Heinrich Isaac (ca.1450-1517)、マクシミリアンとその王子フィリップに仕えたピエール・ドゥ・ラ・リュー Pierre de la Rue (ca.1460-1518)、ミラーノとパリで活動したロワゼ・コンペール Loyset Compere (ca.1450-1518)、ミラーノでジョスカンとコンペールと共に歌い、ブルゴーニュではラ・リューの同僚であったアレクサンダー・アグリーコラ Alexander Agricola (1446-1506)、ブルージュやアントウェルペンで活動し、フェッラーラで客死したオランダ人ヤコブ・オブレヒト Jacob Obrecht (ca.1450-1505)等が著名である。
イタリアでは一四世紀後期に、イタリアにおけるアルス・ノーヴァである音楽様式としてのトレチェントに属する作曲家として、ミラーノのヴィスコンティ家やヴェローナのデッラ・スカラ家に仕えたヤコポ・ダ・ボローニャ Jacopo da Bologna (一四世紀中期)、ジョヴァンニ・ダ・カッシャ Giovanni da Cascia (一四世紀中期)、ヤコポの弟子で盲目のオルガニストであったフィレンツェのフランチェスコ・ランディーニ Francesco Landini (1325/35-97)、同じくオルガニストのアンドレアス・デ・フロレンティア Andreas de Florentia (一四世紀後期)等が現れて一時代を画するが、一五世紀に入ると既にイタリア音楽界はカンブレーでデュファイの教師であったリシャール・ロクヴィル Richard Lockville (?-1418)、イタリアに帰化したがリエージュ生のヨハンネス・チコーニア Johannes Ciconia (ca.1373-1412)等のフランドル人の活躍の場となってしまう。そして一五世紀から一六世紀前期に至る期間、イタリア人は音楽界で重要なポストに就くことが出来なかったが、1480年代にはロレンツォ・デ・メーディチのフィレンツェ、1490年代にはイザベッラ・デステのマントヴァでイタリアの国民様式であるフロットラやマドリガーレが歌われ始める。併しこの分野での一六世紀中期における確立もフィリップ・ヴェルドゥロー Philippe Verdelot (1470/80-ca.1552)、アドリアン・ヴィラールト Adrian Willaert (1480/90-1562)、ヤコブ・アルカデルト Jacob Arcadelt (ca.1504-ca.67)等のフランドル人によるものであり、優れたイタリア人作曲家としてはコンスタンツォ・フェスタ Constanzo Festa (ca.1490-1545)の出現を待たねばならなかった。イタリア音楽の立場は一六世紀後期には逆転して優位に立つが、空白の時代に対する明瞭な説明は為されていない。教会音楽よりも世俗音楽の関心が高く、従って多声音楽が重要視されず、また教会においても即興演奏が普通であった音楽環境や、「アルプスの向こう側」の音楽家を雇うことの流行が影響しているものと考えられている。
上記の作曲家の音楽のCDを幾つか掲げる。