| 1 シャルル6世発狂 |
| 2 オルレアン侯暗殺 |
| 3 アルマニャック党の結成 |
| 4 カボシュの乱 |
| 5 アラスの陣 |
しかし、1399年にクーデターによってリチャード2世は廃位され、アンジュー家(プランタジネット家)から傍系のランカスター家に王家が交代しました。初代のヘンリー4世はウェールズ地方、スコットランド地方に問題を抱えていたため、親仏政策を継続しました。しかし、20年の休戦にも関わらずフランス側は私的な行動に出て、イングランドの南海岸を荒らしました。
ところでフランス王家は重大な問題に直面していました。それが1392年のシャルル6世の発狂です。狂気の状況はいまだわからないようですが、間歇的なパラノイアか、精神分裂とみられているようです。王の病状はときどき回復し、コンセイユ(王家顧問会議)への出席の記録をみることで、その様子がわかります。また、『サン・ドニ修道士の年代記』にも王家の様子が詳しく書いてあります。
1403年、王妃イザボー・ド・バヴィエールが最後の子シャルルを生みました。
ブルゴーニュ侯が代がわりして、フィリップからジャン・サン・プールに移り、1405年にパリに登場すると当然のごとくぶつかりました。結果、1407年にジャンはルイ・ドルレアンがバルベット館から辞去してきたところを襲わせて、謀殺してしまいます。ジャンは自らの非を認めると、自領のフランドルへ逃げ込みました。その後、フランス王家が仲裁して、アミアンにおいて協議がなされ、当主を欠いたオルレアン家は立場が弱く、ブルゴーニュ侯ジャンはパリに帰還することとなりました。そして、ジャン・プチによる弁論によって無罪を勝ち取ります。それについては『中世の秋(下)』p128-131に詳細に書いてあります。
こうして、ブルゴーニュ侯の権勢は強まり、王妃イザボーと組んだことで、王家はブルゴーニュよりの政策をとらざる負えなくなりました。オルレアン側は一子シャルルが残されただけで、活動はうまくいきませんでした。
ルイ・ドルレアンとブルゴーニュ侯ジャンが対立していたころ、ルイはイタリア遠征を望み、ジャンはアルトワ・フランドルへ勢力を伸ばすことを望み、その後ホラント・ヘルレへと伸びていきました。こうした王家横領の構図が、激しい党派対立をうみました。
シャルル・ドルレアンがアルマニャック伯のむすめを迎えたことで、アルマニャック・ベリーとのつながりが出来たことはオルレアン側を次第に攻勢に向かわせることになりました。その一端が『パリ一住民の日記』にあります。(ただし、未確認)1410年から11年にアルマニャックの軍勢はパリの南に近づきました。白旗に白いたすきがアルマニャック与党の情報とのこと。
しかし、王家はブルゴーニュ側についていたので、シャルル6世が出かけていってベリー征討の軍が起こされました。このため、アルマニャック党の首魁がベリー侯ジャンとみなされそうですが、それは割り引いて考えるべきでしょう。
2 オルレアン侯暗殺
3 アルマニャック党の結成
4 カボシュの乱
八月の第三週、ウックを作るよう、お達しがあった。一面に銀箔を散らし、正道という文字が銀糸で縫い取られている紫羅紗地のコートで、八月の終わりまでに、パリにはこれが山ほどできた。幾百幾千と戻ってくる件の党の連中がこれを着たのだ。こうして、このころ、王政府と善良なるパリの町(の市政)にかかわりをもち、その縁者味方を要路に配した連中が支配しはじめたのであって、こうなっては、あるいはフランドルに逃げ、あるいはそれこそどこへでもよい、帝国や海の向こうに逃れたのであって、乞食や従者、あるいは馬具商、その他なんでもよい、ともかく身をやつして逃れることができたものは大変幸運だったとしなければならなかった。
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