1998年度 西洋史特殊講義第2回

戻る

要点
ブルゴーニュ党とアルマニャック党の形成。1420年代前史。

1 シャルル6世発狂
2 オルレアン侯暗殺
3 アルマニャック党の結成
4 カボシュの乱
5 アラスの陣


1 シャルル6世発狂

 エドワード3世とシャルル5世の争いが一段落して、イングランド王家とフランス王家は停戦しました。それはリチャード2世とシャルル6世の手によるもので、1396年の停戦のときにはリチャード2世は和平に持っていくつもりでした。

 しかし、1399年にクーデターによってリチャード2世は廃位され、アンジュー家(プランタジネット家)から傍系のランカスター家に王家が交代しました。初代のヘンリー4世はウェールズ地方、スコットランド地方に問題を抱えていたため、親仏政策を継続しました。しかし、20年の休戦にも関わらずフランス側は私的な行動に出て、イングランドの南海岸を荒らしました。

 ところでフランス王家は重大な問題に直面していました。それが1392年のシャルル6世の発狂です。狂気の状況はいまだわからないようですが、間歇的なパラノイアか、精神分裂とみられているようです。王の病状はときどき回復し、コンセイユ(王家顧問会議)への出席の記録をみることで、その様子がわかります。また、『サン・ドニ修道士の年代記』にも王家の様子が詳しく書いてあります。

 1403年、王妃イザボー・ド・バヴィエールが最後の子シャルルを生みました。

2 オルレアン侯暗殺

王が発狂したあと、王政は後見人の叔父たちによって握られました。そのなかでも一番権勢を振るったのがブルゴーニュ侯フィリップ・ル・アルディで、王弟オルレアン侯ルイと争いました。

 ブルゴーニュ侯が代がわりして、フィリップからジャン・サン・プールに移り、1405年にパリに登場すると当然のごとくぶつかりました。結果、1407年にジャンはルイ・ドルレアンがバルベット館から辞去してきたところを襲わせて、謀殺してしまいます。ジャンは自らの非を認めると、自領のフランドルへ逃げ込みました。その後、フランス王家が仲裁して、アミアンにおいて協議がなされ、当主を欠いたオルレアン家は立場が弱く、ブルゴーニュ侯ジャンはパリに帰還することとなりました。そして、ジャン・プチによる弁論によって無罪を勝ち取ります。それについては『中世の秋(下)』p128-131に詳細に書いてあります。

 こうして、ブルゴーニュ侯の権勢は強まり、王妃イザボーと組んだことで、王家はブルゴーニュよりの政策をとらざる負えなくなりました。オルレアン側は一子シャルルが残されただけで、活動はうまくいきませんでした。

3 アルマニャック党の結成

その後、シャルル・ドルレアンはアルマニャック伯のむすめと結婚しました。アルマニャック伯はベリー侯のむすめと結婚していたので、オルレアン家の後見がベリー侯、アルマニャック伯などロワール以南に展開されました。

 ルイ・ドルレアンとブルゴーニュ侯ジャンが対立していたころ、ルイはイタリア遠征を望み、ジャンはアルトワ・フランドルへ勢力を伸ばすことを望み、その後ホラント・ヘルレへと伸びていきました。こうした王家横領の構図が、激しい党派対立をうみました。

 シャルル・ドルレアンがアルマニャック伯のむすめを迎えたことで、アルマニャック・ベリーとのつながりが出来たことはオルレアン側を次第に攻勢に向かわせることになりました。その一端が『パリ一住民の日記』にあります。(ただし、未確認)1410年から11年にアルマニャックの軍勢はパリの南に近づきました。白旗に白いたすきがアルマニャック与党の情報とのこと。

 しかし、王家はブルゴーニュ側についていたので、シャルル6世が出かけていってベリー征討の軍が起こされました。このため、アルマニャック党の首魁がベリー侯ジャンとみなされそうですが、それは割り引いて考えるべきでしょう。

4 カボシュの乱

日記の記事によれば、食肉業者(ラ・ブーシェリ)がブルゴーニュ側について権勢をふるっていました。またパリ大学もブルゴーニュよりでした。しかし、食肉業者がブルゴーニュ侯をかさに着て、横暴に振舞い始め、やがて王政改革を要求するようになるとブルゴーニュ侯の旗色が悪くなりました。  ブルゴーニュ侯の王政改革は流れに沿ったもので、その一例が塩の専売制度(ガベル・ド・セル)で、海岸線をイングランドにとられているため、塩の安定供給を図るため、塩倉庫と塩役人に経営を任せられました。  しかし、食肉業者はさらに過激な要求をし、王家改革案を食肉業者の幹部シモン・カボシュが提出し、後代カボシュ勅令と呼ばれるようになりました。その後、カボシュの乱と発展し、ラ・ブーシェリの跳ね上がりによってブルゴーニュ侯ジャンはパリを退去し、自領に引きこもることとなりました。こうして、アルマニャック党の面々がパリに帰ってくることになります。『パリ一住民の日記』の記述から。

1413/08
八月の第三週、ウックを作るよう、お達しがあった。一面に銀箔を散らし、正道という文字が銀糸で縫い取られている紫羅紗地のコートで、八月の終わりまでに、パリにはこれが山ほどできた。幾百幾千と戻ってくる件の党の連中がこれを着たのだ。こうして、このころ、王政府と善良なるパリの町(の市政)にかかわりをもち、その縁者味方を要路に配した連中が支配しはじめたのであって、こうなっては、あるいはフランドルに逃げ、あるいはそれこそどこへでもよい、帝国や海の向こうに逃れたのであって、乞食や従者、あるいは馬具商、その他なんでもよい、ともかく身をやつして逃れることができたものは大変幸運だったとしなければならなかった。

5 アラスの陣

こうして、パリに戻ってきたアルマニャック党はベリーでの復讐とばかりにアルトワの首府アラス包囲に向かいます。

 これにはシャルル6世、王太子ルイ、妻マルグリット・ド・ブルゴーニュ、その未来の夫リッシュモン伯アルトゥールが参加していました。

 日記の文章は予言に満ちている。

第2回 了

履歴


参考文献


他のものを読む