パリ一住民の日記 旧版



一四〇五年
九月諸門閉鎖
九月十九日厳戒態勢
十月十日騒乱
一四〇八年
リエージュの戦いの死傷者
十一月十六日シャルル六世のトゥール行
一四〇九年
三月九日ブルゴーニュ侯パリ復帰
六月二十六日ピサ教皇の聖別
八月サンラードル村の雷
十月七日王家王番頭ジャン・ド・モンタギュの逮捕
一四一一年
六月注記
ミネルヴァ色の頭巾
ブラシュの花印
首斬り役人のショック死
一四一三年
五月白い頭巾
七月代官の笑い死
八月正道のウック
変装逃亡
一四一四年
防備体制
二月コンコン
三月タック・オリオン
一四一五年
二月十九日代官解任
三月七日増水と薪の値上がり
一四一六年
五月八日鎖の撤去
五月十五日食肉業者の商売魂
一四一七年
二月二十日通貨統制
四月三日王太子の死
五月二十九日通貨統制
五月三十日ゴミ処理問題
跳橋完成
にしん売り
九月ぶどう畑とブルゴーニュ侯方
十一月一日諸物値上がり
一四一八年
四月諸物値上がり
五月二十九日ブルゴーニュ侯方のパリ突入
民衆の呼応
六月九日聖アンドレ信徒会結成
ルーアンの救援
六月十二日民衆の牢獄襲撃
六月二十四日道路の鎖修復
九月疫病
諸物値上がり
一四一九年
諸物値上がり
三月十五日パン統制
三月パン不足
一四二〇年
シャルル六世のトロワ行
諸物値上がり
三月休戦協定の期限切れ
四月五日アルマニャック勢の跳梁跋扈
食糧事情の悪化
四月七日豊作
五月八日ヘンリー五世のパリ入城
六月二日ヘンリー五世と王女カトリーヌの結婚
モントロー包囲
ムーラン包囲
八月諸物値上がり
小銭不足
十月一日パンの値上げ
すっぱいぶどう酒
一四二一年
二月一日消費税
貧民救済
六月二十九日血の池地獄
十二月セーヌ氷浸け
一四二三年
一月寒風摩擦
四月ベドフォード侯の結婚
六月ウールセー攻囲
一四二四年
フランス王妃の貧しい生活
八月ヴェルヌイユの敗戦
十一月トレメー家の結婚
フランス王妃の慎ましい生活
グロスタ侯とヤコバ
一四二七年
四月五日ベドフォード侯の調停失敗
五月雨のノートルダム一行
六月一日パリ司教座の就任式
六月八日増水
八月六日パン統制
ジプシー来訪
十月一日冷夏
疫病ラ・ダンド
一四二八年
ベドフォード侯の宴会
八月サルスベリ伯の連勝街道
麦酒製造
九月十四日ぶどうの不作
十月二十三日サルスベリ伯の死
麦酒税
一四二九年
麦酒税
二月十日にしんの戦い
四月十六日説教師リシャール某
虚栄の焼却
五月十日むすめジャンヌ登場
おまえはすでに死んでいる
八月十日サンマルタン門閉鎖
九月七日むすめジャンヌのパリ攻め
九月ブルゴーニュ侯のパリ入城
一四三〇年
五月二十三日むすめジャンヌ捕縛
十月一日薪値上がり
一四三一年
パン不足
五月三十日むすめジャンヌの処刑
十一月一日ヘンリー六世のパリ入城
ヘンリー六世と王妃
フランスとイングランドの王の宴会
一四三二年
一月十三日大寒波
ベドフォード侯妃アンヌの死
一四三三年
一月諸物値上がり
八月悪疫ラ・ボス
一四三四年
十月七日大風
一四三五年
大雪
四月十七日枯れ木
五月十九日氷塊
九月二十四日フランス王妃イザベルの死
一四三六年
シャルル7世軍のパリ奪回
一四三七年
三月パン統制
十一月諸物値上がり
一四三八年
諸物値上がり
四月倒木
四月パン不足
六月穀物不足
十一月一日諸物値上がり
疫病
一四三九年
穀物値上がり
九月ルルーの親玉
どんぐり
一四四〇年
大豊作
偽ジャンヌ
一四四一年
豊作
九月二十五日捕虜虐待
一四四二年
三月二十五日流通良好
一四四三年
くるみ
一四四四年
七月十二日サンマルタン門開放
一四四六年
天才児事件
果物豊作
一四四七年
五月麦酒とぶどう酒
一四四八年
アニェス・ソレル
水枯れ
一四四九年
ラストダンス



1405/09
その後十日ないし十二日ほどして、パリの諸門の錠前と鍵が取替えられた。そうしてベリー侯とブルボン侯がパリの守備隊長に任じられた。軍兵が大挙してやってきて、まるでパリの郊外には兵士一人だに残っていないかのようだった。けれども、くだんのブルゴーニュ侯の手の者は、支払いをせずに物を奪ることなく、毎夜、宿賃はきちんと払い、パリの町では現金で支払いをしたのである。この間、パリの諸門は四つを除いて、すなわちサンドニ、サンタントワーヌ、サンジャック、サントノレを除いて閉鎖された。そうして、続く九月の十日、タンプル門、サンマルタン門が漆喰で塗りかためられた。

1405/09/12
同じく、続く金曜日、同月十二日、リエージュ司教がパリにやってきた。サンドニ門の入り口のところで、パリ代官その他がかれをして宣誓せしめるには、かれとその配下のものども、王に対し、また町に対して背くことなく、力のかぎり、これを守護すべきこと、と。かれはその身体とその主君とにかけて、それを誓い、その後パリに入って、トレモイユ館に宿泊した。その日、司教の到着後、往来の地べたに燈火を、水を戸口に置けと触れがまわった。そこで、みんなそうした。そうして、同九月十九日、地下室の明かり取りの小窓をふさげという命令の触れがまわった。そうして、続く二十四日、パリの金物職人、蹄鉄職人、また鍋職人に対して命令が出て、かつてあったがごとくに鎖を作れ、と。そこでくだんの鉄職人たちは、翌日仕事を始め、祝日も日曜も、夜も昼も働いた。そうして、同九月二十六日、甲冑を買うかねのあるものは、善良なるパリの町を防衛すべく、それを買えと、パリ中、触れがまわった。

1405/10/10
続く十月十日、土曜日、パリで騒動があった。理由は解らないが普通じゃない騒動だった。人々は、オルレアン侯が手勢すべてとともにサンジャック門にいるともいないともいい、ともかく、パリ中が混乱しているので、ブルゴーニュ侯の配下が武装してオルレアン勢を打ち破るのに向かった、といった。だれもどうなっているのかわからなかった。

1408/09/23
なにしろかれらはひどい目にあった。二万六千以上が死んだのであって、それは四百と八年九月二十三日のことだったが、戦火絶えぬ間に、火に焼かれ、飢えに苦しみ、寒さに凍え、剣に倒されて、さらに一万四千人が死んだのだ。じつに四万である。

1408/11/16
続く十一月十六日、土曜日、前述の諸卿、すなわちナヴァール、ロイ等は、王をトゥールに連れていった。民衆はそのことに大変当惑し、もしもブルゴーニュ侯がパリにいたならば、そうはさせなかっただろうに、といった。しかし、かれらはそうしたのだ。王はそこやシャルトルに十七週間いた。そうして、パリの商人頭や町人たちが、何度もなんども呼ばれて出掛けていった。しかし、かれらにとっても、また民衆にとっても、得になることはなにも決まらなかった。

1409/03/09
続く三月九日、ブルゴーニュ侯が、貴顕を引き連れて戻ってきた。そうして同三月の十七日、日曜日、かれらは王をパリに連れてきた。王は、ここ二百年間、かつて見られなかったほどに敬意を払われて迎えられた。なにしろ夜警隊の警吏や商人組合のそれ、騎馬警吏に笞の警吏、また十二人組、全員がそれぞれちがうお仕着せと、とりわけ頭巾をつけていて、また、町人全員が王の前に進みでる。王に先行してラッパ吹き十二人に楽人多数。王の進む先々で、なんとも喜ばしげなノエルの叫び声があがり、すみれやなにかの花々が王に投げかけられた。夜になって、路上の宴会が開かれて、みんな大層楽しそうにやっていて、いたるところで火が焚かれ、パリ中どこでも、金だらいで水をかけていた。そうして、その翌日、王妃と王太子がやってきて、前日と同じかそれ以上に、人々の喜びは大きかったのであって、なにしろ、はじめてパリにきたとき以来、王妃がこんなにも敬意を払われて入城するのは、かつて見られなかったほどだったのだ。

1409/06/26
続く六月二十六日、教皇が決まった。すなわちピエール・ド・カンディ。続く七月の月曜八日にパリで披露された。人々はいとも高雅にこれを祝った。王のトゥールからの帰還のときのことを前に書いたが、そんなふうだった。パリ中の僧堂が高らかに、また夜を徹して、鐘を打ち鳴らした。

1409/08
一千四百と九年、八月の真中の日、朝の五時から六時のあいだ、雷が鳴って、サンラードル修道院の建物の上の石造りの、最近作られたばかりの聖母の像が、真中から裂けて遠くへとばされた。サンラードル村のパリの町寄りのはずれでは、ふたりの男が雷に打たれ、ひとりは即死した。靴、股引、襦袢はずたずたに裂けたのに、身体にはなんの傷もなかった。もうひとりは、完全に気が狂ってしまった。

1409/10/07
一千四百と九年、十月七日、月曜日、ジャン・ド・モンタギュと呼ばれる王家王番頭がサンヴィクトール近くで逮捕され、Petit Chatelet(小堡)に押し込まれた。かれが捕まったことはパリで騒動となり、まるで町中サラセン人でいっぱいのように何が起きたのか誰も知らなかった。かれを逮捕したのはPierre des Essartsという呼ばれる男で、のちにパリ代官になった。再び、燈火をつけ、むかしのように、水を戸口に置くように触れがまわった。毎夜、徒歩と騎馬の警吏が注意深く見回った。商いはいつもどおりだった。

1409/10/17
そうして、その月、十月の十七日、木曜日、くだんの王家王番頭は、二輪の荷馬車にのせられ、官服をまとい、白と赤に染めわけられた毛皮裏地のコートを羽織り、同様の頭巾をつけて、片側赤、片側白の股引に、黄金の拍車、両手を前に縛られて、木の十字架をもたされ、荷車の上に高々と坐らされて、トランペット吹きふたりが先導し、こんな様子でレアルにひかれた。そこで首をはねられた。事が終わってのち、身体は刑場に運ばれ、下着姿で、股引と黄金の拍車はつけたまま、高く吊された。

−中略−

1411/06/30
注記 四百と十一年六月の最後の日、火曜、ポール聖人の祝日、正餐後の八時ごろ、雹が降り、風強く、雷鳴とどろき、稲妻が走った。その凄まじさたるや、およそこの世に生を受けたものの、かつて見たことのないほどのものであった。

−中略−

1411/10
このころパリの人たちはミネルヴァの眼の色の羅紗地の頭巾をかぶり、まんなかに百合花紋様の楯型紋章を描いた聖アンドレ十字架をつけた。二週間もたたぬうちに、胸や背中に、その十字架をつけた人が、大人こどもあわせて一万をかぞえた。

−中略−

1411/10
このころパリにアンゲラン・ド・ブールノンヴィルというのと、アメ・ド・ブレという名の楯持ちがいて、日夜襲撃をかけたので、サンポール伯とその手勢よりもこのふたりの方をかれらは怖れていた。サンポール伯はパリの隊長で、その軍旗はブラシュの花印だった。

−中略−

1411/11
次いで、かの徒党の騎士がもうひとり捕らえられたが、マンサール・デュボワといい、これほどの剛のものはよそにみられないほどだった。これはパリの市場で首斬られたが、首を斬り落とされてから、両の肩で首台を強く押したので、もうすこしで台が倒れそうになり、首斬り役人はたいそうおどろいて、なにしろかれはその後すぐ、六日ののちに死んだのであって、メートル・ギフロワといった。そうして助手のカプルシュが、跡を襲って首斬り役人になった。

−中略−

1413/05
この月、五月、町は白い頭巾をつけた。三千から四千作られた。王もそれをつけ、ギュイエンヌ、ベリー、ブルゴーニュの殿もつけた。月の終わりまでに、町にたくさん出まわり、どこをみてもほかの頭巾は眼に入らぬありさまとなった。

司祭もそれをつけ、相当な地位のある商人女も売ってるその品物をつけた。

−中略−

1413/07/01
一四一三年七月の最初の日、件の代官はもっこに乗せられて兜屋小路まで曳き出され、荷車の上に渡した板に据えられて、手に木の十字架、貂の毛皮の裏付きの、裁切れ仕立ての黒の上衣、生なりの股引、黒の麻靴。そんな格好で市場に曳かれ、首斬られた。そうして、これは嘘ではない、もっこに乗せられてから首斬られるまで、かれは笑いを絶やさず、その尊大ぶりは、これはてっきり気が狂れたかと人の疑うほどのものがあった。死にゆくものへの憐みに衝き動かされ、群集は盛大に涙するというのに、かれひとり笑い、下衆どもが、このおれを殺させまいよ、とかれは考えていたのだ。

−中略−

1413/08
八月の第三週、ウックを作るよう、お達しがあった。一面に銀箔を散らし、正道という文字が銀糸で縫い取られている紫羅紗地のコートで、八月の終わりまでに、パリにはこれが山ほどできた。幾百幾千と戻ってくる件の党の連中がこれを着たのだ。こうして、このころ、王政府と善良なるパリの町(の市政)にかかわりをもち、その縁者味方を要路に配した連中が支配しはじめたのであって、こうなっては、あるいはフランドルに逃げ、あるいはそれこそどこへでもよい、帝国や海の向こうに逃れたのであって、乞食や従者、あるいは馬具商、その他なんでもよい、ともかく身をやつして逃れることができたものは大変幸運だったとしなければならなかった。

−中略−

1414/02
・・・橋のこちら側ではサンタントワーヌ門の他は開かれておらず、むこう側でもサンジャック門だけ。サンドニ門の守りはゴール卿、サンマルタン門はエタンプをさんざん苦しめたルイ・ブルボン、またベリー侯はタンプル門を守り、オルレアンはサンマルタン・デシャンにあり、これこそが連中の頭目格アルマニャックはアルトワ館にあり、アランソンはベエンニュにある。つまり、残らず橋のこちら側にいたのであって・・・

−中略−

1414/02
このころ、日暮れ時、ぶどう酒や辛子を買いに出るこどもたちが、声をそろえて、「おばさん、あんたのコンは咳をする、コンコン、コンコン咳をする」と歌うのだった。神の思し召すところ、瘴気、全市を覆い・・・

−中略−

・・・みんな飲むことも喰うも休むもできず、日に二三度高い熱が出て、とくになにか食べるとそうなって、食べものすべてが苦く、味悪く、臭いが鼻につく。どこにどうしていようと、たえずからだにふるえがくる。くわえて、いちばんぐあいのわるいことにからだの力がすっかりぬけてしまって、自分のからだのどこにさわることさえできない。こんな状態が三週間以上つづく。たしかなところ、この病気はこの年の三月はじめからはじまり、タックともオリオンとも呼ばれた。

これにかからなかった人や直った人は、ふざけてこういうのだった。「なんだ、あんたもかかったの?さては歌ったな、あんたのコンは咳をする、おばさん、ってのを」と。

なぜこんな歌がはやったかといえば、なにしろ咳がひどくて、鼻がつまりのどがやられて、ミサを歌うこともできず、パリでは大ミサに列席する人がいなくなったのだ。なによりもかによりも咳が問題で、昼夜となくせきこむので、はげしくせきこんだ拍子に肺を破って命をおとす人も出た。子をはらんでいた女のうちには、まだ産む月でもないというのに、せきこんだせいで、介添の人もいないまま子を生んでしまい、苦しみもがいて母も子も死んでしまったのもいた。直りかけてくると、口や鼻や、下の方の穴から大量に血を吐いて、みんなたいへんおどろくのだが、それで死ぬ人はいなかった。だからといって、それで直ったというわけではない。なにしろ食欲がもどってから、さらに六週間たたないと、完全に直ったというわけではなかったのだ。医者もだれも、これがどんな病気なのか、わからなかった。

−中略−

1415/02/19
また、木曜、十九日、パリ代官アンドレ・マルシャンが解任された。これは以前にも落度があって解任されたことがあったが、いつも金の力にものをいわせる男で、それが今度ばかりはだめで、かわりにタヌギイ・ド・シャテル卿が、二度目だか三度目だかということで同職についたのだ。

−中略−

1415/03/07
三月七日ないし八日のころ、パリではセーヌが増水したので、薪がモル当りパリ貨で九から十スーになった。コトレもの百束は、上等が欲しければパリ貨二十八から三十二スー。木炭一袋がパリ貨十ニスー。粗朶や干草も同様に高い。

−中略−アザンクールの戦い

1416/05/08
同じく、五月八日、金曜日、パリにあった鉄の鎖が撤去されて、サンタントワーヌへ運ばれた。このころ、パンがとても高く、細民の家では、とても満足するまで食べることはできなかった。なにしろ高値は大変長く続いて、じつに一ダース、以前には十八ドニエで買えたのが、パリ貨四スーしたのだ。

−中略−

1416/05/15
続く金曜、同月十五日、かれらはパリの食肉業者の建物の撤去を始めた。日曜には、食肉業者はノートルダム橋の上の仮店で肉を売っていた。

−中略−

1417/02/20
同年、二月二十日、王の極印を打ったもの以外のかねは認めないというお触れが出た。

−中略−

1417/04/03
ギュイエンヌの殿、王の長子がコンピエーニュで四月三日に亡くなった。かれは十五ヶ月のあいだ王太子だった。このころ、くさってもにごってもいないぶどう酒が一パント当り一ドニエで買えた。だが税金は重い。毎年のことだ。だれもブルゴーニュ侯のことを語ろうとしない。死んだのか、破産したのか、それとも追放の憂目にあったのか。

1417/05/29
五月二十九日、聖霊降臨の大祝日の前日、触れが出て、王の極印を打ったもの以外のかねはもつな、取引はスーないしリーヴルにかぎる、とのこと。また羊金貨小判はパリ貨十六スーに計算すべしとの触れも出たが、これは十一スーにしか通用していなかったのだ。

1417/05/30
そうして続く月曜日、聖霊降臨祭の初日、パリの人たちは、身分を問わず、司祭も僧侶も、汚物を自分で処理するか、かねを払って人にかたづけさせるかしはじめた。なにしろその取立てはきびしく、どんな身分の人も、まるまる五日分、その支払いにあてなければならなかった。ところが、百払っても、それに使われるのはせいぜい四十、残りはお上のものになったのだ。

1417/06
この週、アントワーヌ聖人門の跳橋が完成した。バスチーユとチュイルリーの皮革処理場のあいだに家屋が建てられたのもこの年のことだ。

−中略−

1417/10
塩バター一リーヴルがパリ貨ニスー、卵は四ドニエで二個か三個かがせいぜい、身欠きにしんの小さいのがパリ貨六ドニエ、ドニ聖人の祭日の週間に生にしんがパリに到来して、三ないし四ペニエ、一尾三から四ブランで、あわただしく売られていた。薫製にしんは二ドニエ、それ以下ではない。八月には二ドニエで買えたぶどう酒が、九月にはパリ貨四から六ドニエしたのだ。

1417/10
このころパリには深刻な悩みがあった。そのせいで、だれもパリの外へぶどうのとりいれに出かけなかったのである。ジャック聖人門の向うのシャチオン、バニュー、フォントネー、ヴァンヴ、イシイ、クラマール、モンルージュ。それというのも、ブルゴーニュ侯方の軍兵はパリの町の人たちをたいそう憎んでいて・・・

−中略−

1417/11/01
また、万聖節(十一月一日)のあと、薪がなんとも値上がりして、なにしろ質のいいコトレもの百束が二フラン、中くらいのが二十四スー、ボンディものはパリ貨二十スー。かさで量るのは、一モル当りパリ貨十スー。この高値は冬中つづいた。また、このころ、肉がとても高くなって、羊肉のブロックがパリ貨七から八スー、羊の尻肉一切れが二、これは十月にはパリ貨六ドニエで買えたのだ。羊の臓物が二から三ブラン、羊の頭がパリ貨六ドニエ、塩バター一リーヴル、八ブラン。また、ほんの小さな豚が六十スーないし四フランした。

−中略−

1418/04
復活祭のころ、卵は四分の百個で八ブラン、白チーズはほんのひとかけで七から八ブラン、塩バター一リーヴルは七から八ブラン、牛や羊は小さなかたまりが五から六ブランで、これというのもすべてパリ代官と商人頭が悪いのだ。この年の復活祭の日、終日雪で、なにしろ降誕祭のころでさえもためしのないほどの激しい降りで、そのせいで、四分の一束一フラン出しても、グレーヴで薪が手に入らなかった。

−中略−

1418/05
かくしてパリでは諸物すごい値上がりで、なにしろ卵ふたつがパリ貨四ドニエもし、白チーズの小片が七から八ブラン、バターは十一から十二ブラン、フランドル渡りの薫製にしんの小さいのがパリ貨三ドニエから四ドニエ。パリの外からなにも入らなくなった。上記の軍兵のせいだ。

−中略−

1418/05
だがすべてをお見通しの神は憐れみのうちにその民を御覧になり、運命を目覚めさせた。

−中略−

1418/05/29
日曜の夜から、続く月曜、火曜、連中を警戒して、パリじゅう見張りを立て、火をたかねばならなかった。この間、かれらは逃げかくれていたほかの仲間を寄せ集めて数を増し、続く水曜日、朝の八時ごろ、砦(サンタントワーヌ門の城館)を出て、街の内側から門をあけにかかった。ああ、みたくもない光景ではあった。こうして、連中とともに大勢の軍兵が街に入り、サンタントワーヌ大通りにながれこんで、口々に叫んだ、「殺せ!殺せ!街は占領したぞ、王と王太子ばんざい、イングランド王ばんざい、みんなやっつけろ、残らず殺せ」

ところで、ブルゴーニュ勢が街に入った日、五月の二十九日、日曜日、九時課(午後三時)の前、ブルゴーニュ軍入城の折、尼僧、托鉢僧、アンドレ十字架をもった男女、全身分あわせて、こどもを除き、二十万人以上いた、これはたしかなこと。

さて、パリは騒然となった、民衆は軍兵よりもすばやく武装し、連中の軍隊がやってくるよりも早く押し出して、連中をティロン館のわきで喰い止めた。そこへパリの新代官が軍勢を率いて到着し、あいだをおかず、民衆勢の助けを得て、敵勢を多数やっつけ、殺し、サンタントワーヌ門外に押し返した。他方、民衆は、かの徒党への憎しみに燃えて、パリじゅうの宿屋という宿屋に押しかけて、かの徒党にくみするものを探し求め、そいつをみつけては、どんな身分のものであれ、捕虜だろうがなんだろうが、街路にひきだして軍兵にひきわたし、情け容赦もあろうばこそ、大斧その他の武器で殺された。その日、武器を手にもたぬものなく、かの徒党のものたちが息絶えて横たわっているそばを通りかかるや、武器をふるって死体を傷つけるのだった。女こども、また虚弱のものたちは、死体を傷つけて恨みをはらすことができないままに、通りすがりに呪いのことばを吐いた、「裏切者の犬どもめ、ふさわしすぎるほどの死にざまよ、ほらまたいたよ、みんなこうなるがいいさ、神もおよろこびだ」

パリの名のある通りにして屠殺の行われないところはなかった。屍体がいくつかころがっているのを見てから百歩も歩かぬうちに、屍体は、下穿ひとつ残してあとは身ぐるみ剥がれる始末で、その有り様は、まこと泥中の豚のごとく、あわれを誘うことであった。なにしろ、この週、雨が激しく降らなかった日はなかったのだ。この日、この町では、屋内で殺されたのは除いても、五百二十二人であった。そして、その夜、はげしく雨が降ったので、死体はすこしも悪臭を発せず、傷口は雨に洗われて、朝になってみると、傷口には血がこびりついているだけで、汚物は残っていなかった。

−中略−

1418/06/09
サンユスタンシュ教区で、聖アンドレ信徒会結成のはなしが出て、六月の九日、木曜日に集まりがあった。出席者全員が赤ばらの帽子をかぶった。大勢の人が出席したので、信徒会の世話役たちの請合っていうには、実に六十ダースもの帽子を作らせた。ところが、十二時にもならぬうちに、帽子がなくなってしまった。サンユスタンシュ修道院では人で一杯になったが、司祭をはじめ、頭に赤ばらの帽子をのせていないものはいなかったので、聖堂のなかは、ばら水で洗われたかのように、いい香りがあふれた。

この週、ルーアンがパリを助けようと動き出し、三百ランス(千八百)の兵隊と三百の弓兵をイングランド人と戦うために送った。

1418/06/12
続く日曜日、六月十二日の夜十一時ごろ、サンジェルマン門の方で警戒の叫びがあがった。ボンデル門の方からも聞こえた。そこでモーベール広場界隈の民衆が動きだし、次いでレアルやグレーヴの、橋のこちら側の人たちが、パリ中の人たちが上述の諸門めがけて駆けつけた。

−中略−

そうして、かれらの隊長である貪欲は旗印を高く掲げ、裏切りと復讐を引き連れて、声高に叫びはじめた。

「殺せ!殺せ!裏切り者のアルマニャックの犬どもを殺せ!今夜こそ、ひとりでも逃すようなことがあったら、神なんか知ったこっちゃない!」

得たりや応と、狂乱、殺人、殺戮が殺戮し、打ち倒し、殺し、牢屋のなかにいた連中を情け容赦もなく、皆殺しにしたのであって、殺す筋合いがあってかなくともか、そんなことはどうでもよい。そうして貪欲は衣服の裾を帯の下にたくしこみ、娘の掠奪と息子の窃盗を引き連れて、人が殺されたと見るや、その人が身につけていたもの一切を剥ぎ取り、なにしろ貪欲は、せめて下穿はぐらいは、と残しておいてやることをさえも望まなかったのだ、四ドニエもしないものだというのに。このことはキリスト教徒たるものの他人に対する最大の、およそ口にしうるかぎり最大の残酷、人道背反の一例なのだ。

−中略−

・・・じっさい、昼の十時にならないうちに、各所の牢獄の前には、犬か豚かなんぞのように死体が山と積まれ、憐憫の情を示すどころか、こういったものもいる「やつらはおれたちや女やこどもを溺れ死にさせようと袋を作らせたのだ、イングランド王とその騎士連中のために旗を作らせたのだ、パリをイングランド勢にひきわたすとき、パリの門に掲げようというわけだ。赤い十字架模様の記章を三千以上も作らせて、殺す相手の家の戸口に目印にはりつけさせようとしたのだ」。人びとが悪しき忿怒につきうごかされて熱しきっているのをみて、代官はもはや理性、憐憫、正義について語ろうとはせずに、こういった、「みなさん、すきなようにしなさい」。こうして人びとは牢獄という牢獄に押しかけ、押し入ることが難しい牢獄には火をつけて、中の連中は身を守るすべもなく、折り重なって苦悶のうちに焼け死んだ。こうしてパリの牢獄では、ただルーヴルは除いて、なにしろそこには王がいたのだから、焼き殺され、斬り殺されなかった捕虜はいなかった。

真夜中から翌朝にかけて、男女大勢が殺されて、その数一千五百十八人。そのなかには王軍長、官房長、ルモネ・ド・ラ・ゲールという名の隊長、役人のピエール・ド・レクラ、ピエール・ガイアン、ギヨーム・パリ、それに官房長の息子のクータンス司教がいた。耕地の側の裏庭で殺されて、丸二日間、王宮の階段の一番下の大理石の上におかれて、その後この七人はサンマルタンのくだんの裏庭に葬られ、残りのものはトリニテに埋められた。

−中略−

この年、大市のことは話題にならなかった。気のぬけたころ、ブラバントの靴をすこし売っていた。ドニ聖人大通りの神の娘たちのそばに屋台がみっつ。

同じく、ヨハネ聖人の祝日の前日、鉄の鎖がパリの通りのはずれに再び設置された。全部みつかるはずだったのが、三百、足りなかった。生前、くだんの徒輩が自分たちの用に使ってしまったのだ。どこにあるか、わからない。そこで大急ぎで作り直した。

−中略−

1418/07
またまずしい人が駆り出されて、火をたき、徹夜の警備に当らされた。そのせいで薪の値段が上がり、ボンディの薪はパリ貨十三から十四スー、ごく小ぶりのグレーヴものがパリ貨二十六スー、モル一杯がパリ貨十スー、木炭一俵がパリ貨十三から十四スー。卵は、このところ白銅一枚(一ドニエ?)では、二、三個しか買えず、バターは大安売りで、一斤が白銅六枚(六ドニエ?)、安酒もいいところなので半升当り六文(六ドニエ?)した。

−中略−はらみ女殺しの罪でカプルシュ処刑

1418/09
また、同年九月、パリとその周辺では死亡者の数がおそろしいまでになった。老人のいうところでは、ここ三百年来のことだという。なにしろ一度この疫病にかかったら、だれひとり逃げられなかったのだ、とくに若者とこどもがやられた。月の終わりごろには、あまりにも多数いちどきに死んだので、やむなく市内のあちこちの墓場に大きな溝を掘り、そこに三十、あそこに四十と死体を投げこみ、ちょうど脂肪の塊をあんばいするようなぐあいで、そして申しわけていどに上に薄く土をかけるという始末。

−中略−

なにしろ五週間たつかたたないうちに、パリ市内で五千人以上の人が死んだのだ。教会の人も多数死んだので、たった一回の略式ミサで四人、六人、八人と、世帯主たちが葬られたり、いくら出せばミサをあげてくれるのか、司祭と談合しなければならなくなった。なんと十六ないし十八スー・パリジス(パリ貨スー)、小ミサに四スーを支払わされることもめずらしくなかった。

−中略−

十月、十一月を通じて、前述のごとく、死はその猛威をふるい、もはや死者を埋葬すべき場所がなくなったので、大きな溝を、サンジノッサンに五つ、ラ・トリニテには四つ、その他の墓地にその広さに応じて掘り、それぞれに六百ほどの死体を埋めた。そして、これはたしかなところだが、パリのコルドリエ僧院が、その僧団の聖クレパンと聖クレピニアン信徒会の結成記念日に、(その信徒会に属する)同職の人々(靴屋)の死亡者数を調べたところ、かぞえてみてわかったのには、なんと、この二ヶ月のあいだに、親方、職人あわせて千八百人が死んでいた。パリの各所の墓地に墓穴を掘った施療院の人びとの確信するところでは、聖母御誕生の日(九月八日)から御受胎告知の日(翌年三月二十五日)にいたるまでのあいだに、パリにおいては十万人以上を葬った。また、老人の死体は、四百ないし五百のうちに十二しかみなかった。みんなこどもや若者の死体だったという。

−中略−

そういうわけで、十四歳の少年が一度に八ドニエのパンを食べ、パン一ダースで以前は七から八ブランだったのが、六スーもするようになり、チーズの小片が十から十二ブラン、卵が二十五個で五から六スー、上等の羊、車一台分、あるいは牛が三十八フラン。マルヌもののたぐいのけちな薪で、まだ青々としているのが百束でパリ貨四十スーから三フラン、モル売りのは十二スー、葉っぱだらけの情けない粗朶が百束でパリ貨三十六スー、アンゴワス梨、二十五個で四スー、りんごはニスー、ないし六ブラン、塩バター、リーヴル当り八ブラン、フリースラント産のチーズ、小片がパリ貨十六ドニエ、以前は八ブランで買えた靴一足が、十六から十八ブラン。

−中略−

1419
(挿入位置不明)・・・くるみ百個が十六ドニエ、オリーヴ油一パント、パリ貨六スー・・・(挿入位置不明)

−中略−

1419/01
要するにすべてが高くなって、なにしろなにを買うにも、ドニエが四倍いったのだ。ただ青銅とか鉛のたぐいは別で、青銅はリーヴル当り六ドニエ、鉛は十から八ドニエで買えた。だが、銀はこのところマール当り十フランし、羊金貨は、前にも書いたが、十六スーだったのが、パリ貨二十スーで通用した。

−中略−

1419/03/15
また、続く三月十五日前後、麦はたいそう高くて、スチエが八フランもした。そこで月末の一週間ほど前、パリの辻々に触れがまわって、なんぴとたりともライ麦をスチエ当り三フラン以上で売るべからず。小麦ライ麦の混合はパリ貨六十スー、小麦の上等はスチエ当りパリ貨七十二スー以上で売るべからず。また、粉屋は挽き賃を銀貨以外で受けるべからず。すなわち、スチエ当り八ブランとする。また、パン屋は上等白パン、ブルジョワ・パン、最良の粉を使ったフェティ・パンを、量目の定めに従って作るべきこと、と。麦の買付けに出ようとしていた商人やパン屋は、この触れに接して、パンを焼くのを止め、外出を見合わせた。

三月の最後の週、これは四旬節の第四週に当ったが、パリの市場やモーベール広場で、パン一ダース、二十スー出しても、なかなか手に入らなかった。たしかにパンを焼いている店もあったが、なにしろ手に入るのはせいぜい一個か二個で、店の前にはいつも五十人、六十人が焼けるのを待っていて、かまから出されるや、奪うようにしてもっていってしまう。パリの町の暮らしはそんな状況であって、じっさい、四旬節を通じて、まずしい人は、これ以上はないまでに真っ黒で、香りもなにもないパンしか食べられなかった。四旬節の終わり頃、時折、たらが入荷した。ところが、一袋パリ貨二十六スーで、以前は五ブランで売られていたこともあったというのに、五ブランや六ブランでは、ほんのすこししか手に入らなかった。いちじくも良く出まわったが、皮の厚い、ざらざらした舌ざわりのしろもので、リーヴル当り、二スーで売っていた。樽詰めにしんの上物は一尾パリ貨八ドニエ、薫製は六ドニエ。小ぶりのいか、三ないし四ブラン。玉ねぎが暴騰して、二十個ないし二十四個詰めの小箱がパリ貨四スーした。

−中略−

モントローの謀殺を含む三枚の写本が喪失。

−中略−

1420
(挿入位置不明)あるパン屋は、十二オンスの白パン、十五オンスの黒パンを売ったというので、首に二個のパンを振分にぶら吊げた恰好で晒された(挿入位置不明)

−中略−

1420
十二月、一月、二月とすぎたが、王も王妃もパリに帰らない。あいかわらずトロワにいる。パリのまわりには終日アルマニャック勢が出没して荒らしまわる。ものを奪い、放火し、人を殺し、婦女子を犯す。尼僧もやられた。パリ周辺中リューにわたって村はもぬけのから。みんな町に逃げこんでしまった。なにしろ食物であれなんであれ、こっち側かと思えばあっち側、あちら側かと見ればこちら側の兵士どもにみんなとられてしまう体たらく。ブルゴーニュ派、アルマニャック党、それぞれがそれぞれの役割をしっかり演じている。だからパンの値段がはね上がる。あたりまえだ。なにしろ、このころ、麦の上等は十フラン出しても手に入らず、フランはパリ貨十六スーで、一スチエを粉に挽くのにパリ貨八から十スーとられ、しかも粉屋が不当に稼ぐ分は、それは別の話しだった。

そこで、麦を粉屋に渡すときは重量を測ること、粉は重量で返すことと触れが出た。そういうことで、スチエを量るのに八ドニエとられることになった。また、粉屋は挽き賃にパリ貨四スーとることになった。

また、このころ、パン屋は白パンを焼かなかった。また、一個パリ貨八ドニエ以下のパンはなかったので、貧乏人はパンが買えなかった。貧乏人は、大方、くるみパンしか食べられなかった。

また、四旬節のころ、なにしろものが高くて、香辛料にしても、いちじくにしても、ぶどうにしても、アーモンドにしても、リーヴル当りパリ貨五スー以下では買えなかった。オリーヴ油はパリ貨四スー以上した。

また、染め賃がはね上がって、一オーヌの毛織物を濃緑色に染めるのに、パリ貨十四スーかかった。その他の色についても同様。

1420/03
このころ、一四一九年(旧暦)三月、イギリス軍との休戦協定が切れた。そこで、ブルゴーニュ侯待ちということで、あらためて休戦協定の締結を望んだのだが、イギリス王は、ボーモン城、コルベイユ、ポン・サント・メサンスその他多くを欲しがり、それが自分のものにならないかぎり、相談に応じようという気がなかった。そこで、以前のような戦争になった。だれもかれもが一途にパリを妬み、それというのもパリの町が富み豊かだからで、それを横どりしてやろうとしか考えず、根こそぎ掠奪してやろうとしか目論まなかったのである。

また、四旬節の聖金曜日、今年は四月五日に当ったが、アルマニャック勢が解き放たれた悪魔の群れよろしくやってきて、パリ周辺に出没し、殺し、盗み、劫掠の限りをつくした。そうして、その日、シャンピニイ・シュール・マルヌの砦に火を放ち、女、こども、男たち、牡牛、牝牛、牝羊など家畜、燕麦、小麦、その他穀物を焼いた。そうして、火の勢いのあまりのすさまじさに、中からとび出してくる男がいると、それをめがけて槍をつっかける。地面に倒れた男を見れば、槍の三、四本も突きささり、斧がめりこんでいる。そんな、なんとも残忍な所業を、その日、あちこちで、アルマニャックの連中は働いたのだ。そうして、翌日、復活祭の前日には、クロワシイという城砦が、連中の、これに輪をかけた残忍な振舞いの犠牲となった。

1420/04
また、先週のことだが、パリの商人たちが、食料を調達してパリに輸送すべく、シャルトルやその附近に出かけていった。パリの町は食糧を大量に必要としていたのだ。ところが、なにしろパリには裏切者がゴマンといて、そのことがアルマニャック勢の察知するところとなった。アルマニャック勢は商人たちをガランドンまで追尾し、その町を包囲したのである。それが原因で、復活祭には肉の値段が高騰し、パリの住民大方は、この日、手に入ったのは豚の脂肉だけ。それだけしか食べられなかった。なにしろ上等の羊の四半分がじつにパリ貨三十二スーしたのだ。ちっぽけな羊の尻尾がパリ貨十スー、仔牛の頭、モツがそれぞれ十二スー、牝牛はパリ貨六スー、豚は時価、なにしろ去勢牛は、その日、パリでは売られていなかった。

−中略−

1420/04/07
同じく、一四二〇年の復活祭、四月七日、もうバラが咲いた。そうして五月に入って二週間で、みんなしぼんだ。五月初頭、さくらんぼの上物が売られていた。麦は、五月の末に、昨年のジャン聖人の祝日のころよりも、よく熟していた。そんなぐあいで、作物の出来はよく、貧乏人にはこれは大変な福音だった。なにしろ前に書いたように、なんでもとても高かったのだ。衣類はなおのことで、以前十六スーの毛織物がパリ貨四十スーし、良質の亜麻布一オーヌが十二スー、綿入り麻織物がパリ貨十六スー、サージも十六スー、股引も靴も以前よりずっと高い。

同じく、このころ、アルマニャック党の残党の残忍には前代未聞のものがあり、人を殺す、ものを奪う、女を犯す。教会堂に火をかけて、妊婦、女こどもを区別せず、中の人々を焼き殺す。これは人間のすることではない。悪魔の所業であって、だからこそ、フランスの古い敵のイングランド王と協定を結び、フランス王の娘のひとり、その名をカトリーヌをかれに与えることが適切だったのだ。イングランド王は、一四二〇年五月八日、サンドニ修道院に一泊し、翌日、サンマルタン門を通過した。大変立派な供まわりで、噂では、弓射手等見事な服装の者ども七千。王に先行して棒持されるのは黄金の王冠をいただく兜、また王の標識たる刺繍仕立ての狐の尾。こうしてフランス王に会うべく、トロワに赴こうと、シャラントン橋に一泊したが、そこでパリの住民から王に献上のことがあった、すなわち馬車四台分の上等のぶどう酒。ところが、見たところ、王はそれを意に留めない様子だった。

同じく、この日、パリの民衆はだれもパリの外にでることがゆるされなかった。

同じく、そこから、アルマニャック党をものともせず、トロワに出掛けた。アルマニャックの連中はかれをやっつけると豪語していたのだが、あえて行動にでようとはしなかったのだ。

1420/06/02
同じく、一四二〇年、三位一体の祝日、六月二日、トロワにおいて、くだんのイングランド王がフランスの娘と結婚した。続く月曜日、なにしろ王と王の娘だ、結婚の祝いの恒例の馬上槍試合を挙行したいとフランスとイングランドの騎士たちが申し出たのに対して、イングランド王は、だいたいがかれを楽しませようと試合をやりたいと望んだというのに、じっくりと望みを聞いたあげくに、断を下して、こういった、その娘をわが妻とした王陛下とその家臣たち、またわが下知する家臣のものにおねがいする、サンスの町へ出掛けて、その前面に布陣すべく、明朝までには用意万端整えられよ。町には王陛下の敵がいるのだ。馬上槍を構え、試合を楽しみ、勇武のほどを開陳するのはそこでもできる。この世において真の勇気は、細民の安心して生活できるように、悪をただすことにあるのだから。そこでフランス王はイングランド王にそれを許可し、各人それに賛同し、そのように事は運ばれた。そうしてかれらは大いにつとめたので、聖バルナベの祝日、六月十一日、町は占領された。そうして、かれらはそこを発って、モントルー・ウ・フォ・イヨンヌを包囲しに出掛けた。

同じく、一四二〇年、モントロー前面にあまり大勢いたので、なかの連中は、かなりの額のかねをはらって、命は助けてもらい、降伏した。そのなかにはギトリーの領主がいた。これはこの世でもっとも残忍で専制者で、他の連中と一緒に釈放されたのだが、その後、ガティネ他各地で、サラセン人顔負けの悪行を働いたのだ。

そこから、イングランド王とブルゴーニュのものたちはムーランにいき、そこを包囲した。

1420/08
また、このころ、収穫の盛りの八月なかばだというのに、前にも増してアルマニャック勢が跳梁する。かれらのせいで、ものの値段が軒並み上がり、靴一足がパリ貨十スーはする。それほど上物でもない股引一着が二フランないし四十スー。

また、このころ、十八スーのエキュ金貨は四フランあるいはそれ以上した。イギリスのノーブル金貨は八フランした。

また、このころ、パリでは小銭が不足して、まずしい人に施物を与えるにも事欠くありさま。なにしろ、近ごろ発行された十六ドニエのグロよりも、パリ貨の旧ドニエ四枚の方が値打ちがあったのだ。そこで、以前まったく流通しなかった質の悪い八ドニエのリュブルがまた鋳造され、問題のグロは正しくも廃止されたのだ。また、貧しい庶民を一層苦しめようとか、八ドニエのパンは十ドニエに、十六ドニエのは二十ドニエに値上げになった。

また、良質の蝋燭は一リーヴルが十ブランした。卵一個、四ドニエ。板チーズが一リーヴル、八ブラン。

また、レミ聖人の祝日(十月一日)、触れがまわって、五ブランのパンはパリ貨ニスーに、十ドニエのは十二ドニエに値上げとのこと。卵一個は六ドニエ。塩漬けにしん一尾十二ドニエ、薫製は五ブラン。

また、この季節、ぶどう酒はとても高くて、パリ周辺の地酒がキュー樽で二十一ないし二十二フランかそれ以上。今年、八月に収穫されたぶどうを仕込んだ酒は、大方、ねっとりして、すっぱかった。

−中略−

1421/02/01
また、このころ、聖母御潔めの祝日(二月一日)、貧乏人をはげまそうとか、地獄の敵の子どもたち、すなわちカトリエーム、マルトートがまたぞろかけられた。役人どもが、また、生活の苦労を知らない小人閑居の徒で、目くじらた立ててやりたがるものだから、商品がまったくパリに来なくなってしまった。そんなことから、諸物すごい値上がりで、復活祭のころには、牛一頭、上物だが、二百フラン、仔牛は十二フラン、豚の脇腹の脂肉が八から十フラン、豚一匹は十六から二十フラン、小さい白チーズが六スー、食べ物はみな同じだった。

−中略−

1421/03
そうしてこれはけっして嘘ではない、この冬は、かつて四十年間というもの、人が体験したことがなかったほどの長い冬だった。なにしろ復活祭の祭期に雪が降り、凍てついて、寒さのせいでこうなのだと人の考えつくかぎりの苦しい事態が見られたのだ。ここに非常な貧しさが害を為しているのを見た善良なパリの町の善良な住民のうちのあるものたちは、大いに働いて、家屋を三軒から四軒、買い、飢えのためパリ市内で行き倒れしかねない貧しいこどもたちのためのお救い所としたのである。こどもたちはそこで肉汁と暖と上等な寝床を与えられる。三ヶ月たたぬうちに、それぞれのお救い所には、四十床を越える数の寝床が、パリの善良なる人々から寄付されて、備え付けられるにいたった。お救い所の一つは兜屋通り、もうひとつは王宮の前、もうひとつはモーベール広場にあった。

−中略−

1421/06/29
また、このころ、サントノレ門の下の水中に、少し色は薄いが血のような水の湧き出ているのが見られた。ピエール上人とポール上人の祝日(六月二十九日)の日曜に発見され、水曜日まで見られた。見にいった人たちは、なにしろびっくりたまげて、なにしろ大勢の人が押しかけたものだから、やむなく門を閉め、二日のあいだは橋を揚げることにしたほどだった。このことがなにを意味するか、だれにもわからなかった。

−中略−

1421/08
また、このころ、果物はすべて高く、りんごは一ブランでは四つしか買えず、くるみ百個が四スー、なしは二個で六ブラン・・・

−中略−

1421/12
また、このころ、イギリス王はいぜんモー前面にあり、飢えと寒さで多数将士を失った。なにしろ降誕祭前の二週間ないし三週間というもの、日夜雨の止むことなく、それに上流の地方では大雪だったので、セーヌは氾濫し、水位が上がって、グレーヴ広場では、サンテスプリの御堂のこちら側十メートルほどまで水が来て、王宮の広庭では、サントシャペルの下からノートルダムの御堂を越えて水が上がり、モーベール広場ではクロワ・エモンまで水が来たのだ。十日間というもの水は引かず、降誕祭の前の日曜日にやっと引きはじめたが、増水しはじめてからというもの、大変な凍てつきだったので、パリは氷漬けになってしまった。どこの水車でも粉が挽けず、風車は別だったが、それというのも大変な水のせいだった。

−中略−

1423/01
かれらがムランを占領した一月のはじめの日からかぞえて十日のちの十二日、こんな寒さはかつて経験したことがなかったほどの冷えこみだった。なにしろ大変な凍てつきで、三日もしないうちに酒倉や納屋の酸味ぶどう酒やぶどう汁は凍りつき、酒倉の梁から垂氷が下がる始末。セーヌ川は、あの広い水面が全面氷結し、四日目には井戸という井戸がぜんぶ凍った。この凍てつきは、まるまる十八日間続いた。おまけに、この冷えこみがはじまった前日か前々日に、ここ三十年間知られなかったほどの大雪が降ったのだ。寒気と大雪のあまりのひどさに、寒すぎて働くこともままならず、ともかく体を暖めようと、みんなスールだの、クロック、ペロットといった遊戯をやっていた。じっさいこの寒さは大変なもので、じつに三月の聖母の祝日近くまで寒気は残り、裏庭や街路、井戸端などには氷塊がごろごろころがっていた。これは本当のことだが、雄鶏も雌鶏も、鶏冠がてっぺんまで凍っていた。

−中略−

1423/04
この年の四月にあたった復活祭(一四二三年四月四日)を過ぎて、アミアンで貴族によるグラン・コンセイユがひらかれた。その席上で婚約と同盟がなされた。それはアルマニャックに対する戦争を維持するためであって、ブルゴーニュ侯の妹が摂政に与えられた。この婚約のあと、みながパリに向った。それはベドフォード侯、サルスベリ伯、サフォーク伯、その他大勢のロードたちで、みなイングランドから来たのだ。かれらの衣装と宝石はいままでに見たことがないほど豪華なものだった。かれらこそ、王国を統治するのにふさわしいのだ。

この年、いちじくもローズマリーもみな凍って、Maraisのぶどう畑もやられた。くるみもだめで、これは霜のせいだった。地面をみれば一目瞭然だった。五月のなかばには、堆肥の山にも霜が降りた。

この年、一四二三年の六月の第二週にイングランド勢がウールセー前面に出かけた。そのウールセーはたいへんフランスに、特にパリ周辺に悪さをしていたのだ。

−中略−

(挿入位置不明)・・・また、果物も豊作で、質もよく、降臨祭を過ぎるころ、ルーモーりんご、あるいはカパンデュりんごが、二十五個、四ドニエないしそれ以下で買えた。(挿入位置不明)

−中略−

1424
(挿入位置不明) イノッサンに死の舞踏図がえがかれた、八月ごろからかきはじめられ、つづく四旬節に完成したのだ。 (挿入位置不明)

−中略−

1424
このころ、フランスの王妃はパリに住んでいたが、その暮らし、まことに貧しく、なにしろ毎日のぶどう酒が、王妃とその家人一同あて、八スチエしかなかったのだ。「王妃はどこにいる」と問われて、パリの人たちの大方は、答えるすべを知らぬふうだった。関心もなかったし、もともと民衆には関係ないことだったし、なにしろ昨今この地上をおおう災禍の、かの女こそが原因なのだ、そう人はいっていた。

−中略−ヴェルヌイユの戦い

1424/08
かくては恥ずかしくも自分だけは助かろうと逃げはじめた。摂政の手の者がこれをヴェルヌイユないしペルシュのあたりまで追尾した。そのあたりでアルマニャック大虐殺が展開され、なにしろ伝令使たちの証言では、九千が打ち殺されたというのだ。アランソン侯は捕虜となり、アルクール伯の息子オーマール伯が殺され、スコットランド人のゲイグラス伯が殺され、ブカン伯が殺され、トンノワール伯が殺され、ヴァンタドゥール伯が殺され、ネルボンヌ準伯が殺され、ネルボンヌ伯が死ぬとすぐ首は切りとられ、身体は処刑台に吊るされ、首は槍につきさされて高く掲げられた。また、アルマニャック方では、二千三百七十五人の陣羽織武者が死体で発見された。

−中略−

1424/11
同年十一月、ブルゴーニュ館で、トゥーロンジョン卿が結婚式をあげた。卿はラ・トリムーイ領主の兄弟で、そのラ・トリムーイ領主は自由通行証をもってパリにやってきたのだ。同時にイギリス人デスクワール卿も結婚式をあげ、十五日間続けて騎馬槍試合が催され、その後、ブルゴーニュ侯はその領国へ出かけた。

−中略−

1424
また、フランス王妃は、パリから一歩も外に出ず、あたかも外国女のふうもあり、終日、神の許しあれ、かの女のよき夫、気高きシャルル六世王が世を去ったサンポール館に閉じこもり、寡婦の務めを守って、かたく身を持している。

−中略−

1424
この頃、イギリス勢がエノー伯領に押し出した。洗礼者ヨハネの祝日がすぎるまで、かれらはその地にとどまったが、これは女伯の領土をとろうとしてのことだったという。フランス摂政の兄弟のひとりが故なく、我意に走って女伯をめとったのだ。かの女はサンポル伯の兄弟のエノー伯とフランスで結婚していたというのに。こうして悲惨な戦争がはじまった。

−中略−

1427/04/05
また、四月五日、土曜日、隠し主日の前日、摂政がパリにやってきた。十六ヶ月のあいだ、その妻の兄ブルゴーニュ侯と自分の弟のグロスター侯との和解を取り持とうとイングランドに滞在したのだったが、今度はそれに失敗したのだ。

−中略−

1427/05/26
この年は、四月から五月、もうあと三日か四日で五月も終わろうというころになっても、寒気ゆるまず、来る週も来る週も氷が張り、霜が降り、それに始終、雨だった。御昇天の祝日の前の月曜日、ノートルダムの一行とその随行の一団が、モンマルトルに出向いた。なにしろその日も、朝の九時ごろから正餐後の三時ごろまで、雨が降りやまなかったのだが、かれらは雨を嫌って、時間を空費したわけではなかった。なにしろモンマルトルからパリまで、道は泥々の状態で、われわれは、モンマルトルからサンラードルまでくるのに、たっぷり一時間かかったのだ。そこから行列はサンローラン経由の道をとり、サンローランを出発したのが、一時かそこら。雨足が一段と強まった。ちょうどその時刻に、摂政とその妻がサンマルタン門から町を出てやってきて、行列とすれちがったが、かれらは行列のことをまったく配慮しなかった。なにしろ行列の脇を早駆けに駆けぬけたものだから、行列の一行は、よける間もあらばこそ、馬のひづめのはねあげる泥を全身もろにかぶってしまったのであって、聖遺物匣や行列のことを気にかけて、ほんのしばらくのあいだでも、馬の足を止めてやろうとはだれもしなかったのだ。そんなぐあいで、それでも急ぎに急いで、行列はパリにもどったのだが、かれらがサンメリにたどりついたのは、かれこれ二時と三時のあいだのことだった。この日、摂政は、前述のように、ブルゴーニュ侯に会いに出かけたのであって、この日は一四二七年五月二十六日であった。

−中略−

1427/06/01
ランス大聖堂の宝物係、その名をジャックというのが、パリ司教の座に納まり、六月一日、就任式を執り行った。

−中略−

1427/06/08
この年、セーヌ川の増水ははなはだしく、聖霊降臨の祝日、これは日曜日、六月の八日に当ったが、出水はグレーヴ広場の十字架にまで達し、祭期の終るまで引かず、木曜には一ピエと半の深さになった。ノートルダム島は冠水し、その対岸のこちら側の楡の木河岸は、サンポール教会にかけて水の下になった。それほど驚くべきことでもなかった。なにしろ四月のなかばごろから聖霊降臨節の月曜日、一四二七年六月の九日まで雨は降り止まず、それに大変寒く、三月初旬のようだったのだ・・・

−中略−

また、続く木曜日、増水ははなはだしく、ノートルダム島は水の下になった。島の対岸の楡の木河岸は一面の水の下で、人びとは小船や艀で往来し、床の低いあたりの家々は、地下倉から床まで水をかぶった。人二人分の丈の高さまで水に浸かった地下倉もあって、なんとも気の毒なことだった。ぶどう酒が水の下になってしまったのだ。また別の家では、三段か四段下になっている厩が、あたり一面の水の下になり、そこにしっかりつながれていた馬どもが、助けだすひまもあらばこそ、水に溺れてしまい、つながれていなかったのも、わずか二時間のあいだに、人の丈ほどの高さにまで達した水の勢いに押されて溺れてしまったのである。なにしろそんな勢いで、続く金曜、土曜と水は増えつづけ、ついに市庁舎の前にまで達し、市庁舎と向かいあう、ヴァヌリー通りの側の厩預かりの屋敷では一ピエの深さにまで達し、十字架の真ん前の市庁舎に面と向っているグレーヴの十字架の第六段目にまで水は上がり、エロワ聖人の祝日のころまでモルテルリー通りは歩けなかった。つづめていえば、前年のそれにくらべて、出水は高さにして二ピエほど大きかったのであって、水の出たいたるところ、麦畑、からす麦畑、沼沢を荒らし、涸らし、なんにも生えなくしてしまった。なにしろ水は五週間か六週間引かなかったのだ。

−中略−

1427/07/15
また、このころ、七月十五日前後、摂政はモンタルジ前面に布陣した。続く八月の六日、触れがまわって、一個につきパリ貨二ドニエと一ドニエのパンのほかは作らぬこと、と。そこでパン屋はそうしたのだが、だいたいが一個二ドニエもしないパンなんて、ここ八、九年来、パン屋は作らなかったのだ。

−中略−

1427/08
・・・みんながみんな両耳に穴をあけ、それぞれに銀の輪をひとつ、ふたつとぶら下げていて・・・男たちは、なにしろ真っ黒で、髪は縮れていて、女たちは、こんなのはいままでに見たことがないというまでに醜く、色が黒い。顔は傷だらけで、黒い髪の毛は馬の尻尾のよう。衣服といえば、みんなごわごわの垢じみた粗布で、ずりおちないように紐か、紐どころか縄かなんぞで、肩の上で結び止めている。かれらはこれまでフランスに来たなかで一番まずしい連中だった。

だが、かれらのなかに妖術使いがいて、手相を見、経歴を当てたり、未来を予言したり、夫婦のあいだに争いを起こさせたりした。というのも、その女たちは、亭主と見れば、「おかみさん、男を作ってるよ」、女房と見れば、「あんたの亭主、悪いことしてるよ」などと言い立てたからだ。もっと悪いことには、そんなふうに人に話しかけながら、魔法でも使ってか、地獄の敵の手を借りてか、これぞ習い覚えた世渡りの術か、人の財布を空にして、中身を自分のに移してしまうという。

事実、わたしは三度も四度も、そこに出掛けて、かれらと話しをしたのである。それなのに、わたしは、一文もとられた覚えはなく、かの女たちが手相を見るのを見たこともないのだ。それなのにあちこちでそんな噂が流れていて・・・

−中略−

1427/11
この年、レミ聖人の祝日の前後、ジャン聖人の祝日のころのような大変な暑さだった。この年の夏は一ヶ月もたなかった。だからぶどうの収穫も少なく、せいぜい一アルパン当り、カク樽一本ぐらいにしか酒にならなかった。ミュイだ、キューだというほどもとれれば、それこそ大喜びだった。それもこれも、みんな長びいた冬のせいで、こんなに長く冬が続いたのは、かつて久しくなかったことだったのだ。そうして、これは嘘ではない、万聖節をすぎたころ、はたんきょうの木に、八月のなかばのころのように、ちょうど皮をむきかげんの緑の実がついて、それがとてもいい味だった。

−中略−

1427
また、このころ、聖レミギウス祭日の二週間ほど以前、腐った瘴気が地をおおい、そのために悪性の病気が発生した。ラ・ダンドと呼ばれた。このはやり病が続くあいだに、男も女も、程度はともかく、これにかからないものはなかった。どんなぐあいだったかというと、まず腰と肩がやられる。いったんこれにかかると、だれもかれも尿石病みではないかと疑いだす。なにしろおそろしい痛みだ。それからガタガタふるえがくる。一週間、十日、二週間というもの、飲むも喰うも眠るもできない、人によって軽い重いはあるが。そのあと、だれもがとてもたちの悪い咳をしだす。なにしろ説教をきいているとき、せきこむ人のたてる物音で、説教師がなにをいっているのか、ききとれないほどなのだ。

−中略−

1428/05/22
ブルゴーニュ侯が、五月二十二日、土曜日、聖霊降臨祭の前日、パリにやってきた。弓射手の恰好をして、小さな馬に乗ってやってきて、もしも摂政とその妻がつき従っていなかったら、だれだかわからなかったろう。

−中略−

1428/06
今年はずっと寒さが続いていて、ジャン聖人の祝日のころになっても、サンドニの大市に桜桃の上物は姿をみせず、新豆はほんのお印ほど、麦もだめ、ぶどうの木は花をつけていなかった。

−中略−

1428
この祝宴には、ひとりまたひとりとかぞえて八千人以上もの人が席についていた。なにしろ、配られたパンは一個三ドニエはするもので、三ドニエのパンといえば当時とても大きなパンだった、なにしろ極上の小麦粉一スチエが十二スー・パリジスで買えたのであって、そのパンが七百ダースあったのだから。

また、四十ミュイのぶどう酒がのまれた。また、肉料理八百皿が出たが、かぞえきれぬほど出た牛と羊は除いてである。

−中略−

1428/08
一四二八年八月、サルスベリ伯は軍勢を率いて、ジャン・ル・ロワ市を取り、ボースのジャンヴィルを取り、ロシュフォールを取り、さらに進んでシャトーダンとオルレアンを目指し、その前面で飲みに出かけた。そうして、村々や町々に重い税金がかけられた。なにしろかれらは、三頭ないし四頭立ての荷馬車二百台を用意し、糧食、武器のたぐいに、じつに二百樽以上ものぶどう酒をパリ市内で手に入れて、運ばなければならなかったのだ。そのせいで、ぶどう酒が高くなり、一家の主人といえども飲めなくなった。なにしろ並のが一パント、九月には、十二ドニエしたのだ。

このころ、ぶどう酒のあまりの高さにたまりかねて、ビールを醸造するものが多数出た。万聖節のころまでには、パリに三十軒のビール屋ができた。サンドニや他所からも、荷車でビールを運びこむものがいて、ぶどう酒の触れ売りと同じように、パリ中、売り歩いていたが、パリのは二ドゥブルしかしないのに、サンドニのは三ドゥブルで、これはパリ貨で四ドニエに相当したのだ。

えんどうはブッセル当り十ドニエ、そらまめも同額、卵は二十五個で十二ドニエ、いずれもパリ貨。

1428/09/14
四二八年九月、聖十字架顕称の祝日(十四日)のころになっても、ぶどうはまだ未熟で、「ごらん、こんなにまっくろな房だよ」といえるようなものは見られなかった。なにしろ、いつまでも寒さの残った年だった。

−中略−

1428/10/23
また、このころ、サルスベリ伯はロワール河畔にあり、ほしいままに城を、町を取った。なにしろかれは戦争のエキスパートだったのだ。こうしてオルレアン前面にいたり、これを包囲した。だが、だれにとっても頼れる友ではけっしてない運命女神が、万人に委嘱されたその職権を行使するとき、なにしろ陣中にいるほど安全なことはないと信じ切っていた、そのかれに、一丸の石弾が死の一撃を供したのであった。これはイギリス勢にとって大変な打撃であって、とりわけフランス摂政にとってそうであって、なにしろかれはのうのうとフランスの町々で暮らしていて、かれの赴くところ、どこにでもついていくその妻と一緒にのうのうと暮らしていたのであって、それがいまサルスベリが死んだ。こうなると、かれが戦争を続けなければならない。そこで、現地におもむくべく、水曜日、一四二九年冬のマルタン聖人の祝日の前日(十一月十日)パリを発った。サルスベリ伯はその一週間前に死んだ。

1429
また、このころ、パリにおけるセルヴォワーズに対するカトリエーム(四分の一課税)は税収六千六百フランにのぼり、ぶどう酒に対するそれは、その三分の一にも満たなかった。それというのも、新酒は問題にもならないくらい腰が弱く、まあまあのものでも、いや大方が、ぶどう酒というよりは、これはすっぱいぶどう汁であった。

−中略−

1429/02/10にしん
七千に対して、当方一千五百を越えない数、アルマニャック十三に対して当方二の割合だ。

−中略−

1429/04/16
パリに説教師リシャール某がいたり、四月第十六日土曜にサント・ジュヌヴィエーヴにおいてはじめ、続く日曜とそれに続く週間、すなわち月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜と、イノサンスにおいて朝の五時頃よりその説教をはじめ、十時あるいは十一時までつづけ、つねに五千ないし六千人が聴いていた。

リシャール某は、ラ・シャロンヌリー通りに面する納骨堂に背を向けて、死の舞踏のわきえに、一トワーズと半の高さの足台の上で説教していた。

−中略−

・・・三時間か四時間のあいだに、百個所以上で火をたいて、将棋板とかサイコロとかカルタとか、玉突台とか球とか、そういったものを・・・女は、なによりもまず、髪の飾りもの、どういうのかというと、動物の毛のかたまりとか、松露型のかもじとか、皮のきれっぱしや鯨のひげ、こういったのを帽子のなかにいれて、帽子をぴんとつっぱらせたり、前でめくりあげたりさせようというのだが、そういったもの、娘は角とか尻尾とか(尖り帽子とその飾りリボン)、そういった虚飾の品々を焼きすてた。

−中略−

(挿入位置不明)・・・よき教化を及ぼした・・・マダゴワール草(ちょうせんあさがお)に関する迷信かつぎ・・・(挿入位置不明)

−中略−

1429/05/10
このころ、ひとの言によれば、ロワールの河縁にひとりのむすめあり、予言者を称して、これこれのことは真実となるであろうなどといい、フランス摂政とそれを助けるものたちに敵対した。ひとの言によれば、オルレアンの前に陣を構えていた軍勢をものともせず、多数のアルマニャック勢とともに、多数の食糧をたずさえて市中にはいった。また、陣のものたちは、まったく身動きできず、アルマニャック勢が、かれらのそば近く、矢のとどくあたり、ないしはその倍ほどのところを通って市中にはいるのをただ見ていたとのことであり、また、市中の人々は、食糧がたいへん欠乏していたので、じつに三ブランもするパンを夕食に食べていたとのことであり、そのほか、その娘についていろいろと、ブルゴーニュ勢やフランス摂政に対してよりもアルマニャック勢に対してより好意を持つ連中は語ったのである。かれらは、かの女がまだほんの幼かったころ、子羊の群れの番をしていたと、また、森や野原の鳥は、かの女が呼ぶとやってきて、飼いならされたもののごとく、かの女の膝の上でパンを食べたと断言した。(以下ラテン語)真実のうちには偽りのものもある。

−中略−

1429/05
人のいうところによれば、かの女がイングランド勢の隊長に向っていうには、その軍勢とともに陣営より出立せよ。さもなくば汝ら全てに禍と恥がいたるであろう、と。かの隊長はむすめを口汚く罵り、淫売、売女と呼んだ。するとむすめはいった、かれら軍勢はかれらの意に反し、時を移さず出立することになろう。だがかれは(その出立を)決して見ないであろう、と。そうしてそのようになった。なぜならば殺戮が行われた前の日にかれは溺れ死んでしまったのであるから。

その後、引揚げられ、四肢を分断され、煮られ、臭気止めを施され、サンメリーに運ばれ、酒倉の前の教会に八日から十日の間置かれた。そうして夜となく昼となく、屍体の前には四本のローソクもしくは松明が焚かれた。そのことの後、埋葬のため故国へ運ばれた。

−中略−

1429/08/10
ローラン聖人の祝日(八月十日)の前日、サンマルタン門が閉鎖された。そうして触れが出て、敢えてサンローランへ赴くべからず、お参りでも、買物でもだめ。禁を破れば絞刑、と。そこでだれも出かけなかった。サンローランの祭りはサンマルタンの境内で催された。大勢つめかけたが、なんにも売られていなかった。チーズも卵も、季節の果実も、全然。

−中略−

1429/09/07
九月の聖母御誕生の日(九月八日)の前日、アルマニャック党はパリの城壁に襲いかかろうとやってきて、パリを占領しようと考えたのだが、すこしも攻略することはできず、苦悩と恥と難儀を味うだけの破目におちいった。というのは、多数が死にいたる深手を負ったのであって、かれらは襲撃の前までは健康だったのだが、大いなる不幸に会い、人がラ・ピュセルと呼んでいる、それがなにものだかは神のみぞ知るだが、女の形をした一被造物を伴って、聖母御誕生の祝日、全員一致して謀をめぐらし、その日パリを襲おうと、一万二千余が集まり、大ミサのころ、十一時と十二時のあいだに、かれらのむすめを伴って、パリの掘割を埋めようと、三本の箍に縛り括った枝木の大束を積んだ荷車、手押車、馬とともに押し寄せ、サントノレ門とサンドニ門のあいだに襲いかかりはじめたが、じつにはげしい攻め寄せかたであった。

攻めよせながら、かれらはパリの人びとに対し、様々な悪口雑言を吐いたが、ここにかれらのむすめは、掘割の土手の上にあってその旗を守り、パリの人たちに呼びかけて、「イエスにかけて、ただちにわれらに降伏せよ、夜にいたるまでに降伏せざるときは、われらはなんじらの意向にかまわず、やむなく力をもって城内に入り、なんじらは、容赦なく死へと追われることとなろう。」「なにお!」とあるものはいった、「この助平女め、淫売め!」そしてその男の放つ弩の矢は、まっすぐに女に向い、女の脚をつらぬきとおしたので、女は逃れ去る。もう一筋の矢は、女の旗を持つものの足をつらぬく。そのものは、傷ついたと知るや、その瞼甲をあげて、足にささった旋転矢をひきぬこうとする。そのとき、さらに一筋の矢がかれにいたり、両眼のあいだをつらぬき、顔を血に染める。かれを傷つけ、死に追いやる。

−中略−

まちがいなく、この襲撃によってパリの町を力ずくで占領することになろう。そして、この夜、かの女はこの町に泊まることになろうし、かれらもまた同様である。そして、かれらは全員、この町の財宝で富みゆたかになろう、そうかれらに約束したむすめを、大いに呪った。

−中略−

1429/09
一四二九年九月の最後の金曜日、ブルゴーニュ侯がパリにやってきた。なんともみごとな供揃えで、なにしろ大勢だったので、民家に泊らせ、空家に宿営させる騒ぎになった。なにしろ空家はいっぱいあったのだ。馬も豚や牛といっしょに寝た。マルタン聖人門から入ってきたのだが、妹御も連れていた。フランス摂政ベドフォード侯の妻だ。ベドフォード侯もいっしょだった。先行する伝令使十人隊、各々自分の主人の紋章入りの軍衣を羽織っている。同じ人数のラッパ吹き。華麗というか虚栄というか、そんなぐあいにマルタン聖人門から入って、モービュエ通りを抜け、マダーム・サント・アヴォワにおもむいて、寄進して、そこからポール聖人へ向った。

−中略−

1430/05/23
五月二十三日、コンピエーニュの前にて、アルマニャック軍のむすめジャンヌ殿は、ジャン・ド・リュクサンブールとその手勢、ならびにパリにきていた千あまりのイングランド兵によって捕えられ、むすめに従うものたち四百余は、あるいは殺傷され、あるいは水に溺れた。

−中略−

1430/10/01
レミ聖人の祝日のころ、(十月一日)、薪はとても高く、小ぶりのボンディもの、あるいはブーローニュ・ラ・プチットの薪百束が、パリの正貨で二十四スーした。以前は六か七スーで買えたのだ。以前は八か九ブランで買えたモル売りのは、パリ貨十スーする。

−中略−

1431
また、摂政到着の直後、パリでは麦の値段が上がって、それまではパリ貨四十スー、せいぜい四十ニスーぐらいでしかなかったのが、月が変わると七十ニスーないし五フランにもなった。腐ったようなのが、だ。それでパンが小さくなり、一ブランもする真っ黒の、腐ったようなパンが十二オンス以上にはぜったいに掛からず、なんと一家の働き手は一日にそれを三個から四個も食べたのだ。なにしろまずしい人にはお銚子付きのお膳などままならず、わずかに口に入るのは、くるみ少しに、パンと水という体たらく。そらまめもえんどうも食べられなかった。買おうにも高かったし、料理する(焼く)にはもっと金がかかったのだ。そんなことで、パリは人がめっきり少なくなった。

−中略−

1431/05/30
この年の聖体秘蹟の日の前日、一四三一年五月三十日、この日、ルーアンで説教が行われた。コンピエーニュの前で捕らわれた、むすめとひとの呼ぶジャンヌ殿は処刑台の上にあり、だれしもがはっきりと男の衣装をつけたかの女の姿をみることができた。そして、キリスト教界、とくにフランス王国にかの女ゆえに生じたものと知られる大いなる災いのかずかずが、かの女に説き示された。

−中略−

そしてかの女は、漆喰仕立ての木組みの台の上の杭に縛りつけられた、そして火がつけられた、かの女はすぐ死んだ、衣服はすっかり焼けた、次いで火が遠ざけられた、群集はまっぱだかのかの女を、女にあるはずの、なければならないはずのかくれた部分をくまなく見た、民衆の疑いをとりはらうためのことだ。心ゆくまで気がすむまで、民衆が、すっかり死んで杭に縛りつけられているのを見るのを見はからって、処刑人は、このあわれな死骸の上に盛大に火をかけた、死骸は燃えつき、骨も肉も灰になった。あちらこちらに、かの女は殉教者であった、正しい主君のために死んだのだというものもあり、また、他の連中は、いやそうではない、かの女をかくも用いたものはまちがっていたのだ、ともいっている。だが、いかなる悪行あるいは善行をなしたとしても、ともかくかの女は、この日、焼かれてしまったのだ。

−中略−

1431/11
つづく日曜日、待降節の初日、アンリ、当年九歳の王が、サンドニ門から町に入った。門の外側、田野に向けて、町の紋章が飾りつけてあった。門の石積みを全部おおいかくすほどに大きな楯型のもので、半分が赤、上半分の青い地に百合紋を散りばめて、くわえて全面に黄金の\の字が、ひと三人分ほどの大きさで。門の内側には、真紅に装い、頭に帽子をのせた商人組合長とその助役たちが居ならび、王が門を入るや、黄金の百合紋を散らせた青の大天蓋の下に王を迎えいれ、助役四人がその大天蓋をかついだ。

−中略−

(挿入位置不明)そうして大学の人々は二人づつ進んだ。先生方一人一人の傍らに、少し下がって、町の人がついたのだ。(挿入位置不明)

−中略−

一行がサンポール館のところにさしかかったときのこと、故王シャルル六世の妻、王妃イザベルとそのとりまきの女たちが窓に凭っていた。かの女は、自分の娘の子、アンリ幼王を娘のかたわらにみとめて、かぶっていた頭巾をとって、いともつつましやかに頭を下げたが、すぐに目をそらし、涙を流した。ここで衛兵たちが天蓋を受けとった。なにしろこれはかれらの権利なのだ。かれらは、かれらが建立者である聖女カトリーヌ小修道院に、この天蓋を寄進した。

−中略−

塗油の儀式のあと、王とそのとりまきは王宮にやってきて、大広間の大理石の大卓子で食事をとった。ほかの人たちは広間のあちこちに散らばって相伴にあずかったが、なにしろ大混乱だった。それというのも、町の連中が朝のうちからそこに入りこんでいて、あるものは見物しようと、あるものはたらふく飲んだり食ったりしてやろうと、またあるものは、肉だとかそういったものを盗んだり、ちょろまかしてやろうというわけだったのだ。なにしろ、この日、雑踏のなかで、帽子が四十あまりもはぎとられ、帯の留金が多数もぎとられたのだ。ともかくたいへんな混雑だったので、大学や裁判所の面々、それに商人組合長さえも、ともかくたいへんな数の人々にじゃまされて、階段をあがることができなかった。二度、三度と、なんとか階段をあがろうとしたのだが、民衆がかれらを乱暴に押しもどす。なんどもなんども押しつ押されつ、なんと八十、百人が、ひとかたまりになって、もみあいへしあい。そこにぬすっとが大活躍。町の人たちがどっと入りこみ、お歴々がやっとのことで広間に入ってみると、もう満員。どこに坐っていいのやら見当つきかねるありさま。どうにかこうにか定められた席にたどりついてみれば、靴直し、辛子売り、屋台酒の売り子、石工の手伝いといった連中といっしょの卓子という始末。なにしろ、そいつらをどけようとしても、ひとりふたりをなんとかどかしても別の方から六人、八人とわりこんでくるのだ。

−中略−

ともかくサーヴィスが悪かった。みんなが不平を鳴らした。なにしろ肉のほとんどは、とくに町の人たちあてのものは、なんと木曜日に料理されたというしろもので、これはフランス人にとっては奇怪至極のことではあった。なにしろイギリス人が指図してやったことなのだ。この行事にどんな名誉が賭けられているのか、そんなことはかれらの意に介するところではないのだ。ともかく、だれひとりとして満足しなかったのだ。施療院の病人たちでさえも、こんな粗末な、味気ない残飯なんぞ、いままでみたこともないといったくらいなのだ。

−中略−

1432/01/13
一月の十三日、王が町を立ち去るのを待っていたかのように寒気が襲って、続く十七日間というもの猛威を振い、増水してモルテルリー通りまで川幅が拡がっていたセーヌ川が、コルベイユまで一面凍結した。じつに驚嘆すべき光景であって、寒気の襲ったのが月曜日。火曜日夜までずっと雨で、夜が明ける少し前に雨は止み、気温も上がった。その火曜日の夜明け、雨が止むやいなや、この大変な凍てつきがはじまって、それで前述のように十七日間続いたのだ。しかし、川を凍らせたこの寒気も、ポール聖人の祝日(二月八日)のころ、しだいに緩みはじめ、氷はじわじわと融けていって、六日たたぬうちに、一面の氷も川面を埋める無数の氷塊に変わったが、それが橋や水車を傷つけるということはなかった。舟乗りの話では、氷の厚さは二ピエはあったそうで、たしかにそのくらいはあったろう。なにしろ氷の上を歩けたのだ。水車前方に打ちこんで割って融かそうと、氷の上で杭作りをし、杭を打ちこむための櫓を氷の上に組んだのだ。それなのに氷は割れもしなかった。じっさい、われらが主の御加護あって、氷はゆっくりと融けて、橋や水車を傷つけるということはなかったのだが、しかし損害は大きかったのであって、というのは多量のぶどう酒や麦、豚の脂身、卵、チーズなどがパリに運ばれるべくマントに到着していて、その全部が全部とはいわないまでも、ほとんどが、商人たちにとって無になってしまったのだ。長く降りつづいた雨があらかたものを腐らせてしまったし、なにしろ他の費用もさることながら保管料が高くかかって、商人たちを破産させてしまったのだ。

このころ、垂木の古材のけちな薪束が一束五ドニエ、六ドニエした。ほかになかったのだ。そこで摂政はブリュイエールの森をパリの住民に解放した。これがいくらか救いになった。

−中略−

1432/04
寒風の吹きもどしが厳しくて、およそはたんきゅうとかすももとか、生りものは実が落ちてしまって、くるみの木も実ひとつついていない状態だった。なにしろ朝の冷えこみは大変なものだった。

−中略−

1432
悪疫がパリで相変わらず流行り、フランス摂政ベドフォード侯の妻でブルゴーニュ侯の妹アンヌにも襲いかかった。アンヌは、パリ随一のいい女、きれいで気立てよく、民衆にこよなく愛された。が、わずか二十八歳にして死んだのだ。

−中略−

1433/01/22
このころ厳しい凍てつきで、増水はなはだしく、なにしろグレーヴのモルテルリーを越していたセーヌ川は、そこに二日と二晩、厳しく冷えこんだので、固く凍結してしまい、ヴァンサン聖人の祝日(一月二十二日)をすぎるまで緩まなかった。このため諸物値上がりで、とりわけ粉に挽く穀物が高騰し、小麦が八フランしたのだ。いつもなら豚にくれてやるような二、三年物の小粒のそらまめがスチエ当り五フランもしたのだ。大麦も五フランから六フランして、からすのえんどう、麦なでしこといったものまで高く売られていた。いつもなら犬にくれてやるようなパンしか、パリでは食べられなかった。なにしろパリ貨四ドニエもするのにとても小さく、男の掌に隠れるほどのパンだった。

−中略−

1433/08
悪疫ラ・ボスによる死亡者の多さたるや、一三四八年以来のことであった。

−中略−

1434/10/07
十月七日木曜日、ここ五十年間かつてなかったほどの恐ろしい風が吹いた。夕食後二時間ほどしてから吹きはじめて、夜十時と十一時のあいだまでやまなかった。このわずかの間に、パリでは煙突や家屋が数知れず倒れ、郊外では、無数のくるみの木やりんごの木を倒した。これはたしかなことだが、わたしの家のそばの古い建物が崩壊し、そこには大きな切石がいっぱいおいてあった、そのひとつひとつが水やぶどう酒の大樽ほどの重さの、長さは十四ピエを越すのを三つも、風はよその家の庭まで吹き飛ばした。また、これは嘘ではない、その建物の大梁を風は宙にもちあげて、その大梁は、両端を庭の塀の上にのっけて鎮座したのであって、塀をいささかも傷つけることなく、あたかも男二十人が、できるだけそうっともちあげて置いたかのようであって、長さは優に四トワーズあり、じつに風に運ばれたのであって、風にもちあげられたところから、五ないし六トワーズは離れていた。誓っていうが、わたしはこの眼でそれを見たのであって、こんなことはこの世でかつてなかったことだ。若しもこの眼で見なかったなら、信じはしなかったろう。

−中略−

1435
この年は、アンドレ聖人の祝日(十一月三十日)まで大変な暑さだったが、その日から凍てつきがはじまって、なにしろ大変なことだった。一年の四半分ものあいだ、ただし九日足りないが、寒気のゆるむことがなかった。そうして、なんと四十日間、昼も夜も雪が降り止まなかった。雪は荷車に積んで、グレーヴ広場に捨ててよいということになった。街路から雪をどかすようにと王令が出たのだ。しかし、いくらどかしても翌日にはまたもと通りという始末で、パリ中いたるところ、干草の山かなんぞのように、街路に積み上げておくしか手がなかった。なにしろ凍てついて、雪が激しく、雨にもならず、寒気はゆるまなかった。じっさい、三月の聖母御受胎告知の大祝日、月末の七日前になっても、氷はすっかり融けるというふうではなかったのである。

−中略−

1435/04/17
三月の末、寒気がもどって、復活祭をすぎるまで、この年は四月十七日に当ったが、凍てつかぬ日とてなかった。谷間や沼地のぶどう畑はすっかり凍りつき、庭のぶどう棚のボルドーものやいちじくの木がみんな枯れてしまい、大小の月桂樹、フランス中で一番みごとと評判のサンヴィクトールの美しい松も、それに桜桃のほとんどが枯れ死してしまったのだ。

−中略−

1435/05/19
この年、日蔭の裏庭の堆肥の下に大きな氷塊が残っていて、私はそれをイヴ聖人の祝日に見た。またこの年、木のむろのなかに、かぞえてみたら百四十羽の鳥が寒さやなにかで死んでいるのが発見された。

−中略−

1435/09/24
一四三五年九月二十四日、フランス王妃イザベルがサンポール館でみまかった。享年六十五歳。ノートルダムに運ばれる遺骸につき従う身分ある女性は「ダーム・ド・バヴィエール」しかなかった。

−中略−

1436
最初にリラダンの領主が、上から降ろされた梯子を使って市中に入り、フランスの旗を門上に掲げ、町を取った!と叫んだ。パリ中で、人々はこの報に接するや、ただちにあるいはまっすぐの白十字、あるいはアンドレ聖人の十字を身につけた。フランス王の尚書、テルアンヌ司教は、事態が急変したと見るや、代官とユイレビの領主とイングランド人全員に命令を下して、全員最上の装備を整えた。他方、パリ側は、ミッシェル・ド・ラリエという善良な市民ほか、この入市を斡旋した多くの市民にはげまされ、民衆を武装させて、まっすぐにサンドニ門へ向かった。パリからも、村々からも集まって、その数、じきに三千から四千になったが、みんなイングランド人や政府要人たちを心から憎んでいて、かれらを滅ぼすことを切に望んでいたのだ。そのかれらがくだんの門の守りにつき、政府要人たちはイングランド勢を集め、これを三軍にわけた。ひとつはユイレビ卿の指揮下、ひとつは王の尚書と代官の、他のひとつはこの世でもっとも悪逆なキリスト教徒のひとり、ジャン・ラルシュ、不信心者の下賎な奴、代官の副官のラルシュの指揮下に。かれらはアル区の動きをたいそう気にかけていて、代官がその部下を率いて、そこへ差し向けられた。その途中、代官は、かれの仲間の、たいそう善良な商人ル・ヴァヴァスールに出会った。ル・ヴァヴァスールはかれにいった、お仲間よ、観念しなされ。いっとくが、今度こそは和議を結ぶ潮時だ。このままだと、おたがい、破滅だ。なんだと、と代官はいった。裏切者!ねがえったな。あとはものもいわず、剣で顔面に切りつけたので、ル・ヴァヴァンスールは倒れた。そうして、部下にかれを殺させた。王の尚書とその手勢はサンドニ大通りを進んだ。ジャン・ラルシュとその部下はサンマルタン通りをいった。率いる手勢に二百人の完全武装兵と弓兵を従えぬものは三人のうちいなかった。そうしてかれらは、かつて聞いたことがないほどのおそろしい声で、口々に叫んだ、ジョージ聖人、ジョージ聖人、裏切者のフランス人め、みな殺しだぞ!こうしてこの裏切者のラルシュは、みな殺しにしろと叫んだのだが、殺そうにも殺す相手をどの通りにも見付けられず、ようやくサンマルタン通りのサンメリーの前で、ジャン・ル・プレブストルという名前の人と、もうひとりジャン・クルーステという名前の人とを見付け、この二人はちゃんとした家の立派な人たちであったが、このふたりをかれらは殺害し、さらに十回も刃を加えたのであった。かれらはさらに先に進み、上述のように叫びながら、窓をめがけて、とくに通りの端々で、矢を放ったのだが、しかし、パリ中にはりめぐらされていた鎖が、かれらの力を殺いだのであった。

−中略−

1437/03
四旬節の第一週、鳴物入りで触れがまわって、パン屋は白パンを焼くべからず、しかして麦を所有する町人におのがパンを焼かしむるべし、と。

−中略−

1437/11
そのせいで穀物が値上がりして、なにしろ小麦が五フランと半、しかもライ麦混合の値段。大麦は六十スー、小粒のそらまめはブッセル当りパリ貨五スー、えんどうは時価、油はパント当りパリ貨五スー、塩バター一リーヴルが六ブラン。みんなパリ貨でだ。

−中略−

また、果実が方々でだめになってしまった。花梨と森のりんごはそうでもなかったが、くるみやはたんきょうは一粒も生らなかった。

−中略−

1438
諸物値上がりで、まずしい人は。かぶらとかキャベツの芯とかをトロトロ煮て、パンもなしに食べるしかなかった。

−中略−

1438/04
四月のことだが、大風が吹いて、聖母の島の前の楡の並木の大きいのが何本か倒れた。

−中略−

1438/04
このころパリではパンが不足した。麦が七フランもし、そらまめやえんどうがスチエ当り六フランもしたからである。そうして、これはたしかだが、二ブランのパンが十一オンスの目方しかなかった。

−中略−

1438/06
このころ雨量はなはだ多く、そのせいでジャン聖人の祝日の八日前ごろになって、やっと野菜が市場に出まわった。だが穀物はいぜん高く、麦の上等がスチエ当りパリ貨で八フラン、ふつうなら豚にくれてやるような小粒の真っ黒いそらまめが、ブッセル当り十スーした。

−中略−

1438/11/01
なにしろ種蒔きの終ったマルタン聖人の祝日のころ(十一月一日)、麦の上等は七フランと半、ないしそれ以上、大麦はスチエ当り六フラン、そらまめとえんどうは六フラン、ぶどう酒は腰の弱い赤が樽で四から五フラン、塩バター一リーヴルがパリ貨四スー、くるみ油が十六ブラン、麻油も同じ。クレマン聖人の祝日(十一月二十三日)のころには、豚が一頭もいなくなった。フランス国のことを少しも考えない王のせいだ。王は佞言に迷って、ベリーに腰を据えたままだ。

また、この年はくるみが豊富に出廻って、一スチエ四ブランで売っていた。パリの商人たちは、とっておけるものはなんでも、自分たちの倉庫にしまっておいたのだ。

−中略−

1438
疫病での死亡率が高く、施療院で死んだもの五千、(セーヌ右岸)市街区全体で四万五千以上であった。

−中略−

1439/07
そういうわけで、七月の第一週、上等の麦を一スチエ欲しいと思っても、なにしろ正貨九フランしたのだ。粉に挽かせるそらまめは六フランした。

−中略−

1439/09
パリ周辺に狼が出没し、その親玉級をクールトーという。

−中略−

また、この年、どんぐりがたくさん出まわり、麦市場の燕麦を売っているところの脇で、麦と同じくらい大きな袋詰めで売られていた。

−中略−

1440/07
今年、一四四〇年は全般に大豊作で、質もよく、ものが多く出まわった。なにしろ上等の麦が去年は五フランしたというのに、パリ貨十六スーで買えるのだ。昨年はパリ貨七から八スーしていたえんどうは四ブラン、最上等のそらまめが六ブラン。果物は全面大安売りで、大玉の桃百個がパリ貨二ドニエ、極大玉のアンゴワス梨やカウ・ペパン梨が二十五個で四ドニエ、ダマすももが百個で七ドニエ、極上のくるみが百個でトゥール貨四枚。

−中略−

1440
このころ軍隊がひとりの女を連れてきた。オルレアンでたいそうな敬意を払われた女で、パリ近くにこれが近づくや、これこそむすめだと、かたく信じこむ風潮がまたもや拡がった。そこで大学と裁判所が、どちらにしてもそうした方がよいだろうと考えて、女をパリに連れてこさせたのである。王宮の広庭の大理石の上に立たされて、民衆に晒され、その生きかた、氏素性のことが説教された。この女はむすめではない、ある騎士と結婚していて、こどもがふたりいる・・・

−中略−

1441
この年はよい年だった。なにしろ上等の小麦がスチエ当りパリ貨十六スー、くるみがスチエ当りパリ貨二十四スーで買えたのだ。くるみの触れ売り声が街を流れていた。木炭を売り歩くのと同じで、木炭はボワソー当り三ブラン、油は一パント五ブラン、五月のりんごの粒のいいのがボワソー当り二ブラン、ぶどう酒はパント当り二ドニエ、そらまめは十ドニエ、えんどうは四ブラン、かぶらはボワソー当り四ドニエ。

−中略−

1441/09/25
ふたりずつ、頑丈な太綱で縛られ、まるで猟犬を引き連れて狩りに出掛けるがふうであって、兵士たちはといえば、俊足の太馬にまたがっている。捕虜は帽子もかぶらず、頭はむきだしで、衣服はぼろ、大方は股引もはかず、靴もはかず、すなわちかれらは、下ばきにいたるまで剥ぎ取られてしまったのである。サンマルタン大通りの旅篭雄鶏と孔雀から五十三人が引き出された。身代金を払えないものは、グレーヴ広場のまぐさ河岸に連れていかれ、犬の扱いよりもむごく、手足を縛られ、みんなの見ている前で、水に溺れさせられたのだ。溺れ死にさせられたり、砦に連れていかれたりした捕虜は大変な数にのぼった。

−中略−

1442/03/25
この年の復活祭の初日の日曜日、これはお告げの祝日(三月二十五日)に当ったが、そのころ、玉ねぎはブルゴーニュ大籠でパリ貨六ドニエしかせず、またいちじくが大量にパリに入ったので、上物がリーヴル当りパリ貨四ドニエ、上等のぶどうが四ドニエ、みごとなそらまめがパリ貨十二ドニエ、上等のえんどうまめが四ブランしかしなかった。

−中略−

1443
くるみ百個がパリ貨二ドニエ。その他の果実もこれに準じて。

−中略−

1444/07/12
一四四四年七月十二日、サンマルタン門があけられた。一四二九年八月以降、あけられたことがなかったのだ。続く九月の聖母の日にむすめがパリ前面に姿を現わして以来、サンローランの祭りを初めてサンマルタンの大境内で催して以来。

−中略−

1446/05
また、この年、二十歳になるかならぬかの若い男がやってきた。パリ大学の僧侶こぞって証言するところ、自由七科に通暁していて、あらゆる楽器をこなし、歌を歌い歌を作ることにかけて余人の追従を許さず、絵を描き、飾り絵を制作することにかけて、パリはもとより、どの土地にもかれ以上の腕前のものはいなかった。また戦争のことにかけて、かれ以上に腕の立つものはなく、一本の剣を両手でめざましく操って、匹敵するものの存在を許さず、なにしろ敵を認めるや、二十歩ないし二十四歩離れたところから、ひとっとびに襲いかかって、過たずこれを倒したのだ。また、かれは人文学と医学のメートルであり、法学のドクトゥール、教会法学のドクトゥール、神学のドクトゥールであって、これは嘘ではない、かれはナヴァール学寮において、われわれ、パリ大学の完全無欠な僧侶五十人余り、その他三千人を越す僧侶と討論したのだが、かれは投げかけられた問いのすべてに、声たからかに、みごとに答えたのであって、じっさいこれは、その目で見たものでなければ信じられないほどの不思議であった。また、かれは、大変巧みなラテン語を話し、ギリシア語、ヘブライ語、カルデア語、アラビア語その他いろいろな言葉を話す。また、かれは正騎士であり、そうして、じっさい、百年間、飲みもせず食べもせず眠りもせずに生きられる人がいたとしよう、それでも、この若者が完全に暗んじて知っている知識を学んで身につけることはできはしないであろう。

たしかに、かれはわれわれを大変怖れさせた。なにしろかれは、およそ人間の自然が知ることのできないはずのことを知っていて、なにしろかれは聖教会の四人のドクトゥールたちをやりこめたのだ。すなわち、およそこの世に比肩するものを見出さないかれの知識をもってである。そうしてわれわれが聖書に持つところでは(聖書の教えるところでは)、反キリストがキリスト教徒の父と、キリスト教徒を装う、だれもがそう信じているユダヤ女の母との姦通から生まれるであろう、反キリストは戦火渦巻くとき、悪魔から生まれるであろう、若者はこぞって、あるいは男にあるいは女に、あるいは驕りの心から、あるいは贅沢の欲望から、衣服を変えるであろう、大領主たちに対する憎しみが増すであろう、かれらは細民に対して残忍このうえなくなるであろうから。また、かれの知識はすべて悪魔に出るものであるだろう、それなのにかれは、それがかれの本性から出たものと思いこむであろう、かれは二十八歳のときまでキリスト教徒であるだろう、そうして、その年齢になると、かれの大変な知識を披露すべく、この世の大領主たちのもとを訪れるであろう、そうして、そのものたちから大評判を獲ち取るべく、二十八歳の年にイェルサレムからやってくるであろう。そうして、神を信ぜぬユダヤ人たちは、かれの大変な知識を見聞するや、かれを信じ、これこそはかれらに約束された救主だといい、かれを神と崇めるであろう。そこでかれはその弟子たちを世界各地に送り、ゴドとマゴドがかれにつき従って、かれは三年と半、君臨し、三十二歳のとき、悪魔たちがかれを連れ去るであろう。そこで欺かれることとなるユダヤ人たちは、キリスト教徒の信仰に回宗するであろう。その後、エノクとエリが来るであろう。その後はすっかりキリスト教の世になり、そうしてひとつの羊の群れ、一人の羊飼となるであろうといった聖人の福音が実証されるであろう。そうして、かれを崇めようとしないというので、かれが苦しめさせるであろう人々の血が、神に対して、復讐をと叫ぶであろう。すると、聖ミッシエルがやってきて、かれとその手先どもを深い地獄の沼に突き落とすであろう。

以上述べたごとく、前述のドクトゥールたちは、くだんの男について語ったのである。その男はエスパーニュからフランスに来た。ところが、じっさい、ダニエルと黙示録によれば、反キリストはカルデアのバビロンに生まれるはずなのだ。

−中略−

1446
この年はくるみが不作で、百個が四ブランした。前年にはパリ貨二ドニエないしトゥール貨二ドニエで買えたというのに。

−中略−

この年、船で、また荷車で、二十五個がパリ貨六ドニエで、特大の粒のアンゴワス梨が運ばれてきた。高くても二ブランで、なにしろ大変いい状態だったので、三月のなかばまでくさらなかった。じっさい、パリのアル(市場)に山積みされていて、前にグレーヴ広場の十字架のところに炭が山積みされているのをみたことがあるが、そんなぐあいで、一山だけではなく、六山から七山、店番もおかず、りんごも同じくらいかそれ以上、これはラングドック、ノルマンディー、その他方々から運ばれたものだった。

−中略−

1447/05
また、このころ、パリではぶどう酒が異常に高く、貧乏人はセルヴォワーズ、ボシェ、ビエル、あるいはシードル、プレといった、およそそのたぐいの飲料しか飲めなかった。そこへ、五月のなかごろ、フランスのサンドニの町に多量のぶどう酒がやってきた。翌月開かれる予定の大市めあてのものだったが、ブルゴーニュもの、フランスもの、あわせてキュー樽一万一千、ミュイ樽七百ほどとかぞえられた。そうして、大市の後、パリにどんどん運ばれたので、それまで上物は十二ドゥブルもしていたのが、四ドゥブルか六ドニエで手に入るようになり、そうこうするうちに、極上ものがパント当り四ドニエしかしなくなった。

−中略−

1448/04
四月の最後の週、あるダモワゼルがパリにやってきた。噂ではフランス王のアミということで、王妃さまに対してはなんとも誠のないことで、みたところ伯妃侯妃とみまがうばかりに振舞って、王妃さまにくっついて、あちこち往来し、わが身の罪業を恥じることを知らず、王妃さまは深く心を痛めていたのだが、さしあたり耐え忍ぶしかなかったのだ。王はといえば、おのが罪障、おのが恥を、さらに増して顕示しようとか、そのものにボーテ城を与えた、イール・ド・フランス随一の造作整った華麗なる城である。みずから美わしのアニェスと称し、人にもそう呼ばせていたが、この女、その傲慢な心の欲するがような敬意をパリの人たちが払わなかったというので、去り際に、ここないなかものたちと呼ばわり、こんなふうに不名誉な扱いをうけると前もってわかっていたら、一歩も足を踏み入れはしなかったのに、残念だ、けれど大したことじゃない、といった。こうして美わしのアニェスは、五月の第二日、パリを立ち去ったのである。

−中略−

1448
ぶどう酒が安く出まわって、白も赤もパリ貨二ドニエで買えた。

−中略−

1448
この年、セーヌ川は極度の水枯れで、万聖節のころには、モーベール広場からまっすぐノートルダムへ、石ころ四つも踏めば、男も女も足をぬらさずにいけた。オーギュスタンの前からサンミッシェル橋までの間に四ヶ所から五ヶ所、裏門から王宮に入るのに、そういうふうに川を渡れるところがあった。

−中略−

1449/10/28
また、シモン聖人とユダ聖人の祝日、サンマルタン・デシャンでたいそう見事な行列があった。ここ百年見られなかったほどの盛事であって、なにしろノートルダムのお歴々が、大学の面々、パリの全教区の世話役たちを引き連れて、グレーヴのサンジャンへ御聖体を拝受に出かけたのである。裁判所の方々その他、じつに五千人がつき従ったのであって、通過する通りは、御聖体の祝日のときのように飾られた。そうして、サンマルタン大通りのモービュエの水場のあたりには、たいそう見事な舞台が組まれていて、平和と戦争の物語がいとも華麗に演じられていた。語るに長い話しで、最後まで見ている人はいなかった。

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"A Parisian Journal"
Translated by Janet Shirley
(C)OXFORD UNIVERSITY PRESS 1968
に準拠しています。

訳文は、堀越孝一著『日記の中のパリ』(サントリー博物館文庫)、
『遊ぶ文化』(小沢書店)、『中世の精神』(小沢書店)、
『軍旗はブラシュの花印』(小沢書店)、『形見分けの歌』(小沢書店)から引用しています。