| 一四〇五年 | ||
| 九月 | 諸門閉鎖 | |
| 九月十九日 | 厳戒態勢 | |
| 十月十日 | 騒乱 | |
| 一四〇八年 | ||
| リエージュの戦いの死傷者 | ||
| 十一月十六日 | シャルル六世のトゥール行 | |
| 一四〇九年 | ||
| 三月九日 | ブルゴーニュ公パリ復帰 | |
| 六月二十六日 | ピサ教皇の聖別 | |
| 八月 | サンラードル村の雷 | |
| 十月七日 | 王家王番頭ジャン・ド・モンタギュの逮捕 | |
| 一四一〇年 | ||
| 八月 | ベリー公らの襲撃 | |
| 一四一一年 | ||
| 六月 | 注記 | |
| ミネルヴァ色の頭巾 | ||
| ブラシュの花印 | ||
| 首斬り役人のショック死 | ||
| 一四一ニ年 | ||
| サン・ポール伯の王軍長就任 | ||
| 一四一三年 | ||
| 五月 | 白い頭巾 | |
| 七月 | 代官の笑い死 | |
| 八月 | 正道のウック | |
| 変装逃亡 | ||
| 一四一四年 | ||
| 防備体制 | ||
| 二月 | コンコン | |
| 三月 | タック・オリオン | |
| 一四一五年 | ||
| 二月十九日 | 代官解任 | |
| 三月七日 | 増水と薪の値上がり | |
| 一四一六年 | ||
| 五月八日 | 鎖の撤去 | |
| 五月十五日 | 食肉業者の商売魂 | |
| 一四一七年 | ||
| 二月二十日 | 通貨統制 | |
| 四月三日 | 王太子の死 | |
| 五月二十九日 | 通貨統制 | |
| 五月三十日 | ゴミ処理問題 | |
| 跳橋完成 | ||
| にしん売り | ||
| 九月 | ぶどう畑とブルゴーニュ公方 | |
| 十一月一日 | 諸物値上がり | |
| 一四一八年 | ||
| 四月 | 諸物値上がり | |
| 五月二十九日 | ブルゴーニュ公方のパリ突入 | |
| 民衆の呼応 | ||
| 六月九日 | 聖アンドレ信徒会結成 | |
| ルーアンの救援 | ||
| 六月十二日 | 民衆の牢獄襲撃 | |
| 六月二十四日 | 道路の鎖修復 | |
| 九月 | 疫病 | |
| 諸物値上がり | ||
| 一四一九年 | ||
| 諸物値上がり | ||
| 三月十五日 | パン統制 | |
| 三月 | パン不足 | |
| 一四二〇年 | ||
| シャルル六世のトロワ行 | ||
| 諸物値上がり | ||
| 三月 | 休戦協定の期限切れ | |
| 四月五日 | アルマニャック勢の跳梁跋扈 | |
| 肉不足 | ||
| 四月七日 | 豊作 | |
| 五月八日 | ヘンリー五世のパリ入城 | |
| 六月二日 | ヘンリー五世と王女カトリーヌの結婚 | |
| モントロー包囲 | ||
| ムーラン包囲 | ||
| 八月 | 諸物値上がり | |
| 小銭不足 | ||
| 十月一日 | パンの値上げ | |
| すっぱいぶどう酒 | ||
| 十一月十七日 | ムーラン降伏 | |
| 十二月一日 | 王のパリ帰還 | |
| 十二月二日 | 王妃の入城 | |
| 飢死 | ||
| 十二月十七日 | 代官、商人頭、パリ司教の交代 | |
| イングランド王の帰還 | ||
| 一四二一年 | ||
| 二月一日 | 消費税 | |
| 貧民救済 | ||
| 六月二十九日 | 血の池地獄 | |
| 十二月 | セーヌ氷浸け | |
| 一四二三年 | ||
| 一月 | 寒風摩擦 | |
| 四月 | ベドフォード公の結婚 | |
| 六月 | ウールセー攻囲 | |
| 一四二四年 | ||
| フランス王妃の貧しい生活 | ||
| 八月 | ヴェルヌイユの敗戦 | |
| 十一月 | トレメー家の結婚 | |
| フランス王妃の慎ましい生活 | ||
| グロスタ公とヤコバ | ||
| 一四二七年 | ||
| 四月五日 | ベドフォード公の調停失敗 | |
| 五月 | 雨のノートルダム一行 | |
| 六月一日 | パリ司教座の就任式 | |
| 六月八日 | 増水 | |
| 八月六日 | パン統制 | |
| ジプシー来訪 | ||
| 十月一日 | 冷夏 | |
| 疫病ラ・ダンド | ||
| 一四二八年 | ||
| ベドフォード公の宴会 | ||
| 八月 | サルスベリ伯の連勝街道 | |
| 麦酒製造 | ||
| 九月十四日 | ぶどうの不作 | |
| 十月二十三日 | サルスベリ伯の死 | |
| 麦酒税 | ||
| 一四二九年 | ||
| 麦酒税 | ||
| 二月十日 | にしんの戦い | |
| 四月十六日 | 説教師リシャール某 | |
| 虚栄の焼却 | ||
| 五月十日 | むすめジャンヌ登場 | |
| おまえはすでに死んでいる | ||
| 八月十日 | サンマルタン門閉鎖 | |
| 九月七日 | むすめジャンヌのパリ攻め | |
| 九月 | ブルゴーニュ公のパリ入城 | |
| 一四三〇年 | ||
| 五月二十三日 | むすめジャンヌ捕縛 | |
| 十月一日 | 薪値上がり | |
| 一四三一年 | ||
| パン不足 | ||
| 五月三十日 | むすめジャンヌの処刑 | |
| 十一月一日 | ヘンリー六世のパリ入城 | |
| ヘンリー六世と王妃 | ||
| フランスとイングランドの王の宴会 | ||
| 一四三二年 | ||
| 一月十三日 | 大寒波 | |
| ベドフォード公妃アンヌの死 | ||
| 一四三三年 | ||
| 一月 | 諸物値上がり | |
| 八月 | 悪疫ラ・ボス | |
| 一四三四年 | ||
| 十月七日 | 大風 | |
| 一四三五年 | ||
| 大雪 | ||
| 四月十七日 | 枯れ木 | |
| 五月十九日 | 氷塊 | |
| 九月二十四日 | フランス王妃イザベルの死 | |
| 一四三六年 | ||
| シャルル7世軍のパリ奪回 | ||
| 一四三七年 | ||
| 三月 | パン統制 | |
| 十一月 | 諸物値上がり | |
| 一四三八年 | ||
| 諸物値上がり | ||
| 四月 | 倒木 | |
| 四月 | パン不足 | |
| 六月 | 穀物不足 | |
| 十一月一日 | 諸物値上がり | |
| 疫病 | ||
| 一四三九年 | ||
| 穀物値上がり | ||
| 九月 | ルルーの親玉 | |
| どんぐり | ||
| 一四四〇年 | ||
| 大豊作 | ||
| 偽ジャンヌ | ||
| 一四四一年 | ||
| 豊作 | ||
| 九月二十五日 | 捕虜虐待 | |
| 一四四二年 | ||
| 三月二十五日 | 流通良好 | |
| 一四四三年 | ||
| くるみ | ||
| 一四四四年 | ||
| 七月十二日 | サンマルタン門開放 | |
| 一四四六年 | ||
| 天才児事件 | ||
| 果物豊作 | ||
| 一四四七年 | ||
| 五月 | 麦酒とぶどう酒 | |
| 一四四八年 | ||
| アニェス・ソレル | ||
| 水枯れ | ||
| 一四四九年 | ||
| ラストダンス |
続く十月十日、土曜日、パリで騒動があった。理由は解らないが普通じゃない騒動だった。人々は、オルレアン公が手勢すべてとともにサン・ジャック門にいるともいないとも、パリ中が混乱しているのでブルゴーニュ公の配下が武装してオルレアン勢を打ち破るのに向かったともいった。だれもどうなっているのかわからなかった。
続く十一月十六日、土曜日、前述の諸卿、すなわちナヴァール、ロイ等は、王をトゥールに連れていった。民衆はそのことに大変当惑し、もしもブルゴーニュ公がパリにいたならば、そうはさせなかっただろうに、といった。しかし、かれらはそうしたのだ。王はそこやシャルトルに十七週間いた。そうして、パリの商人頭や町人たちが、何度もなんども呼ばれて出掛けていった。しかし、かれらにとっても、また民衆にとっても、得になることはなにも決まらなかった。
続く六月二十六日、聖父が決まった。すなわちピエール・ド・カンディ。続く七月の月曜八日にパリで披露された。人々はいとも高雅にこれを祝った。王のトゥールからの帰還のときのことを前に書いたが、そんなふうだった。パリ中の僧堂が高らかに、また夜を徹して、鐘を打ち鳴らした。
一四〇九年、八月の真中の日、朝の五時から六時のあいだ、雷が鳴って、サン・ラードル修道院の建物の上の石造りの、最近作られたばかりの聖母の像が、真中から裂けて遠くへとばされた。サン・ラードル村のパリの町寄りのはずれでは、ふたりの男が雷に打たれ、ひとりは即死した。靴、股引、襦袢はずたずたに裂けたのに、身体にはなんの傷もなかった。もうひとりは、完全に気が狂ってしまった。
一四〇九年、十月七日、月曜日、ジャン・ド・モンタギュと呼ばれる王家王番頭がサン・ヴィクトール近くで逮捕され、Petit Chatelet(小堡)に押し込まれた。かれが捕まったことはパリで騒動となり、まるで町中サラセン人でいっぱいのように何が起きたのか誰も知らなかった。かれを逮捕したのはピエール・デス・エサール(Pierre des Essarts)という男で、のちにパリ代官になった。再び、燈火をつけ、むかしのように、水を戸口に置くように触れがまわった。毎夜、徒歩と騎馬の警吏が注意深く見回った。商いはいつもどおりだった。そうして、その月、十月の十七日、木曜日、くだんの王家王番頭は、二輪の荷馬車にのせられ、官服をまとい、白と赤に染めわけられた毛皮裏地のコートを羽織り、同様の頭巾をつけて、片側赤、片側白の股引に、黄金の拍車、両手を前に縛られて、木の十字架をもたされ、荷車の上に高々と坐らされて、トランペット吹きふたりが先導し、こんな様子でレアルにひかれた。そこで首をはねられた。事が終わってのち、身体は刑場に運ばれ、下着姿で、股引と黄金の拍車はつけたまま、高く吊された。
かれらは悪意以外になにも抱かず、なぜならパリ住民はブルゴーニュ公を深く愛し、そしてパリ代官ピエール・デサールも愛し、なぜならかれは町をよく守ってくれたからだった。昼も夜もずっと鎧に身を固め、強力な軍団をつれて町中を歩き回った。そして、かれは住民に毎晩警戒を怠らないようにさせ、家々の前を警備できないので、通りには日が昇るまで大きな火が焚かれた。これはすべてquarteniers, cinquanteniers, dizainiers によって組織された。
ベリーやその他の軍勢はパリ住民にサン・ジャック門、サン・ミッシェル門、サン・マルセル門の外から圧力をかけた。ぶどうはまだ収穫されないままで種まきもほかのこともパリから四リーグ周辺はまだだった。ぶどうの収穫はクレメンス聖人の日までで、神の恩寵によりほとんど腐っていなく、天気もよかったが、大桶に発酵させることはできなかった。そして、パンがパリに陸路も水路も入ってこなくなり、力づくで取ってくるしかなかった・ラ・チャペル・サン・ドニに騎士がいて、その名をモレ・ベゼンコートは手兵を連れてサン・ブラスや行けるとこまでいって新鮮なパンを運び入れ、諸聖人の日までもった。
これより少し前、たいへん善良な人である Marthurins の総長が王の前で説教し、良き助言が不足しているために蔓延っている不正を明らかにし、この王国内に売国奴と言った。そのとき、説教に列席していたバール枢機卿という高位聖職者が、総長をうそつきと責め、いまいましい犬めと呼んだ。これは枢機卿に大学と民衆と両方から憎しみを向けさせた。だが、枢機卿は気にしなかった。なぜなら枢機卿はこうした人々以外の肩帯をまとう人たちから受けがよく、そうした人たちの代弁者だったからです。(ベリー公もそれ以外の人も肩帯をまとい、ベリー公側の人はみなそうしていた。)ベリー公たちはパリ代官を免職させるために同盟し、これもすべて、代官がよく守っているパリの人々を憎んでいたからです。同盟者の一部というよりほとんどがパリは掠奪させれるべきだと思っていました。パリになそうとしたこのすべての悪徳について、みながアルマニャック伯のせいにし、実際、伯はそうした悪の心をもった人物でした。まさに、こうした人々は犬のように情け容赦なく殺されました。だれかが殺されると、人々は「アルマニャックの仕業だ」と言い、それは伯がたいそう残酷で獰猛でまったく非情なことで知られていたからです。もし寒い天気と飢饉がなければ、この同盟者はいまよりもっと強暴になっていたでしょうが、こうした災害がかれらを交渉させ、目的を達する前に去らせるために仲介者を必要とするようになりました。これがなされたのは一四一〇年十一月六日ごろでした。みな自分の故郷に戻っていきました。だが、フランス王国はかれらがやった損害や被害から二十年も立ち直ることができないでしょう。良いことは追い出されたのです。
セーヌはこのころとても低くなった。降誕祭の前のトマス聖人の日に、夏のヨハネ聖人のころのように低くなった。しかし、神の恩寵により、兵隊が来てから五週間後、とてもいいとうもろこしがパリでスチエあたり十八スーないし二十スーになった。
一方そのころ、ピエール・デサールがパリに戻ってきて、再びパリ代官になりました。かれはパリの外に向って、アルマニャックは無法者なので、かれらを殺して品物をとることを許可するという御触れを出しました。多くの民衆が攻撃しに出かけ、何度もうまくいきました。特にブリガンと呼ばれる村の集団はアルマニャックを殺すという口実で大もうけをしました。
このころパリの人たちはミネルヴァの眼の色の羅紗地の頭巾をかぶり、まんなかに百合花紋様の楯型紋章を描いた聖アンドレ十字架をつけた。二週間もたたぬうちに、胸や背中に、その十字架をつけた人が、大人こどもあわせて一万をかぞえた。
十月十三日、アルマニャック勢はサン・クラウドの橋をとった。・・・
十月二十四日、アルマニャック勢はサン・クラウドと同じようにサン・ドニをとった。人がいうには、シャロンの領主がこれに関与しているという、かれはブルゴーニュ公の配下なのだが。
同盟者たちはこれら二つの土地、サン・クラウドとサン・ドニを拠点に、・・・このころパリにアンゲラン・ド・ブールノンヴィルというのと、アメ・ド・ブレという名の楯持ちがいて、日夜襲撃をかけたので、サンポール伯とその手勢よりもこのふたりの方をかれらは怖れていた。サンポール伯はパリの隊長で、その軍旗はブラシュの花印だった。
十月十六日、アルマニャック勢はサン・ラザール外の風車の近くにいた。・・・
パリ住民は警戒体制をとったが、これはブルゴーニュ公からなんの知らせもないからで、公は死んだのではと考えるものもいた。かれはイングランドに交渉に行っていて、すぐにパリに戻ってきて、、同年十月二十三日到着し、七千だか八千のイングランド兵を手勢に加えて連れてきた。二十五日、イングランド兵は風車に攻撃した。かれらはアルマニャック勢やその馬を射殺した。
十一月八日、・・・
その日、われわれの仲間がサン・ドニにいった。・・・
同年十一月十二日、火曜日、・・・
ギィエンヌとブルゴーニュの兵は同盟側のエタンプを攻撃した。・・・次いで、かの徒党の騎士がもうひとり捕らえられたが、マンサール・デュボワといい、これほどの剛のものはよそにみられないほどだった。これはパリの市場で首斬られたが、首を斬り落とされてから、両の肩で首台を強く押したので、もうすこしで台が倒れそうになり、首斬り役人はたいそうおどろいて、なにしろかれはその後すぐ、六日ののちに死んだのであって、メートル・ギフロワといった。そうして助手のカプルシュが、跡を襲って首斬り役人になった。
サン・ポール伯、その名をワレランは、フランス王軍長に就任した。・・・
司祭もそれをつけ、相当な地位のある商人女も売ってるその品物をつけた。
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
・・・みんな飲むことも喰うも休むもできず、日に二三度高い熱が出て、とくになにか食べるとそうなって、食べものすべてが苦く、味悪く、臭いが鼻につく。どこにどうしていようと、たえずからだにふるえがくる。くわえて、いちばんぐあいのわるいことにからだの力がすっかりぬけてしまって、自分のからだのどこにさわることさえできない。こんな状態が三週間以上つづく。たしかなところ、この病気はこの年の三月はじめからはじまり、タックともオリオンとも呼ばれた。これにかからなかった人や直った人は、ふざけてこういうのだった。「なんだ、あんたもかかったの?さては歌ったな、おばさん、あんたのコンは咳をする、ってのを」と。なぜこんな歌がはやったかといえば、なにしろ咳がひどくて、鼻がつまりのどがやられて、ミサを歌うこともできず、パリでは大ミサに列席する人がいなくなったのだ。なによりもかによりも咳が問題で、昼夜となくせきこむので、はげしくせきこんだ拍子に肺を破って命をおとす人も出た。子をはらんでいた女のうちには、まだ産む月でもないというのに、せきこんだせいで、介添の人もいないまま子を生んでしまい、苦しみもがいて母も子も死んでしまったのもいた。直りかけてくると、口や鼻や、下の方の穴から大量に血を吐いて、みんなたいへんおどろくのだが、それで死ぬ人はいなかった。だからといって、それで直ったというわけではない。なにしろ食欲がもどってから、さらに六週間たたないと、完全に直ったというわけではなかったのだ。医者もだれも、これがどんな病気なのか、わからなかった。
−中略−
−中略−
−中略−アザンクールの戦い
−中略−
−中略−
−中略−
(シチリア)王ルイがこの年、一四一七年に亡くなった。月の終わりの三日ほど前だった。
このころ、くさってもにごってもいないぶどう酒が一パント当り一ドニエで買えた。だが税金は重い。毎年のことだ。だれもブルゴーニュ公のことを語ろうとしない。死んだのか、破産したのか、それとも追放の憂目にあったのか。
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
ところで、ブルゴーニュ勢が街に入った日、五月の二十九日、日曜日、九時課(午後三時)の前、ブルゴーニュ軍入城の折、尼僧、托鉢僧、アンドレ十字架をもった男女、全身分あわせて、こどもを除き、二十万人以上いた、これはたしかなこと。
さて、パリは騒然となった、民衆は軍兵よりもすばやく武装し、連中の軍隊がやってくるよりも早く押し出して、連中をティロン館のわきで喰い止めた。そこへパリの新代官が軍勢を率いて到着し、あいだをおかず、民衆勢の助けを得て、敵勢を多数やっつけ、殺し、サンタントワーヌ門外に押し返した。他方、民衆は、かの徒党への憎しみに燃えて、パリじゅうの宿屋という宿屋に押しかけて、かの徒党にくみするものを探し求め、そいつをみつけては、どんな身分のものであれ、捕虜だろうがなんだろうが、街路にひきだして軍兵にひきわたし、情け容赦もあろうばこそ、大斧その他の武器で殺された。その日、武器を手にもたぬものなく、かの徒党のものたちが息絶えて横たわっているそばを通りかかるや、武器をふるって死体を傷つけるのだった。女こども、また虚弱のものたちは、死体を傷つけて恨みをはらすことができないままに、通りすがりに呪いのことばを吐いた、「裏切者の犬どもめ、ふさわしすぎるほどの死にざまよ、ほらまたいたよ、みんなこうなるがいいさ、神もおよろこびだ」
パリの名のある通りにして屠殺の行われないところはなかった。屍体がいくつかころがっているのを見てから百歩も歩かぬうちに、屍体は、下穿ひとつ残してあとは身ぐるみ剥がれる始末で、その有り様は、まこと泥中の豚のごとく、あわれを誘うことであった。なにしろ、この週、雨が激しく降らなかった日はなかったのだ。この日、この町では、屋内で殺されたのは除いても、五百二十二人であった。そして、その夜、はげしく雨が降ったので、死体はすこしも悪臭を発せず、傷口は雨に洗われて、朝になってみると、傷口には血がこびりついているだけで、汚物は残っていなかった。
−中略−
この週、ルーアンがパリを助けようと動き出し、三百ランス(千八百)の兵隊と三百の弓兵をイングランド人と戦うために送った。
−中略−
そうして、かれらの隊長である貪欲は旗印を高く掲げ、裏切りと復讐を引き連れて、声高に叫びはじめた。
「殺せ!殺せ!裏切り者のアルマニャックの犬どもを殺せ!今夜こそ、ひとりでも逃すようなことがあったら、神なんか知ったこっちゃない!」
得たりや応と、狂乱、殺人、殺戮が殺戮し、打ち倒し、殺し、牢屋のなかにいた連中を情け容赦もなく、皆殺しにしたのであって、殺す筋合いがあってかなくともか、そんなことはどうでもよい。そうして貪欲は衣服の裾を帯の下にたくしこみ、娘の掠奪と息子の窃盗を引き連れて、人が殺されたと見るや、その人が身につけていたもの一切を剥ぎ取り、なにしろ貪欲は、せめて下穿はぐらいは、と残しておいてやることをさえも望まなかったのだ、四ドニエもしないものだというのに。このことはキリスト教徒たるものの他人に対する最大の、およそ口にしうるかぎり最大の残酷、人道背反の一例なのだ。
−中略−
・・・じっさい、昼の十時にならないうちに、各所の牢獄の前には、犬か豚かなんぞのように死体が山と積まれ、憐憫の情を示すどころか、こういったものもいる「やつらはおれたちや女やこどもを溺れ死にさせようと袋を作らせたのだ、イングランド王とその騎士連中のために旗を作らせたのだ、パリをイングランド勢にひきわたすとき、パリの門に掲げようというわけだ。赤い十字架模様の記章を三千以上も作らせて、殺す相手の家の戸口に目印にはりつけさせようとしたのだ」。人びとが悪しき忿怒につきうごかされて熱しきっているのをみて、代官はもはや理性、憐憫、正義について語ろうとはせずに、こういった、「みなさん、すきなようにしなさい」。こうして人びとは牢獄という牢獄に押しかけ、押し入ることが難しい牢獄には火をつけて、中の連中は身を守るすべもなく、折り重なって苦悶のうちに焼け死んだ。こうしてパリの牢獄では、ただルーヴルは除いて、なにしろそこには王がいたのだから、焼き殺され、斬り殺されなかった捕虜はいなかった。
真夜中から翌朝にかけて、男女大勢が殺されて、その数一千五百十八人。そのなかには王軍長、官房長、ルモネ・ド・ラ・ゲールという名の隊長、役人のピエール・ド・レクラ、ピエール・ガイアン、ギヨーム・パリ、それに官房長の息子のクータンス司教がいた。耕地の側の裏庭で殺されて、丸二日間、王宮の階段の一番下の大理石の上におかれて、その後この七人はサンマルタンのくだんの裏庭に葬られ、残りのものはトリニテに埋められた。
−中略−
この年、大市のことは話題にならなかった。気のぬけたころ、ブラバントの靴をすこし売っていた。ドニ聖人大通りの神の娘たちのそばに屋台がみっつ。
−中略−
−中略−はらみ女殺しの罪でカプルシュ処刑
−中略−
なにしろ五週間たつかたたないうちに、パリ市内で五千人以上の人が死んだのだ。教会の人も多数死んだので、たった一回の略式ミサで四人、六人、八人と、世帯主たちが葬られたり、いくら出せばミサをあげてくれるのか、司祭と談合しなければならなくなった。なんと十六ないし十八スー・パリジス(パリ貨スー)、小ミサに四スーを支払わされることもめずらしくなかった。
−中略−
十月、十一月を通じて、前述のごとく、死はその猛威をふるい、もはや死者を埋葬すべき場所がなくなったので、大きな溝を、サンジノッサンに五つ、ラ・トリニテには四つ、その他の墓地にその広さに応じて掘り、それぞれに六百ほどの死体を埋めた。そして、これはたしかなところだが、パリのコルドリエ僧院が、その僧団の聖クレパンと聖クレピニアン信徒会の結成記念日に、(その信徒会に属する)同職の人々(靴屋)の死亡者数を調べたところ、かぞえてみてわかったのには、なんと、この二ヶ月のあいだに、親方、職人あわせて千八百人が死んでいた。パリの各所の墓地に墓穴を掘った施療院の人びとの確信するところでは、聖母御誕生の日(九月八日)から御受胎告知の日(翌年三月二十五日)にいたるまでのあいだに、パリにおいては十万人以上を葬った。また、老人の死体は、四百ないし五百のうちに十二しかみなかった。みんなこどもや若者の死体だったという。
−中略−
そういうわけで、十四歳の少年が一度に八ドニエのパンを食べ、パン一ダースで以前は七から八ブランだったのが、六スーもするようになり、チーズの小片が十から十二ブラン、卵が二十五個で五から六スー、上等の羊、車一台分、あるいは牛が三十八フラン。マルヌもののたぐいのけちな薪で、まだ青々としているのが百束でパリ貨四十スーから三フラン、モル売りのは十二スー、葉っぱだらけの情けない粗朶が百束でパリ貨三十六スー、アンゴワス梨、二十五個で四スー、りんごはニスー、ないし六ブラン、塩バター、リーヴル当り八ブラン、フリースラント産のチーズ、小片がパリ貨十六ドニエ、以前は八ブランで買えた靴一足が、十六から十八ブラン。
−中略−
−中略−
−中略−
三月の最後の週、これは四旬節の第四週に当ったが、パリの市場やモーベール広場で、パン一ダース、二十スー出しても、なかなか手に入らなかった。たしかにパンを焼いている店もあったが、なにしろ手に入るのはせいぜい一個か二個で、店の前にはいつも五十人、六十人が焼けるのを待っていて、かまから出されるや、奪うようにしてもっていってしまう。パリの町の暮らしはそんな状況であって、じっさい、四旬節を通じて、まずしい人は、これ以上はないまでに真っ黒で、香りもなにもないパンしか食べられなかった。四旬節の終わり頃、時折、たらが入荷した。ところが、一袋パリ貨二十六スーで、以前は五ブランで売られていたこともあったというのに、五ブランや六ブランでは、ほんのすこししか手に入らなかった。いちじくも良く出まわったが、皮の厚い、ざらざらした舌ざわりのしろもので、リーヴル当り、二スーで売っていた。樽詰めにしんの上物は一尾パリ貨八ドニエ、薫製は六ドニエ。小ぶりのいか、三ないし四ブラン。玉ねぎが暴騰して、二十個ないし二十四個詰めの小箱がパリ貨四スーした。
−中略−
モントローの謀殺を含む三枚の写本が喪失。
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
この年、いちじくもローズマリーもみな凍って、Maraisのぶどう畑もやられた。くるみもだめで、これは霜のせいだった。地面をみれば一目瞭然だった。五月のなかばには、堆肥の山にも霜が降りた。
この年、一四二三年の六月の第二週にイングランド勢がウールセー前面に出かけた。そのウールセーはたいへんフランスに、特にパリ周辺に悪さをしていたのだ。
−中略−
(挿入位置不明)・・・また、果物も豊作で、質もよく、降臨祭を過ぎるころ、ルーモーりんご、あるいはカパンデュりんごが、二十五個、四ドニエないしそれ以下で買えた。(挿入位置不明)
−中略−
−中略−
−中略−ヴェルヌイユの戦い
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
また、続く木曜日、増水ははなはだしく、ノートルダム島は水の下になった。島の対岸の楡の木河岸は一面の水の下で、人びとは小船や艀で往来し、床の低いあたりの家々は、地下倉から床まで水をかぶった。人二人分の丈の高さまで水に浸かった地下倉もあって、なんとも気の毒なことだった。ぶどう酒が水の下になってしまったのだ。また別の家では、三段か四段下になっている厩が、あたり一面の水の下になり、そこにしっかりつながれていた馬どもが、助けだすひまもあらばこそ、水に溺れてしまい、つながれていなかったのも、わずか二時間のあいだに、人の丈ほどの高さにまで達した水の勢いに押されて溺れてしまったのである。なにしろそんな勢いで、続く金曜、土曜と水は増えつづけ、ついに市庁舎の前にまで達し、市庁舎と向かいあう、ヴァヌリー通りの側の厩預かりの屋敷では一ピエの深さにまで達し、十字架の真ん前の市庁舎に面と向っているグレーヴの十字架の第六段目にまで水は上がり、エロワ聖人の祝日のころまでモルテルリー通りは歩けなかった。つづめていえば、前年のそれにくらべて、出水は高さにして二ピエほど大きかったのであって、水の出たいたるところ、麦畑、からす麦畑、沼沢を荒らし、涸らし、なんにも生えなくしてしまった。なにしろ水は五週間か六週間引かなかったのだ。
−中略−
−中略−
だが、かれらのなかに妖術使いがいて、手相を見、経歴を当てたり、未来を予言したり、夫婦のあいだに争いを起こさせたりした。というのも、その女たちは、亭主と見れば、「おかみさん、男を作ってるよ」、女房と見れば、「あんたの亭主、悪いことしてるよ」などと言い立てたからだ。もっと悪いことには、そんなふうに人に話しかけながら、魔法でも使ってか、地獄の敵の手を借りてか、これぞ習い覚えた世渡りの術か、人の財布を空にして、中身を自分のに移してしまうという。
事実、わたしは三度も四度も、そこに出掛けて、かれらと話しをしたのである。それなのに、わたしは、一文もとられた覚えはなく、かの女たちが手相を見るのを見たこともないのだ。それなのにあちこちでそんな噂が流れていて・・・
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
−中略−
また、四十ミュイのぶどう酒がのまれた。また、肉料理八百皿が出たが、かぞえきれぬほど出た牛と羊は除いてである。
−中略−
このころ、ぶどう酒のあまりの高さにたまりかねて、ビールを醸造するものが多数出た。万聖節のころまでには、パリに三十軒のビール屋ができた。サンドニや他所からも、荷車でビールを運びこむものがいて、ぶどう酒の触れ売りと同じように、パリ中、売り歩いていたが、パリのは二ドゥブルしかしないのに、サンドニのは三ドゥブルで、これはパリ貨で四ドニエに相当したのだ。
えんどうはブッセル当り十ドニエ、そらまめも同額、卵は二十五個で十二ドニエ、いずれもパリ貨。
−中略−
パリの住民はオルレアン前面の軍に提供するために小麦粉を差し出した。かれらは小麦粉で満載の荷馬車三百台とともに行き、・・・
(要約)途中でアルマニャック勢に襲われる
七千に対して、当方一千五百を越えない数、アルマニャック十三に対して当方二の割合だ。・・・
パリに説教師リシャール某がいたり、四月第十六日土曜にサント・ジュヌヴィエーヴにおいてはじめ、続く日曜とそれに続く週間、すなわち月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜と、イノサンスにおいて朝の五時頃よりその説教をはじめ、十時あるいは十一時までつづけ、つねに五千ないし六千人が聴いていた。リシャール某は、ラ・シャロンヌリー通りに面する納骨堂に背を向けて、死の舞踏のわきえに、一トワーズと半の高さの足台の上で説教していた。
ドニ聖人発見日に、ブルゴーニュ公が自領のフランドルからやってきた。オルレアンはいまだ包囲され、・・・
そのフランシスコ会修道士はマルコ聖人の日にブーローニュ・ラ・プチで早くから説教をはじめ、そこには大勢の群集がいた。そうして、その日の説教から帰ってくると、パリの人々は移動して、三時間か四時間のあいだに、百個所以上で火をたいて、将棋板とかサイコロとかカルタとか、玉突台とか球とか、そうした怒りや冒涜なことばを出させる強欲な遊びを投げ入れた。女は、なによりもまず、髪の飾りもの、どういうのかというと、動物の毛のかたまりとか、松露型のかもじとか、皮のきれっぱしや鯨のひげ、こういったのを帽子のなかにいれて、帽子をぴんとつっぱらせたり、前でめくりあげたりさせようというのだが、そういったもの、娘は角とか尻尾とか(尖り帽子とその飾りリボン)、そういった虚飾の品々を焼きすてた。・・・
(挿入位置不明)・・・よき教化を及ぼした・・・マダゴワール草(ちょうせんあさがお)に関する迷信かつぎ・・・(挿入位置不明)
このころ、ひとの言によれば、ロワールの河縁にひとりのむすめあり、予言者を称して、これこれのことは真実となるであろうなどといい、フランス摂政とそれを助けるものたちに敵対した。ひとの言によれば、オルレアンの前に陣を構えていた軍勢をものともせず、多数のアルマニャック勢とともに、多数の食糧をたずさえて市中にはいった。また、陣のものたちは、まったく身動きできず、アルマニャック勢が、かれらのそば近く、矢のとどくあたり、ないしはその倍ほどのところを通って市中にはいるのをただ見ていたとのことであり、また、市中の人々は、食糧がたいへん欠乏していたので、じつに三ブランもするパンを夕食に食べていたとのことであり、そのほか、その娘についていろいろと、ブルゴーニュ勢やフランス摂政に対してよりもアルマニャック勢に対してより好意を持つ連中は語ったのである。かれらは、かの女がまだほんの幼かったころ、子羊の群れの番をしていたと、また、森や野原の鳥は、かの女が呼ぶとやってきて、飼いならされたもののごとく、かの女の膝の上でパンを食べたと断言した。(以下ラテン語)「真実のうちには偽りのものもある。」アルマニャック勢は包囲に立ち上がり、オルレアンの前からイングランド勢を退かせようとした。しかし、人のいうところによれば、アルマニャック勢はヴァンドームに出かけ、そこをとった。このむすめはアルマニャック勢の行くところどこにでも付いていき、鎧を身につけ、「イエス」と書かれた旗印を持っていた。人のいうところによれば、かの女がイングランド勢の隊長に向っていうには、その軍勢とともに陣営より出立せよ。さもなくば汝ら全てに禍と恥がいたるであろう、と。かの隊長はむすめを口汚く罵り、淫売、売女と呼んだ。するとむすめはいった、かれら軍勢はかれらの意に反し、時を移さず出立することになろう。だがかれは(その出立を)決して見ないであろう、と。そうしてそのようになった。なぜならば殺戮が行われた前の日にかれは溺れ死んでしまったのであるから。その後、引揚げられ、四肢を分断され、煮られ、臭気止めを施され、サン・メリーに運ばれ、酒倉の前の教会に八日から十日の間置かれた。そうして夜となく昼となく、屍体の前には四本のローソクもしくは松明が焚かれた。そのことの後、埋葬のため故国へ運ばれた。
リシャール某が、いまや去った。・・・
このころ、アルマニャック勢は平野部を押さえ、そこらじゅうを荒らした。八千のイングランド兵が送られたが、実際には六千しかなく、一万強のアルマニャック勢とぶつかった。アルマニャック勢はイングランド勢を暖かく迎えてやろうと猛然と突撃した。両軍に多大な被害が出た。最終的に、イングランド勢は耐えられなくなり、アルマニャック勢は四方を取り囲んだ。イングランド勢はそこで敗北した。四千ないしそれ以上の死者が出たと人がいっていた。もう一方の死傷者の数はパリでは知られていなかった。
一四二九年六月十九日日曜、パリ郊外のサン・ローラン教会でパリ大司教さまや高位聖職者による献納が行われた。
一四二九年六月六日、Aubervillesでこの素描のような二人の子どもが生まれた。わたし自身みたが、手のひらにのった。その子どもは二つの頭、四つの腕、二つの首、四つの足、四つの足部、だが、腹は一つだけ、へそも一つだけだった。頭は二つで背中は二つだった。・・・
(要約)奇怪な牛。
ヨハネ聖人の祝日前の火曜日に、パリで騒動があった。・・・
新しい商人頭が決まった。・・・
この月の十日、日曜日、ブルゴーニュ公がパリに午後六時ごろやってきた。・・・
次の土曜日、ブルゴーニュ公は、妹で摂政の妻とその摂政をつれてパリを去った。摂政とその軍勢はポンチューに向かった。l'Isle Adamがパリの守備隊長になった。
この週に、アルマニャック勢はAuxerreの町に入り、トロワに行き、なんの邪魔もなく入った。・・・
説教師・・・
・・・ローラン聖人の祝日(八月十日)の前日、サン・マルタン門が閉鎖された。そうして触れが出て、敢えてサン・ローランへ赴くべからず、お参りでも、買物でもだめ。禁を破れば絞刑、と。そこでだれも出かけなかった。サン・ローランの祭りはサン・マルタンの境内で催された。大勢つめかけたが、なんにも売られていなかった。チーズも卵も、季節の果実も、全然。
一四二九年九月の最初の週に、・・・城壁に大砲が設置された。・・・
このころ、アルマニャック勢がアランソン公の印章の押してある手紙を送ってきた。・・・
九月の聖母御誕生の日(九月八日)の前日、アルマニャック党はパリの城壁に襲いかかろうとやってきて、パリを占領しようと考えたのだが、すこしも攻略することはできず、苦悩と恥と難儀を味うだけの破目におちいった。というのは、多数が死にいたる深手を負ったのであって、かれらは襲撃の前までは健康だったのだが、大いなる不幸に会い、人がラ・ピュセルと呼んでいる、それがなにものだかは神のみぞ知るだが、女の形をした一被造物を伴って、聖母御誕生の祝日、全員一致して謀をめぐらし、その日パリを襲おうと、一万二千余が集まり、大ミサのころ、十一時と十二時のあいだに、かれらのむすめを伴って、パリの掘割を埋めようと、三本の箍に縛り括った枝木の大束を積んだ荷車、手押車、馬とともに押し寄せ、サン・トノレ門とサン・ドニ門のあいだに襲いかかりはじめたが、じつにはげしい攻め寄せかたであった。攻めよせながら、かれらはパリの人びとに対し、様々な悪口雑言を吐いたが、ここにかれらのむすめは、掘割の土手の上にあってその旗を守り、パリの人たちに呼びかけて、「イエスにかけて、ただちにわれらに降伏せよ、夜にいたるまでに降伏せざるときは、われらはなんじらの意向にかまわず、やむなく力をもって城内に入り、なんじらは、容赦なく死へと追われることとなろう。」「なにお!」とあるものはいった、「この助平女め、淫売め!」そしてその男の放つ弩の矢は、まっすぐに女に向い、女の脚をつらぬきとおしたので、女は逃れ去る。もう一筋の矢は、女の旗を持つものの足をつらぬく。そのものは、傷ついたと知るや、その瞼甲をあげて、足にささった旋転矢をひきぬこうとする。そのとき、さらに一筋の矢がかれにいたり、両眼のあいだをつらぬき、顔を血に染める。かれを傷つけ、死に追いやる。
むすめとアランソン公は・・・
まちがいなく、この襲撃によってパリの町を力ずくで占領することになろう。そして、この夜、かの女はこの町に泊まることになろうし、かれらもまた同様である。そして、かれらは全員、この町の財宝で富みゆたかになろう、そうかれらに約束したむすめを、大いに呪った。・・・
三日ないし四日して、摂政がパリに戻ってきた。・・・
一四二九年九月の最後の金曜日、ブルゴーニュ公がパリにやってきた。なんともみごとな供揃えで、なにしろ大勢だったので、民家に泊らせ、空家に宿営させる騒ぎになった。なにしろ空家はいっぱいあったのだ。馬も豚や牛といっしょに寝た。サン・マルタン門から入ってきたのだが、妹御も連れていた。フランス摂政ベドフォード公の妻だ。ベドフォード公もいっしょだった。先行する伝令使十人隊、各々自分の主人の紋章入りの軍衣を羽織っている。同じ人数のラッパ吹き。華麗というか虚栄というか、そんなぐあいにマルタン聖人門から入って、モービュエ通りを抜け、マダーム・サント・アヴォワにおもむいて、寄進して、そこからポール聖人へ向った。
一週間後、ウィンチェスター枢機卿がやってきて壮麗に同伴した。・・・
イングランド勢がいった後、ブルゴーニュ公はアルマニャック勢と降誕祭まで停戦するためにでかけていった。・・・
二週間パリにとどまり、ブルゴーニュ公はルカ聖人の祝日の前日に去り、ピカルディ勢を連れていった。・・・
(要約)フランス摂政がベドフォード公からブルゴーニュ公に代わった。
−中略−
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そしてかの女は、漆喰仕立ての木組みの台の上の杭に縛りつけられた、そして火がつけられた、かの女はすぐ死んだ、衣服はすっかり焼けた、次いで火が遠ざけられた、群集はまっぱだかのかの女を、女にあるはずの、なければならないはずのかくれた部分をくまなく見た、民衆の疑いをとりはらうためのことだ。心ゆくまで気がすむまで、民衆が、すっかり死んで杭に縛りつけられているのを見るのを見はからって、処刑人は、このあわれな死骸の上に盛大に火をかけた、死骸は燃えつき、骨も肉も灰になった。あちらこちらに、かの女は殉教者であった、正しい主君のために死んだのだというものもあり、また、他の連中は、いやそうではない、かの女をかくも用いたものはまちがっていたのだ、ともいっている。だが、いかなる悪行あるいは善行をなしたとしても、ともかくかの女は、この日、焼かれてしまったのだ。
−中略−
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(挿入位置不明)そうして大学の人々は二人づつ進んだ。先生方一人一人の傍らに、少し下がって、町の人がついたのだ。(挿入位置不明)
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一行がサンポール館のところにさしかかったときのこと、故王シャルル六世の妻、王妃イザベルとそのとりまきの女たちが窓に凭っていた。かの女は、自分の娘の子、アンリ幼王を娘のかたわらにみとめて、かぶっていた頭巾をとって、いともつつましやかに頭を下げたが、すぐに目をそらし、涙を流した。ここで衛兵たちが天蓋を受けとった。なにしろこれはかれらの権利なのだ。かれらは、かれらが建立者である聖女カトリーヌ小修道院に、この天蓋を寄進した。
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塗油の儀式のあと、王とそのとりまきは王宮にやってきて、大広間の大理石の大卓子で食事をとった。ほかの人たちは広間のあちこちに散らばって相伴にあずかったが、なにしろ大混乱だった。それというのも、町の連中が朝のうちからそこに入りこんでいて、あるものは見物しようと、あるものはたらふく飲んだり食ったりしてやろうと、またあるものは、肉だとかそういったものを盗んだり、ちょろまかしてやろうというわけだったのだ。なにしろ、この日、雑踏のなかで、帽子が四十あまりもはぎとられ、帯の留金が多数もぎとられたのだ。ともかくたいへんな混雑だったので、大学や裁判所の面々、それに商人組合長さえも、ともかくたいへんな数の人々にじゃまされて、階段をあがることができなかった。二度、三度と、なんとか階段をあがろうとしたのだが、民衆がかれらを乱暴に押しもどす。なんどもなんども押しつ押されつ、なんと八十、百人が、ひとかたまりになって、もみあいへしあい。そこにぬすっとが大活躍。町の人たちがどっと入りこみ、お歴々がやっとのことで広間に入ってみると、もう満員。どこに坐っていいのやら見当つきかねるありさま。どうにかこうにか定められた席にたどりついてみれば、靴直し、辛子売り、屋台酒の売り子、石工の手伝いといった連中といっしょの卓子という始末。なにしろ、そいつらをどけようとしても、ひとりふたりをなんとかどかしても別の方から六人、八人とわりこんでくるのだ。
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ともかくサーヴィスが悪かった。みんなが不平を鳴らした。なにしろ肉のほとんどは、とくに町の人たちあてのものは、なんと木曜日に料理されたというしろもので、これはフランス人にとっては奇怪至極のことではあった。なにしろイングランド人が指図してやったことなのだ。この行事にどんな名誉が賭けられているのか、そんなことはかれらの意に介するところではないのだ。ともかく、だれひとりとして満足しなかったのだ。施療院の病人たちでさえも、こんな粗末な、味気ない残飯なんぞ、いままでみたこともないといったくらいなのだ。
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このころ、垂木の古材のけちな薪束が一束五ドニエ、六ドニエした。ほかになかったのだ。そこで摂政はブリュイエールの森をパリの住民に解放した。これがいくらか救いになった。
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また、果実が方々でだめになってしまった。花梨と森のりんごはそうでもなかったが、くるみやはたんきょうは一粒も生らなかった。
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また、この年はくるみが豊富に出廻って、一スチエ四ブランで売っていた。パリの商人たちは、とっておけるものはなんでも、自分たちの倉庫にしまっておいたのだ。
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また、この年、どんぐりがたくさん出まわり、麦市場の燕麦を売っているところの脇で、麦と同じくらい大きな袋詰めで売られていた。
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たしかに、かれはわれわれを大変怖れさせた。なにしろかれは、およそ人間の自然が知ることのできないはずのことを知っていて、なにしろかれは聖教会の四人のドクトゥールたちをやりこめたのだ。すなわち、およそこの世に比肩するものを見出さないかれの知識をもってである。そうしてわれわれが聖書に持つところでは(聖書の教えるところでは)、反キリストがキリスト教徒の父と、キリスト教徒を装う、だれもがそう信じているユダヤ女の母との姦通から生まれるであろう、反キリストは戦火渦巻くとき、悪魔から生まれるであろう、若者はこぞって、あるいは男にあるいは女に、あるいは驕りの心から、あるいは贅沢の欲望から、衣服を変えるであろう、大領主たちに対する憎しみが増すであろう、かれらは細民に対して残忍このうえなくなるであろうから。また、かれの知識はすべて悪魔に出るものであるだろう、それなのにかれは、それがかれの本性から出たものと思いこむであろう、かれは二十八歳のときまでキリスト教徒であるだろう、そうして、その年齢になると、かれの大変な知識を披露すべく、この世の大領主たちのもとを訪れるであろう、そうして、そのものたちから大評判を獲ち取るべく、二十八歳の年にイェルサレムからやってくるであろう。そうして、神を信ぜぬユダヤ人たちは、かれの大変な知識を見聞するや、かれを信じ、これこそはかれらに約束された救主だといい、かれを神と崇めるであろう。そこでかれはその弟子たちを世界各地に送り、ゴドとマゴドがかれにつき従って、かれは三年と半、君臨し、三十二歳のとき、悪魔たちがかれを連れ去るであろう。そこで欺かれることとなるユダヤ人たちは、キリスト教徒の信仰に回宗するであろう。その後、エノクとエリが来るであろう。その後はすっかりキリスト教の世になり、そうしてひとつの羊の群れ、一人の羊飼となるであろうといった聖人の福音が実証されるであろう。そうして、かれを崇めようとしないというので、かれが苦しめさせるであろう人々の血が、神に対して、復讐をと叫ぶであろう。すると、聖ミッシエルがやってきて、かれとその手先どもを深い地獄の沼に突き落とすであろう。
以上述べたごとく、前述のドクトゥールたちは、くだんの男について語ったのである。その男はエスパーニュからフランスに来た。ところが、じっさい、ダニエルと黙示録によれば、反キリストはカルデアのバビロンに生まれるはずなのだ。
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この年、船で、また荷車で、二十五個がパリ貨六ドニエで、特大の粒のアンゴワス梨が運ばれてきた。高くても二ブランで、なにしろ大変いい状態だったので、三月のなかばまでくさらなかった。じっさい、パリのアル(市場)に山積みされていて、前にグレーヴ広場の十字架のところに炭が山積みされているのをみたことがあるが、そんなぐあいで、一山だけではなく、六山から七山、店番もおかず、りんごも同じくらいかそれ以上、これはラングドック、ノルマンディー、その他方々から運ばれたものだった。
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注記
訳文は、堀越孝一著『日記の中のパリ』(サントリー博物館文庫)、
『遊ぶ文化』(小沢書店)、『中世の精神』(小沢書店)、
『軍旗はブラシュの花印』(小沢書店)、『形見分けの歌』(小沢書店)から引用しています。