一四一一年になると、同盟者たちは悪さをしに戻ってきました。八月の終わり、サン・ドニ方面からパリにやって来て、ブルゴーニュ公に挑戦しました。両軍は Montdidier の近くに集結しました。だが、ブルゴーニュ軍が強力であることに気づくと、あえてブルゴーニュ公を攻撃しようとはせず、それでもブルゴーニュ公は同盟者たちが動くまで五週間待ちました。同盟者たちが動かないのを見ると、公はかれらは王と良き町パリのためだけに戦争をするのだと言いました。公は召集軍を領地に帰し、大部分を連れていかせました。すると、悪しきアルマニャックの同盟者たちはできる限りの害をなすために進軍し、収穫真っ最中のパリに直進しました。それは、土曜と日曜のあいだの真夜中のことで、一四一一年十月三日のことでした。同盟者たちは Pantin 、St.Ouen 、サン・ドニ大聖堂、モンマルトル、Clignancourt、などパリに仲間するすべての村々を襲い、サン・ドニは攻囲された。同盟者たちはサラセン人のごとく被害をもたらしました。人々の親指や足を縛って、殺すか身代金をとり、女性は犯され、火が放たれました。そうしたことがあるとだれもが、「アルマニャックの仕業だ」と言い、同盟者たち以外には村にとどまるものはいませんでした。
一方そのころ、ピエール・デサールがパリに戻ってきて、再びパリ代官になりました。かれはパリの外に向って、アルマニャックは無法者なので、かれらを殺して品物をとることを許可するという御触れを出しました。多くの民衆が攻撃しに出かけ、何度もうまくいきました。特にブリガンと呼ばれる村の集団はアルマニャックを殺すという口実で大もうけをしました。