パリ一住民の日記 補追


これは十四世紀の覚書『パリ一住民の日記』の全訳に向けての試みです。旧版において、日本語訳のある部分を集め終えたので、足りない部分を埋めていきます。ここに公開と同時に新版に組み込んでいきます。


1410
これより少し前、たいへん善良な人である Marthurins の総長が王の前で説教し、良き助言が不足しているために蔓延っている不正を明らかにし、この王国内に売国奴と言った。そのとき、説教に列席していたバール枢機卿という高位聖職者が、総長をうそつきと責め、いまいましい犬めと呼んだ。これは枢機卿に大学と民衆と両方から憎しみを向けさせた。だが、枢機卿は気にしなかった。なぜなら枢機卿はこうした人々以外の肩帯をまとう人たちから受けがよく、そうした人たちの代弁者だったからです。(ベリー公もそれ以外の人も肩帯をまとい、ベリー公側の人はみなそうしていた。)ベリー公たちはパリ代官を免職させるために同盟し、これもすべて、代官がよく守っているパリの人々を憎んでいたからです。同盟者の一部というよりほとんどがパリは掠奪させれるべきだと思っていました。パリになそうとしたこのすべての悪徳について、みながアルマニャック伯のせいにし、実際、伯はそうした悪の心をもった人物でした。まさに、こうした人々は犬のように情け容赦なく殺されました。だれかが殺されると、人々は「アルマニャックの仕業だ」と言い、それは伯がたいそう残酷で獰猛でまったく非情なことで知られていたからです。もし寒い天気と飢饉がなければ、この同盟者はいまよりもっと強暴になっていたでしょうが、こうした災害がかれらを交渉させ、目的を達する前に去らせるために仲介者を必要とするようになりました。これがなされたのは一四一〇年十一月六日ごろでした。みな自分の故郷に戻っていきました。だが、フランス王国はかれらがやった損害や被害から二十年も立ち直ることができないでしょう。良いことは追い出されたのです。

1411/10/3
一四一一年になると、同盟者たちは悪さをしに戻ってきました。八月の終わり、サン・ドニ方面からパリにやって来て、ブルゴーニュ公に挑戦しました。両軍は Montdidier の近くに集結しました。だが、ブルゴーニュ軍が強力であることに気づくと、あえてブルゴーニュ公を攻撃しようとはせず、それでもブルゴーニュ公は同盟者たちが動くまで五週間待ちました。同盟者たちが動かないのを見ると、公はかれらは王と良き町パリのためだけに戦争をするのだと言いました。公は召集軍を領地に帰し、大部分を連れていかせました。すると、悪しきアルマニャックの同盟者たちはできる限りの害をなすために進軍し、収穫真っ最中のパリに直進しました。それは、土曜と日曜のあいだの真夜中のことで、一四一一年十月三日のことでした。同盟者たちは Pantin 、St.Ouen 、サン・ドニ大聖堂、モンマルトル、Clignancourt、などパリに仲間するすべての村々を襲い、サン・ドニは攻囲された。同盟者たちはサラセン人のごとく被害をもたらしました。人々の親指や足を縛って、殺すか身代金をとり、女性は犯され、火が放たれました。そうしたことがあるとだれもが、「アルマニャックの仕業だ」と言い、同盟者たち以外には村にとどまるものはいませんでした。

一方そのころ、ピエール・デサールがパリに戻ってきて、再びパリ代官になりました。かれはパリの外に向って、アルマニャックは無法者なので、かれらを殺して品物をとることを許可するという御触れを出しました。多くの民衆が攻撃しに出かけ、何度もうまくいきました。特にブリガンと呼ばれる村の集団はアルマニャックを殺すという口実で大もうけをしました。

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"A Parisian Journal"
Translated by Janet Shirley
(C)OXFORD UNIVERSITY PRESS 1968
に準拠しています。