歴史小話一刀両断

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ここは、わたしが本を読んだり人に質問して知った知識をジャンル分けせずに転がす場所です。メールで頂戴した一行質問なんかもここに来るかも。


日本におけるアラビア数字の受容 1998/04/29
梅文鼎(1633-1721) 1998/04/29
爵位制度の祖形 1998/04/28
長篠三段撃ち伝説 1998/01/08
中世の新年 1997/12/14
司馬遷と史記 1997/12/04
レアルと処刑 1997/11/16
中世に『公』が無く『個』しかないとは? 1997/11/07
何故"Duke"を『公』ではなく『侯』と訳すのか? 1997/11/04


日本におけるアラビア数字の受容

 を調べようとして図書館で数学史、科学史の本を片っ端からひっくり返すが、答えてくれず。和算の本がないので、日本については解らず。そうだ、和算のサイトを調べてみよう。

 ただ、明治期の地震研究の論文にはアラビア数字が使われていたし、明治17年ころの東京数学学会とかいう集まりが、羅馬字推進委員会みたいのをつくって、自分たちの研究書をすべてローマ字で書くという行為に出て、TOKYO SUUGAKU GAKKAI みたいなタイトルで雑誌を編集しているのは、結構絶句。海外との差をつめ、海外の論文を引用しやすくするというのが目的だったらしい。

というわけで、たぶん、アラビア数字の日本での受容は明治以降だとおもう。教育史関係からつめるといいかもしれない。

 すくなくとも、縦書き基本の日本の文章にアラビア数字が入り込む余地があるのかは知らない。手元にある『練兵實備』(ペリーが来る3年前の兵法書を復刻した同人誌)をみる限り、一切ないです。

 帳簿とか図面とかがみれるとわかるかもね。

梅文鼎(1633-1721)

上の続き。

 日本を知りたければ、中国を知れというのが、ザビエル以来の西洋の伝統なので、それに従うことにしよう。

 中国でのアラビア数字の初出は、唐代でインドの"Nava graha"の翻訳書『九執暦』にアラビア数字の原型インド数字が載っているそうですが、この本はほとんど理解されず、インド数字は埋もれました。

 中国での西洋科学のとりこみは、明代に宣教師を通じていろいろ行われ、在野に多くの知識人がいました。梅文鼎もその一人で幼いころから資産家で蔵書家だった父親から暦と天文について教育され、30歳のころには当代随一の暦学者になっていました。

 その後、各地で暦学書を買い込む旅をし、生涯80冊以上の暦学の本を著しました。その内容は、中国在来の知識と西洋の知識を合わせたもので彼の研究によってはじめて東西の文化が融合したといえます。

 その後も清の康煕帝の来訪を受けたり一族のものを出仕させたりと、「徴君(梅文鼎)より以来、数学に通ずるもの、先後輩出し、師々相伝 えるも、要はみな梅氏に本づく」(銭大[日斤])といわれました。

 さて、梅文鼎の死後『暦算全書』がまとめられましたが、このころ日本では八代吉宗の時代にあたり、貞享暦の改暦を考え、和算家関孝和の高弟である建部賢弘にはかったところ、建部は老齢を理由に弟子中根元圭を推挙しました。中根元圭は改暦には西洋天文書の知識が必要であることを訴えたところ、禁書令が緩められ、享保11年より『暦算全書』が中根によって訓点をほどこす作業がはじめられました。

 このあとの話は、わかりません(^^;)
吉宗の改暦ってうまくいったんでしょうか?

 本題。梅文鼎には『筆算』という本があるそうです。

 漢数字には、億、万という位を示す数字があるため、「七万八千六十五に十一万二十一を掛けよ」という式があれば、そろばんをはじいて、結果を記入するという方式だったのでした。明代に西洋のアラビア数字による横書き筆算をみて、位を省いた漢数字による横書き筆算を考案した研究者もいたようですが、はやりませんでした。

 その後、梅文鼎は、この筆算を中国風にアレンジし、縦書きによる筆算を考案しました。

『中国の科学と日本』(朝日選書)からでした。

	総|  散
	数|  数
	 |
	二| 一
	三|三〇九
	三|五八九
	〇|〇八二

 こんな感じらしいです。
 これって、江戸時代の日本に輸入されたんでしょうか?

爵位制度の祖形

 『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(新曜社)によれば、

「1876(明治9)年12月には、木戸孝允の指示で「爵号取調書類」が法制局の桜井能監らによって起草された。その内容は公、伯、士の爵位を定めて華士族を再編し、特権と義務を付与するというものである。のちの華族令における五爵制の祖形として注目されるが、士爵として士族の貴族待遇を主張している点に特色がある。」p155

とあり、どうやら、"duke"は、『公爵』と訳すべきようです。

 当時の新聞に「華族諸公」という言葉が出ていることもポイントかなあ。『岩波セミナーブックス34 明治維新と天皇』(遠山茂樹)p209

あとは、公侯伯子男という字を選んだ理由が解ればなあ。

長篠三段撃ち伝説

『鉄砲と日本人』(洋泉社)によれば、長篠で織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田騎馬軍を破ったという伝説が生まれたのは、江戸時代の小瀬甫庵の通俗軍記物『信長記』がはじまりで、これに遠山信春の『織田軍記』も追随し、明治に入ってから陸軍参謀本部が発刊した『日本戦史・長篠役』に採用されたため決定的になったそうな。

さらに司馬遼太郎の『国盗り物語』や、海外的には黒沢明の『影武者』が伝説普及に努めていると筆を進めていて、説得力あるなあとおもうのですが、どうなんでしょう?小説には鉄砲三千丁で世界初の歌い文句が踊っているそうですが。

中世の新年

中世の時代、年は復活祭で変えたので、一四二九年一月十日とか書いてあったら、新暦で一四三〇年のこと。(ブルゴーニュ家p184)

新暦、旧暦の対応本が、あるはず。

司馬遷と史記

司馬遷が歴史家ではなく、そもそも『史記』という書物は存在しないと聞いたらどうおもいます?

司馬遷は、太史令という役職で、父、司馬談も太史令でした。太史令という役職は、中央の宗廟、礼儀を司る六つの部門の一つ太史の長官のことで、太史というところは、祭祀の次第を文書にまとめる部門でした。くわしく太史令の職務を述べれば、天文祭祀、新年の暦の上奏、慶弔の祭事の日取り、瑞兆・災異の記録などでした。

ここで『史記』についてですが、『史記』の内容をみると、秦・楚・漢が全体の76%を占めるという現代史であることが解ります。つまり通史の本ではないのです。では目的はなにか。それは漢王朝の正統化なのです。

漢という名前は劉邦が漢中に任ぜられたときから使いはじめたもので、項羽を倒して「漢帝国」を創ったのではなく、項羽を倒して漢をより大きくしたという意味でした。それくらい立場がもろいわけです。そして、国家の威信を高めるのに用いられたのが、上帝の命による易姓革命という思想でした。

漢のまえに、楚、秦、周、殷、夏、五帝と過去にさかのぼることができるように本紀は書かれており、これに従うと王朝の永続性と時間の流れの中での循環性が強調されることで正統性がますわけです。

ですから、『史記』の本当の名称である『太史公書』は、一年、皇帝一代、王朝を単位に書かれた先祖回顧のモニュメントなのです。文字で書いた兵馬俑といえば功臣たちが書かれる理由が解るでしょうか。そして『太史公書』は、司馬談、司馬遷、二代で百三十巻書かれたあと、正本の束である二万枚近くの竹簡を名山に埋め、副本を宮中に保管しました。つまり『太史公書』はひろく読まれるために書かれたものではなく、まさしく祭祀の一環だったわけです。

ところが、儒教がすべてを誤解させました。前六十年頃、おもてに出された副本の『太史公書』は、その内容の凄さから、その後の『漢書』に並べて『史記』と呼ばれ、太史令という役職も誤解して、太史公という歴史編纂官の虚像を司馬遷に与えました。そして経書の春秋とおなじ分類したことで孔子を目指した司馬遷という虚像が作られたわけです。

司馬遷の宮刑と『史記』は分けて考えた方がいいでしょうね。

レアルと処刑

飯田さんからのご質問へのお答え。

『それで1409/10/17 には処刑が述べられるのですが、”レアルにひかれた”とあります。レアルってなに?レアル(地名)でひかれたのでしょうか?それはともかく、その後首がはねられたそうです。このころはギロチンがないから斧できったんでしたっけ?

で、もとにもどるとこの処刑は十字架をもたされたのに車にひかれ、首をはねられるをされたのはなぜでしょう?十字架の処刑のほうが重罪だったのでしょうか? それともこちらのほうが重罪?』

では、日記の引用。

1409/10/17

そうして、その月、十月の十七日、木曜日、くだんの王家王番頭は、二輪の荷馬車にのせられ、官服をまとい、白と赤に染めわけられた毛皮裏地のコートを羽織り、同様の頭巾をつけて、片側赤、片側白の股引に、黄金の拍車、両手を前に縛られて、木の十字架をもたされ、荷車の上に高々と坐らされて、トランペット吹きふたりが先導し、こんな様子でレアルにひかれた。そこで首をはねられた。事が終わってのち、身体は刑場に運ばれ、下着姿で、股引と黄金の拍車はつけたまま、高く吊された。

レアルというのはイノサン墓地の隣の食肉類公設市場のことで、現在のフォーラムと呼ばれるショッピングモールのある場所に位置します。当時は業者が固まって営業していましたから、パリの住民がみんな集まる場所なわけです。

で、荷車に「ひかれて」は、「轢かれて」ではなく、「乗っけられて」の意味です。

十字架を持つのは、キリスト者として死んでいくための権利じゃないでしょうか。ジル・ド・レもきちんと懺悔をすましてから処刑されたようですし。

処刑は、斬首台の上に首をのっけて斬られました。ジェイン・グレイの処刑図が参考になるとおもいます。これは屋内ですが。

あ、フロワサール年代記中にも参考になるのがあります。クリッソンの処刑Sansでこっちは屋外。

あれ、首乗せ台が、ないなあ。どういうことなんだろう。

ブルゴーニュ侯おそれしらずのジャンが王家王番頭を処刑した理由は、ブルゴーニュ好きのパリ市民で。

中世に『公』が無く『個』しかないとは?

飯田さんからのご質問へのお答え。

『おおやけ』という言葉を広辞苑でひくと、使えそうな意味に「私有でないこと。公共」とあり、『公共』をひくと「おおやけ」とあり、広辞苑はやっぱり使えないなあと嘆息するのでした。

以前、ロベール・ダルトワの相続問題を調べたときの印象として、中世の相続権のあいまさが残ったわけですが、それでも土地の所有者を希求しようとする動きが必ずあるわけです。つまり土地はすべて私有財産であるということ。

『おおやけ』の意味を考えてみると、それは法人とか企業とか役所とかそんなイメージでいいのではないでしょうか。つまり無人格な存在に所有を認めているわけです。現代ならば、社長や市長の財布とその団体の金庫は別でしかるべきと考えますが、中世の国家財産と王の財布は同じでした。つまり国家財政ですら私有であったと。

中世において『おおやけ』が無いとはつまり無人格な存在を考えることができず、あらゆる事物に明確な所有者を決めようとする態度のことではないでしょうか。それは、中世には『個』いわゆる『私(わたくし)』しかなかったという結論に至るわけで。

『法人』をひいたら『自然人』の対語なのね。ここらへんの考えはいつ頃からのものなんだろう。古代ローマ法にあったら、この文章全体がナンセンスになるなあ。

何故"Duke"を『公』ではなく『侯』と訳すのか?

これは1997年5月頃に堀越先生にぶつけた質問。

西洋史辞典をはじめ、ブルゴーニュ公とかベドフォード公という表記を"Duke"に充てているのに対して、堀米庸三先生と堀越孝一先生は著書でブルゴーニュ侯、ベドフォード侯とお書きになる。なんで?と思ってリーダースをひけば当然の如く"Duke"は「君主」「公」「大公」と訳語を載せている。

さてはて弱った。日本の西欧史って実は訳語の統一って行われていないんですよ。人名なんかは、現地の発声を充てるっていう暗黙了解と訳語の直後に括弧書きでスペルを載せるからそれで辛うじて平衡感覚を保っているわけですが、それでも危ういですね。だってわたしなんか英語の発声だって駄目なのに、未習得なフランス語の人名をスペルから的確にカタカナにおこすなんてことは無理だし嘘。だから先達に従うことにしたのでした。

閑話休題。

表題の質問をぶつけた結果は箇条書きにしておきます。

中世には伯しかいないという言葉はよく理解していないんです。どういうことかな。"Duc"は大きな"Comte"に過ぎないという意味かな。

みなさんは百年戦争時代の"Duke"には「公」と「侯」どっちがいいとおもいます?


突っ込みお待ちしています