百年戦争年代記
第2章 第一次遠征
−勝利の方程式−



第2節 スロイス海戦


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フランス王に宣戦布告して、いざ決戦といきり立つエドワード3世を襲ったのは、義父エノー伯ギョームの突然の死去でした。エノー伯の資金援助で戦争をするつもりだったエドワード3世は、とるものもとりあえず王妃の冠さえも売り払って資金を捻出していました。

一方、十字軍延期で不要になったマルセイユのブルターニュに配備していたフィリップ6世はその艦隊にジェノヴァ人海賊を合わせて、イングランドの南海岸沿いのプリマス、サザンプトン、ポーツマス、ヘイスティングスを襲わせ、イングランド最大艦クリストファー号とエドワード号を捕獲して、フランドルのスロイスに撤収したのでした。

1338年7月、エドワード3世はフランドルに渡って、現地工作を展開し、イングランドとフランドルの往復の日々が続きました。この中で、王妃エノーのフィリッパは11月にアントワープで三男ライオネルを生みました。当時、王侯の名前は似通っているので、ライオネル・オブ・アントワープという様に出生地があだなのように付けられました。

一方、ガンの指導者、アルテフェルデはこれに呼応して、ついにフランドル伯をフランスに逃亡させ、フランドルのイングランドへの一致協力体制を整えました。

こうして1340年1月、エドワード3世はガンにおいて戴冠し、『フランス王』を称したのでした。エドワード3世は直ちに紋章を改訂し、これまでの金獅子に合わせて、フランス王の印である百合の紋章を配したのでした。こうして戦争はフランス王位を巡る戦いになったのです。

フランスの大艦隊の前に苦渋を嘗めてきたエドワード3世は、1340年6月22日、ついにドーヴァから手塩にかけて育てた艦隊147隻と共に出港すると、一路スロイスに向かいました。翌日、スロイス付近に到着して偵察すると、フランス海軍の数は190隻、兵員35000名と報告がありました。

数に優るフランス海軍に如何に立ち向かうか。ここで助けとなる情報がありました。それはフランスの船は港内でイングランド艦隊を向かえ討つ為に、鉄鎖で結ばれて、さながら巨大要塞のようになっているというものでした。これはつまり海戦の機動性を無視した陸の考えであり、城塞のように近づいてきて這い上がろうとする敵兵に上から石を落として撃退するという戦いを念頭に置いた作戦でした。

これに対して、イングランド王エドワード3世の考えは違いました。ウェールズとの戦いで学んだ優れた弓兵の圧倒的な力で、敵の正面を切り崩し、虚をついて本体が突入するというもので、この作戦でスコットランドを散々に破ったのでした。フランスにもそれが通用するのか。これがエドワード3世の賭けでした。

はたしてそれは成功しました。6月24日黎明に戦端は開け、イングランドの弓兵の前に甲板上で待機していたフランス兵は、なす術がありませんでした。後陣に待機していた兵たちもこのあまりの圧倒的不利に恐慌を来し、我先に陸へと脱出のボートを出したのでした。しかしこれに呼応する形で、陸側ではフランドルの民衆が待ち受け、結果、フランス側の死者は25000といわれる程の酷さでした。一方、イングランド側も4000の被害を出し、辛くも勝利を手にしたのです。

この勝利の余韻を駆ってフランスへとなだれ込むというのが常套かもしれませんが、エドワード3世はフランドル側の要請で、トゥールネーの攻略に取り掛かります。これは二ヶ月ほどでイングランド側の資金難となって解除され、1340年9月25日、エスプレシンの和が結ばれ、イングランドとフランスの第一ラウンドは終了します。この間、王妃フィリッパはガンで、四男ジョンを生み、彼はそこからジョン・オブ・ゴーントと呼ばれるようになります。



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『年代記』はフランス国立図書館より転載しています。