ジャン・フロワサール(1333-1410)



献呈41k
リチャード2世に自著を献呈するフロワサール

これまでフロワサール、フロワサールと連呼しながら、敢えて説明していなかったのですが、だんだんとネタも揃ってきたので、簡単にまとめておきたいと思います。

ジャン・フロワサールは1333年エノー伯領ヴァランシエンヌに生まれました。そこで教会聖職禄を得るべく聖職者の勉強をし、シメイ教会の参事会員となり、その後ブロワ伯の礼拝堂付司祭となって収入を得ます。こうした肩書きは収入目的のためで本人はその職の代行者を雇って本来の収入を得るのが普通でした。

エノーは年代記が盛んに書かれる土地で、フロワサールの先輩格でエノー伯ジャンのために年代記を書いたジャン・ル・ベルの仕事を引き継ごうと野心を燃やします。

1357年、パトロンのナミュール伯の依頼でポワティエの戦いなどの戦記ものを書いたことが「年代記」の発端のようです。

1361年、エドワード3世の妃になっていた同郷のフィリッパの招きでフロワサールはロンドンに渡り、フィリッパの秘書となります。そこで彼はエドワード3世のガーター騎士団の勇志たちに紹介され、その類希なる詩の才能でたちまち宮廷の人気を得ます。この知己を利用して彼はクレシーやポワティエ、ブルターニュの戦いでの証言を得るべく、生存者がいれば、その家に赴き、家族がいれば丹念に思い出話を語ってもらい、続々と情報を集めてきました。黒太子とボルドーに行ったり、スコットランド王の賓客になったり、クラレンツ侯の結婚のためにイタリアへ行ったりと戦いの中に彼の存在が常にありました。イタリアへの旅行ではチョーサーやボッカチオとも一緒で、さらにキプロス王にも会いました。

1369年ローマで、王妃フィリッパが亡くなったのを聞くとエノーに戻ります。そこで彼は草稿をまとめたりしていました。彼の生涯は自宅での資料分析、執筆と、海外でのインタヴューが全てでした。

1373年、リュクサンブール侯ウェンセラスの庇護を受け、その後も数々の司祭職や司教教会参事会員、礼拝堂付司祭の禄を提供され申し分のない資金を得ています。

1386年、フランドルでの騒乱が収まるとスペインでの戦争の話しを聞くためにフォア伯のオルツェスに向かいます。

1393年、再度イングランドに渡り、リチャード2世に謁見します。

1395年以降はエノー伯領シメイに隠棲し、年代記の改訂などを行いました。年代記事体はリチャード2世の死について簡潔に述べて終わり、フロワサールの消息も1404年ころから解らなくなり、1410年ころに亡くなったとされています。





まだまだみるぞ


『献呈』はフランス国立図書館より転載しています。