キエフ市(Kiev)

ウクライナ中北部の街。ドニエプル川中流右岸にあって、古代から交易拠点として栄えました。現在はウクライナ共和国の首都。モスクワの南西856キロメートル。人口263万人(1996年)。中世に建国された東スラヴ人を中心とした国家「キエフ公国」の中心的都市。ドニエプル川右岸にある小高い丘陵の上に作られ、ドニエプル水系の水上交通の要所であるとともに、北の森林地帯と南のステップ地帯の境目にある東西交易路の要所でもあります。
9世紀には東スラヴ人の部族連合ポリャーネ族の首邑として栄えていましたが、860年頃、リューリクの家臣であったと思われるヴァリャーグのアスコリドとジルがこの街を占領し、公として治めはじめました。それまで、もしくはアスコリドとジルの時代までは東の大国ハザール汗国に貢納していましたが、これ以降はその支配から脱したようです。
882年にはアスコリドとジルと同じく北ロシアから遠征してきたオレーグがこの街を征服し、以後南北ロシアを統一したキエフ公国の首都となります。このロシア・ウクライナ・ベラルーシに及んだ国家は、「ルーシ」とも呼ばれましたが、この街の名前を付けて「キエフ・ルーシ」とも呼ばれます。また、その後キエフ公国の発展の中心にあったこともあり、「ルーシの都市の母(ロシア諸都市の母)」と呼ばれています。
988年、ウラジーミル1世の治世にキリスト教が国教とされると、府主教座が設置され、キエフ公国のキリスト教文化の中心地として多くの教会が建設されるようになります。中でもヤロスラフ1世の時代に建設されたソフィア大聖堂は、長い間キエフ公国最大の教会でした。またキエフ公国最初の修道院、ペチェルスキー修道院もキエフ市の近くに建設されています。
11世紀までは繁栄を続け、1100年頃には人口が4万になるほどの大都市となっていましたが、分領制時代に入ると公一族の争いや交易の減少、騎馬民族ポロヴェツ族の度重なる侵入といった事が重なり、衰退がはじまりました。特に北東ルーシの発展とともに中心的役割を担うことはなくなりましたが、それでも最も権威ある街としての重要性は残っていました。
1169年にはウラジーミル=スーズダリ公のアンドレイ・ボゴリュプスキーは軍勢を派遣してキエフ市を占領させ、自らがキエフ大公位に即きます。これが実質的にはキエフ市の政治的終焉だと言う研究者もいるようですが、この時点ではまだキエフ市には占領し、キエフ大公になるだけの価値がある重要性が残っていたようです。12世紀末からはチェルニゴフ、スモレンスク、ガーリチ・ヴォルィニの諸公がキエフ大公位を巡って争い、ウラジーミル大公もそれに介入しています。
13世紀、モンゴル軍の遠征はこの地まで及び、1240年12月に包囲され、陥落・炎上し、街そのものがほとんど失われました。1246年にプラノ・カルピニがモンゴルまで行くための旅のはじめにこの街を通った時、この街には200戸ほどしか住民がいなかったと記録しています。
「そして、ロシアの首都キエフをかこみ、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キエフは、以前は非常に大きく人口稠密な町だったのですが、いまでは、ほとんど無に帰してしまいました。こう申しますのは、今日では、そこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民は全くの奴隷状態におちいっているからです。」(『中央アジア蒙古旅行記』P37「プラノーカルピンのジョン修道士の旅行記」より)
1300年にキエフ府主教座が、北東ルーシの街ウラジーミルへと移され、宗教的中心地としての役割も失い、14世紀になって隣国リトアニアが強大になると南西ルーシは次々と占領され、1320年にはリトアニア大公ゲディミンによってキエフ市も征服されました。
『ロシア原初年代記』にはキエフで渡し守をしていたキーに街の名前が由来すると書かれていますが、実際の名前の由来は不明。『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100にはハザール汗国の将軍クイ(クィ。クー)に由来すると断定的に書かれていますが、これは「キー」のことを言っているのだと思われます。
『ロシア原初年代記』によると、キエフ市の丘の北東側、ポチャイナ川と丘陵部の間にポドリエという下町がありました。

(参考文献・『コンサイス外国地名辞典』P241、『ロシアを知る事典』P161、『中央アジア蒙古旅行記』P37、『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100、『ロシア原初年代記』P61、578、)
(05/06/11作成、05/09/24追加、)