ボヘミア(Bohemia)

チェコ共和国の西部を指す名称。チェコ語では「チェヒ」、ドイツ語では「ベーメン」といいます。紀元前後に住んでいたケルト人のボイイ族の名前に語源を持ちます。ドイツ語の「ベーメン」は「Baiohaemum」、つまり「ボイイ人の故郷」の意。広義の「チェヒ」の内、チェスコモラバ高地(ボヘミア・モラビア高地)の中のモラビア地方を除いた西部を占める地域で、準平原と台地からなるボヘミア盆地を山々が取り巻くように囲んでいます。盆地の中央をブルタヴァ川(エルベ川)が南流し、支流が周辺の山地から集まっています。工業が発達し、鉄や良質の石炭を産出、交通の要所として交易も盛んでした。面積5万3000平方キロメートル。北西にエルツ山地、北東にズデーデン山地、南西のボヘミアの森、南東のモラビア高地があります。
現在の住民はスラヴ系のチェコ人(ボヘミア人)ですが、前4世紀に西南ドイツから移住してきたケルト人のボイイ族が住んでいましたが、前60年頃に北からやってきたゲルマン人に取って代わり、退去しなかった一部のボイイ族は前10年頃、ゲルマン人のマルコマンニ族に従属しました。ゲルマン人たちは民族移動期に立ち去りましたが、その空白地に6世紀ころまでにはスラヴ人の西スラヴ族が移住します。6世紀にはアヴァール族がやってきて、この地域も服属下におさめますが、フランク人の奴隷商人サモがスラヴ人などを糾合して「サモの国」を建設。9世紀にはモラヴィアを中心とした大モラヴィア国の領域に含まれましたが、マジャール族の到来で大モラヴィア国は滅亡し、ボヘミアは独自の道を歩み、9〜10世紀にチェコ人を中心とした国家を形成しました。ボヘミアはプラハに拠点を持つプシェミスル朝が支配しましたが、神聖ローマ皇帝の宗主権を認め、帝国の一部として発展しました。プシェミスル朝の初期にキリスト教を受容し、プラハには司教座も置かれました。しかし、15世紀にはヤン・フスの起こした宗教問題によってフス戦争の中心地となり、宗教的弾圧を受けることになります。中世にはモラヴィア辺境伯領・シュレジェン公領・ボヘミア王国領から構成されるチェコ地方の中心的地域となりました。ドイツ・オーストリアの影響を強く受け、歴史的にも状況を左右されましたが、独自の文化を形成しました。1618年からはじまった三十年戦争の初期をボヘミア戦争といい、その中心地となります。

(参考文献・『東欧を知る事典』P481、657、『コンサイス外国地名事典』P968、)
(05/11/20作成、)