ポロヴェツ族(ポロフツィ。ポロヴェツ人。ポロヴェッツ人。ポロベツ人。Polovetsy。Polovts。クマン族。クマン人。Kumans。Cuman。クン人。Kun。キプチャク)

チュルク語系のキプチャク人。ロシア名だと「ポロヴェツ」、年代記だと「ポロフツィ」。西ヨーロッパでは「クマン」。ハンガリーに入った集団は特に「クン」と呼ばれます。イスラム史料では「キプチャク」。10世紀頃までは北西カザフスタンに居住(ホラズム朝では彼らを受け入れていました)。11世紀にハザール汗国の政策との関係で黒海北岸地域にまで進出し、当時そこにいたペチェネーグ族を圧迫し、かわりに彼らが居住しはじめました。これは西ヨーロッパで「クマニア」と呼ばれます。さらにカフカス地方、ロシア、ハンガリー、ビザンツへも侵入。11世紀末にペチェネーグ族が黒海北岸地域から追い出されると、ロシアへの侵入が激化し、幾度も戦いになりました。
『ロシア原初年代記』には彼らは、キリスト教を信仰しない野蛮な民族として書かれています。
「ポロフツィは自分たちの父祖の掟を守っている。すなわち血を流し、これらの(殺した)ものたちを自慢し、屍肉やあらゆる不潔なもの、山鼠や地鼠を食べている。自分の義母、義姉妹をめとり、その他の自分たちの父祖の慣習を(行っている)」(『ロシア原初年代記』P15より抜粋。)
ポロヴェツ族が『ロシア原初年代記』においてはじめて実際に登場したのは、1055年、イジャスラフ1世の治世の初年においてで、イジャスラフ1世の弟フセヴォロド(のちのフセヴォロド1世)がボルシ公に率いられてやってきたポロヴェツ族と、和平を結んで引き帰らさせたとあります。また、1061年には、ポロヴェツ族がはじめて戦いのために侵入し、2月2日にフセヴォロド(のちのフセヴォロド1世)と戦いました。この戦いはイスカル公率いるポロヴェツ族が勝利し、勝利した彼らは立ち去ったとあります。また1068年のリト河畔の戦いなどでも敗北し、キエフ公国の諸侯は守勢を続けます。『イーゴリ軍記』の内容は、このポロヴェツ族との1185年の戦いについて書かれたもので、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリは戦いで敗北し、捕虜となりました。
ポロヴェツ族が領有した土地にはベッサラビア地方やドブロジャ地方、モルドヴァ(モルダビア)地方も含まれます。ドブロジャ地方の地名の由来は、クマン人の王朝「ドブロティチ(Dobrotici)」だという説もあります。
1220年代になると、モンゴル軍の西進がポロヴェツ族の居住地域にまで及び、戦いに破れて西方へと移動しました。ドナウ下流域北岸地帯やハンガリー平原に移動した彼らは、一部は17世紀まで民族性を保持していました。
ハンガリーに入った集団は、ハンガリー国王アンドラーシュ3世(位1290-1301年)に軍事力として期待され、許可を貰って国内の大平原に住むことになります。彼らは自治権を与えられたものの、元々いた住民たちとの間にいさかいが幾度も置きました。1227年にはエステルゴム司教が、クマニアのバルス公とその臣下に洗礼を与えています。ハンガリーにおける彼らの居住地域だった場所には、「キシュクンシャーグ(Kiskunsag)」や「ナジクンシャーグ(Nagykunsag)」などの地名が残っています。ルーマニア共和国の北部にあるモルドヴァ地方に住むチャーンゴー人は、ハンガリー語を話す集団ですが、長い間ハンガリー人の子孫だと考えられていたものの、謎が多く、20世紀初頭のムンカーチ・ベルナートはクマン人の末裔だと考えました。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P671、673、708、『東欧を知る事典』P106、328、460、535、『モルドヴァのチャーンゴー人』P5〜、『角川 世界史辞典』P236、)
(05/02/19作成、)