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ロシア国立図書館
この日は、奥野さんではなく高田さんに案内をしてもらうことになりました。かなりの剛の者として知られる高田さんも、奥野さん同様ロシア語堪能で、大変お世話になりました。
本日は昨日のクレムリン観光の時には見れなかったクレムリンの武器庫を見るため、まずはクレムリンの近くにある地下鉄のビブリオテカ・イーメニ・レニーナ駅で降ります。名前の通りかつては「レーニン図書館」があった場所で、現在図書館は「ロシア国立図書館」に改名してるみたいです。
世界最大クラスの図書館で、まるで神殿のような外観を持っています。目の前の銅像はドストエフスキーですが、高田さんが、これは座り方をおかしい、というので横に廻って見てみると、確かに可笑しい。拗ねた子供が不貞腐れてる、という感じにも見えます。
ドストエフスキーはモスクワ出身の作家。1821年に生まれ、サンクト・ペテルブルグの陸軍中央工兵学校で学び、工兵団製図局に勤めていましたが、作家になるため退役。1846年の『貧しい人たち』でデビューを飾り、その後『分身』(1846)や『白夜』(1848)などを書きました。1849年に逮捕され処刑寸前までいったものの、シベリアで懲役を受けました。これには兵役義務も付随した判決だったので、1854年の出獄後はセミパラチンスクで守備隊に配属。そこで結婚して兵役が終わった1859年にサンクト・ペテルブルグに戻りました。そして兄ミハイルとともに雑誌を発行し、『虐げられた人たち』(1861)や『夏の印象をめぐる冬の随想』(1863)などを発表。そして1866年に『罪と罰』を書き高い評価を受け、さらに1868年には『白痴』を1872年には『悪霊』を、1879年から1880年に『カラマーゾフの兄弟』を書いて名声を得ます。1881年1月28日に死去。モスクワ出身でしたが、その活動の拠点はサンクト・ペテルブルグでしたし、そのお墓もサンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー大修道院にあります。
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ボロヴィーツカヤ塔
図書館からクレムリンのチケット売り場に向かったのですが、この日はしょっぱなから予定外のことがありました。それは、はじめに入ろうとしたクレムリンの武器庫に入れなかったのです。
クレムリンにある武器庫は、ロマノフ王朝に伝わっていた金銀財宝や武具、衣装などを展示してある博物館となっているのですが、一定人数ごとに入場させ、時間通りに退館させるという方式で見学させています。ですから一日に入れる人数は決まっていて、その定員の多くを団体観光客が占めているのです。このことを踏まえて朝一番でチケット売り場まで行ったのですが、どうやらどこぞの旅行会社などに買い占められてしまったようで、売り切れでした。
写真は武器庫に入るための入口です。武器庫だけはボロヴィーツカヤ塔(1490年建築)から入らないといけないのです。
そこで、かわりに救世主キリスト聖堂へと向うことにしました。
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コメンダンツカヤ塔
武器庫に入るためのチケットは、クレムリンに入るためのチケットを買うのと同じく、クタフィヤ塔横のチケット売り場で買います。チケット売り場で武器庫のチケットが無いと知った我々は、アレクサンドロフスキー公園を南に進み、上の写真のボロヴィーツカヤ塔へと向かいました。この写真はその途中にあった、トロイツカヤ塔とボロヴィーツカヤ塔とのちょうど中間あたりにある、コメンダンツカヤ塔です。ここらへんの城壁は他と比べても高くそそり立っています。
嬉しいことにこの城壁のすぐ下まで近寄ることができます。2番目の写真は塔の真下から見上げたところ。こんなの普通じゃ登れません。攻撃側は大変だったことでしょう。
城壁の半ばくらいの高さに盛り上がったラインが見えますが、これが何のためにあるのかは不明。(城壁を高くしたときの名残?)
3番目の写真は城壁に近寄って塔を横から撮影したもので、あまり塔が出っ張っていないのが分かります。城壁に近寄ってきた敵兵に対する側面からの攻撃は、あまり重視されていなかったのかもしれません。
城壁から突き出ているのは雨どいですが、やけに突き出ています。真下に落ちた水が城壁周辺の土を削り、城壁の基部が露出してしまうのを防ぐためかもしれませんが、ほんとうはどうだか知りません。
実はこのコメンダンツカヤ塔とポロヴィーツカヤ塔との間にある、オルジェイナヤ塔も近寄ってみましたが、写真は撮影してありません。その時はビデオカメラでいろいろ撮影していました。その画像はまだまとめてないのです。オルジェイナヤ塔がある場所は、他の部分に比べて土地が高くなっていて、結構急な傾斜を登ると塔が建っているという感じになっています。塔の下はだれかが良く使う休憩場所になっているのか、やけにタバコの吸い殻が落ちていて汚かったです。
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ヴォドヴズヴォドナヤ塔
クレムリンの城壁の南西の角にある円筒形の塔です。塔の名前の意味は「水くみ」。つまりこの塔の近くに水くみ場があったのでしょう。もしかしたら、この塔から直接水が汲めたのかもしれません。すぐ下(この写真では右側を奥に向かっている道。その右側にはモスクワ川があります)をクレムリン河岸通りが通っています。これは救世主聖堂に向う途中で振り返り、塔を南西側から撮影したもの。下の車と比べると、巨大さがわかります。
ちなみに撮影してる場所のすぐ背後には、ボリシャヤ・カーメンヌィ橋があり、河岸通りは橋の下を通っています。クレムリン河岸通りはここまでで、ここから南の河岸はプレチースチェンスカヤ河岸通りとなります。モスクワの街の道路は、一定の区間だけを「〜通り」と名付けていて、歩いている道の名前がコロコロ変わります。
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クレムリンを南西側から遠望
プレチースチェンスカヤ河岸通りを救世主キリスト聖堂へ向かう途中、クレムリン側を振り返って撮影したもの。大クレムリン宮殿が良く見えます。手前の塔は右がヴォドヴズヴォドナヤ塔で、左がボロヴィーツカヤ塔。ヴォドヴズヴォドナヤ塔に重なるようにして見えるのがイヴァン大帝の鐘楼。その右側に見えるのはアルハンゲリスキー教会。
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モスクワ川側から見た救世主キリスト聖堂
救世主聖堂をモスクワ川側(プレチースチェンスカヤ河岸通りの歩道)から眺めると、このように見えます。聖堂が積み上げた基礎の上に建っているのが良く分かります。それにしても、絵になる聖堂です。大きさも圧倒的で、実際に見たら驚きます。
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救世主キリスト聖堂
救世主キリスト聖堂は、1839年にニコライ1世の命によって建設され、革命後に破壊されたものを、1999年にもとあった場所に再建しました。この聖堂はクレムリンから南西方向に少し歩いたモスクワ川沿いに建っているのですが、近づいてみて驚くのは、その巨大さでしょう。クレムリンにあった各種の教会と比べても、明らかに大きいです。白い外壁に金色のドームを持つ聖堂の高さは103.5メートルで、建設当時はモスクワで最も高い建造物でした。外壁には各所にレリーフや銅像が取り付けられ、四方には鐘楼がついています。内部も当時を再現したようで高い天井が作り出す広い空間は一面壮麗な絵画やレリーフ、そして数々のイコンによって飾られています。昨日のクレムリン内部で見た教会と比べ、「近代的」な建築物だという印象がありました。ちなみに、ここには列聖されたニコライ2世とその家族を描いたイコンがあります(ニコライ2世一家の遺骨はサンクト・ペテルブルグのペトロパヴロフスク要塞の中の歴代皇帝の棺とともに安置されています)。この教会は内部の撮影は禁止でしたので、写真がありません。
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巨大な扉と2人の像
巨大な聖堂に相応しい、巨大な扉がついています。これは右側の扉です。
扉の上には扉に腰掛けるかのように、二人の銅像が取り付けられていますが、右がコンスタンティヌス1世で左が彼の母后ヘレナです。
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ロシア史の重要な一場面のレリーフ
聖堂の街壁はこのような群像を描いたレリーフ(これをレリーフというのかどうかは不明)が多く取り付けられていて、この写真のように歴史的場面などを表現しています。
上の写真のものは、クリコヴォの戦いに赴く前のドミトリー・ドンスコイがセルギー・ラドネシスキーによって祝福されている場面です。
下の群像は祝福を受けるポジャルスキーとミーニン。祝福してる人もディオニシーとかそんな名前の有名な人のはず。
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聖堂地下
この救世主聖堂は地下に行くことが出来るのですが、実は地下にも教会があります。しかも、地下にあるものは地上にあるものとは別物という扱いになっているそうです。こうした構造の教会は他にもあるみたいですが、ちゃんと確認できたのはここだけです。ちょうど地下の中央に教会があり、それを取り巻くようになっている回廊状の部分は博物館になっています。ここで展示しているのは救世主聖堂を建設するときの様子や、それに関するものです。この中で凄くインパクトがあったのが、ソ連時代に建設しようとしていた「ソヴィエト大宮殿」の完成予想図です。ソヴィエト大宮殿とは、救世主聖堂を破壊した跡地に建設しようとしていた建造物で、いくつかの案があったようですが、その中でも飛び抜けてたのは、レーニンの巨大な像が建っているものでした。レーニン像、巨大過ぎ。
あと、自分が行った時はちょうどモスクワ大主教アレクシー2世の写真展をやっていました。子供時代のもの、セルギエフ・パッサードにいた頃のもの、やはり同じく聖職者であった父親の写真などもあって面白かったです。アレクシー2世が函館の墓地に行った時の写真とかもありました。
写真は大聖堂の基部をプレチースチェンスカヤ河岸通りから撮ったもので、地下にある教会から通じる扉が見えます。
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聖母のイコン教会(?)
救世主キリスト聖堂の南西側にある木造の教会。ロシアに来てからはじめて見た木造教会。プレチースチェンスカヤ河岸通りから救世主聖堂に行くとき、入口側にまわる階段に向かう途中、この教会の前を通りました。聖堂のお土産屋で買ったパンフレットには、「Церковь иконы Божией Матери "Державная"」と書いてあったのを、「聖母のイコン教会」と訳してみました。あってるかどうかは不明。「神の母のイコン教会」のほうがいいかも。「Державная(ジェルジェーブヤナ?)」がどういう意味かは不明。この教会の近くには屋根のついた木製の十字架が立っていましたが、写真は撮っていません。
このとき、教会にはやってるという看板がありましたが、実際には入れませんでした。
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中央電信電話局
救世主聖堂を出ると、今度は地下鉄で中央電信電話局へ。中央電信電話局には国際電話をかけれるものも含め、たくさんの電話機がおいてあり、有料で電話がかけられる他、郵送物を送ることが出来る窓口があります。同じ建物内には薬局があったりします。実は、成田国際空港から知人へ郵便物を送ろうと思って、その封筒を持ってきていたんですが、空港で送るのをすっかり忘れてて、そのままロシアまで持ってきてしまいました。それをロシアから送ってみよう、ということで、高田さんに電信電話局まで連れてってもらいました。
真ん中の写真は、中央電信電話局のシンボルとも言える地球儀。しっかり稲穂と鎌とハンマーで囲まれてます。
到着すると受付カウンターが全て閉じていました。丁度、お昼休みだったようです。どうやらこうした公共機関でも、職員全員が同時にお昼休みをとるらしいのですが、時間には結構ルーズらしく、1時ちょうどになったら再開するはずが、時間になってもすぐに再開されませんでした。少し待たされたので、文句を言う客もいました。
郵送の手続きはみんな高田さんにやってもらいました。一番下の写真は電話局内部ですが、入ってすぐのところから撮影しました。一番奥が郵送の受付。しかし、切手を買う場所は別になっていて、左側の奥の方の受付で買えます。
右側に見えるブースは電話ボックスですが、これは国内用らしいです。海外にかけたい場合は、ここを出てすぐ右側にそうした部屋があります。よく憶えていませんが、先に受付でお金を払い、かかける先を告げてから、カードを受け取ってそれでかけるというシステムだったような気がします。
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くぐれるビル
モスクワで何度も見かけたのが、こうした真ん中に通路が通っている建物です。くぐると私有地になっている場合もあれば、普通に道路になってる場合もあります。
中央電信電話局に行く途中で見かけたこれは、かなり大きくて3階部分までがゲートになっています。
この建物は『ロシア建築案内』(TOTO出版)にも簡単な説明が出ていて(P131)、「商店併設集合住宅」となっています。1937〜1940年にA・モルドヴィーノフという人が設計したようです。
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不思議なボックス
電信電話局は、トヴェルスカヤ通りというクレムリン方向から北北西方向へと伸びる道の西側にあります。地下道を使ってこの通りを東側へと渡って、次の目的地へと向おうとした時、交差点の角に変なものを見つけました。まるで電話ボックスのようなガラス張りのブースです。中には制服のおじさんが一人。はじめは何のためにこれがあるのか分かりませんでしたが、なんと信号機を操るためのものでした。このトヴェルスカヤ通りはクレムリンから出てくる政府高官が通るため、車がスムーズに通過できるように、信号機を操ることが出来るようにしてあるのです。そのため、朝方など10分くらい信号が変わらない、ということもあるようです。
この制服のおっさんがどこの組織の人かはよくわかりませんが、たぶん警察。
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チェーホフ像
中央電信電話局の次は、ボリショイ劇場に向うことにしました。電話局の前の十字路を北東方向に進む道は、カメルゲルスキー横丁と呼ばれる通りで、これを進むと左側にチェーホフ記念モスクワ芸術座(チェーホフ名称モスクワ芸術座)があります。その道の反対側にはチェーホフ像が立っています。アントン・パヴロヴィチ・チェーホフはロシアの作家・作曲家です。1860年にアゾフ海沿岸の町で生まれ、モスクワ大学医学部に在籍中から文筆をはじめ、その後保守的な新聞『新時代』に寄稿するようになります。1887年の戯曲『イワーノフ』で有名になり、さらに『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』という名作を生み出し、近代劇に多大な影響を与えました。晩年は結核によって体を壊し、最期は療養先の南ドイツのバーデンヴァイラーにて死去。
モスクワ芸術座(国立モスクワ芸術アカデミー劇場)は1989年に新館と旧館の名称を変更し、新館を「ゴーリキー名称」、旧館を「チェーホフ名称」としました。ですから、ここにあるのは旧館の方です。
写真の左奥に少しだけ見えるのがたぶん芸術座です。
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レーニンの演説記念
カメルゲルスキー横丁を出て右に曲がり、すぐに左に曲がると、「Копьевскии Переулок」という通りに入れますが、その入ってすぐ左側の壁には、このようなレーニンの顔がついた石板があります。昔、レーニンがここで演説しました、ということを記念した記念碑だそうです。
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ボリショイ劇場
さきほどの通りを進むとボリショイ劇場の西側の壁に突き当たりました。外壁が結構ボロボロで、修復をきっちりしてないみたいでした。
それはともかく、ボリショイ劇場の正面に廻ってみました。ボリショイ劇場はテアトラリナヤ広場(劇場広場)という広場に面していて、他にもロシア青年劇場とマールィ劇場が面しています。ボリショイ劇場の建設は1776年で、火災によって失われたあと、1824年に再建されました。まるでギリシャやローマの神殿のような外観を持ち、屋根の上には四頭立て馬車の銅像がついています。ここは内部を普通に見学することは出来ないので、もしも見たい場合は観劇するしかないようです。
ロシアの各地で見かけましたが、野外に設置する公衆トイレが景観を台なしにしてくれています。社会主義時代には公衆トイレとかどうしてたんでしょうね。
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マルクス像
テアトラリナヤ広場の道を挟んだ反対側の広場(確か、革命広場とかいう名前)には、マルクスの像があります。目の前の道路には横断歩道は無く、テアトラリナヤ広場から向こう側には遠回りするか、地下道を通らないと行けないので、行ってみるのはやめました。遠くからでは良く分かりませんでしたが、石で出来てるみたいです。
ちなみにこの広場の前の通りは、写真の右側からがアホートヌィリャド通り、左側からがテアトリヌイ通り。
このあと、すぐ近くにある地下鉄駅のテアトリヌイ駅から地下鉄2号線でトレチャコフ美術館へと向かいます。
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低い信号機
テアトラリナヤ駅から南に一駅行ったノヴォクズネーツカヤ駅で降り、トレチャコフ美術館へと向います。この写真はその時みかけた信号機。記憶が正しければ、これはトレチャコフツカヤ駅の前、ボリシャヤ・オルディンカヤ通りにかかる横断歩道か、もしくはノヴォクズネーツカヤ通りにかかる横断歩道。
こんな感じのやけに低い信号機は何度か見ました。信号機の位置が低い意味がよくわかりません。これを見ても分かる通り、人が前に立つと隠れてしまうくらいです。
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ビルの谷間
トレチャコフ美術館へと向う途中にあった通りで、今地図を見直しても、どこだったかよく分かりません。向う側に見える木がある所は公園になってたはず。その公園を抜けて右に曲がるとトレチャコフ美術館だったと思います。ここらへんの記述はほとんどあってない可能性有り。
こうした両側に建物が高くそびえてるというシチュエーションは好きです。日本だと消防法とかでもう建てられない建て方。
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トレチャコフ美術館
トレチャコフ美術館は、19世紀の資産家トレチャコフ家のパーヴェルとセルゲイの兄弟が収集したコレクションを主体に、ロシアにおける最高レベルの美術品が数多く所蔵されています。美術館は、白と赤を基調にして華麗な装飾を持つ2階建ての建物ですが、建物に入ると、まず地下に降り、そこにある受付で荷物を預けたりチケットを買ったりします。お土産屋もここにあります。地下から1階へと上がると、ロマノフ家のメンバーやさまざまな貴族たち、芸術家や軍人などを描いた多くの肖像画が並んでいます。さらに2階へと上がると、聖書を題材にしたものやロシアやイタリアの風景を描いたものなどが並び、そしてここには自分がどうしても見たかった絵が飾ってありました。V・ヴァスネツォフの絵です。イヴァン雷帝の立ち姿、昔話に出てくる3人の勇者たち、ポロヴェツ族との戦いで倒れた戦士たち。こうした絵画がなんと同じ部屋に飾ってありました。もう鼻血出そうなくらい感動。狼に乗ったイヴァン王子の絵もここにあったりして、大興奮。いやー、眼福眼福。
と、ここの次の部屋まで見たところで閉館時間となり、残念ながら途中までしかみれませんでした。尋常ならざる数の絵画をみんなじっくり見て回ったので、見れたのは全体の半分ちょっとです。入ってからだいたい3時間くらいでした。これにつき合って一緒に見て回ってくれて、しかも絵の解説までしてくれた高田さんには感謝してもしたりないです。
内部の写真は撮影禁止なので、外観のみですが。2番目の写真は外壁に何か文字が書いてあるのを見つけたので。3番目は正面に飾ってある聖ゲオルギーの騎馬像レリーフ。4番目はパーヴェル・トレチャコフの銅像。
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