この発言が宦官の弊害が最高点に達した東漢末期であることを考えると、少し不思議な感じがします。これは、宦官というものと対極的な位置にある独裁専制君主というものを考えてみるとわかるかもしれません。権力の最高点にある君主という存在は、非常に孤独な存在なのです。常に自分の位を狙う者を疑心暗鬼の目で見なければならず、このために自分の兄弟や子供でも完全には信用出来ません。また有能な家臣はつねに強力な反逆者の卵であることから油断はなりませんし、外戚も過去の例からわかる通り、常にコントロールしなければなりません。この様に一般的な家庭と比較すると非常に非人間的な環境におかれた皇帝にとって、心を許せるのは常に身の回りにいる「人であって人でない者=宦官」しかなかったのです。故に時に弊害をもたらすとわかっていても宦官制度を廃止出来なかったのではないかと考えられます。
また、明朝では独裁制を確立する為に、漢・唐にみられた宰相政治を廃止しました。(宰相とは国政全般を総理して天子を助ける官の一般的な呼称で、漢では正式には「大尉・司徒・司空」の三公、唐では「同中書門下平章事」を指します。)さらに宰相政治の廃止と共に、民制と軍制とを区別し、さらに行政事務ならびに官吏の服務状態を監察する監察官制を敷いて三権分立を確立し、この三系統を皇帝に直結させます。この様な独裁制度ではすべての上奏文に対する決裁を皇帝自身が行うため、その労力は大変なものとなり、内廷に持ち込まれれば当然整理をしなければならなくなります。名君といわれる五代目の宣宗(宣徳帝)でさえ膨大な上奏文に対処するため、有能な秘書官が必要となりました。そこで宣帝は宦官学校の「内書堂」を作り、そこの出身者を秘書官として採用しました。この様に、制度上必要な場合も存在しました。(但し、この内書堂を設立した事が後になって宦官の弊害の元となってしまいます。)