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001.李多祚  人名。唐の人。その先祖は靺鞨の酋長。驍勇で射術に長けていた。高宗の時、官は羽林大将軍。張柬之に従って張易之・昌宗兄弟を討ち、中宗が復位すると遼陽郡王に封じられた。節愍太子(李重俊:中宗の子)に従って武三思を討とうとし、逆にその部下の為に殺された。

 


002.太平公主  人名。?〜713。唐の高宗と武則天との間の娘。身体が大きくて額が広く、機略に富んでいた。武則天は自分に似ているとして頗る寵愛した。始め薛紹に嫁ぎ、次に武承嗣、さらに武攸キ(共に武則天の甥)に嫁いだ。神龍元年(705)に張易之兄弟を誅殺するのに関わり、鎮国を加号され五千戸に封じられ、勢力を増すようになった。唐隆元年(710)、李隆基(玄宗)と共に韋后と安楽公主を誅殺して睿宗を擁立すると、その勢力は益々強まり、時の宰相7人の内5人を一門の中から輩出し、三人の子は全て王となり、その党派は禁兵を掌握し朝政を左右するようになった。後、玄宗が即位すると政変を謀るが事前に漏れて死を賜った。

 


003.則天武后(武則天)  人名。624〜705。唐の并州文水(山西省文水東)の人。高宗の皇后、武周皇帝。智恵と美貌に恵まれており14才で太宗の才人となった。太宗の没後、尼となっていたが、皇后王氏と粛淑妃との寵愛争いに対抗馬として登場し、頭角を現した。策謀によって王皇后を廃すると、自らの高宗皇后冊立に反対する長孫無忌らを、反関隴集団や非門閥の官僚らを糾合することによって除き、ついに皇后となった。高宗が崩じ、中宗が即位すると皇太后となり完全に朝廷を掌握した。まもなく中宗を廃して睿宗を立て、さらに専権の度合いを深めた。また、来俊臣や索元礼など酷吏を多く登用し、「密告の門」を開いて反対派を弾圧し、唐の宗室や旧臣ら数百人を殺して唐室を壊滅させた。天授元年(690)、武周革命を成功させて自ら聖神皇帝と称した。その治世は、「牝鶏司晨」として新・旧唐書や資治通鑑には酷評されているが、人材登用面や崩壊しつつあった律令制の維持した事、農民叛乱の起こった記録がないことなど、評価するべき面も多い。晩年になり病が重くなると、張柬之らが政変を起こし、中宗を擁立して復位させた。臨終の時の遺命により帝号を除き、高宗の墓陵である乾陵に合葬された。謚を則天大聖皇后とした。


004.玄宗(李隆基)  人名。唐の第6代皇帝。685〜762。在位712〜756。睿宗の第3子。唐明皇とも称す。始め楚王に封ぜられたが後に臨シ王に改封された。性格・風貌共に優れ、また音楽・書に通じていた。太平公主と共に韋后を誅殺して睿宗を復位させた。その功により皇太子となり、先天元年(712)に譲られて即位した。即位の翌年に太平公主とその党派を誅して全権を掌握し、年号を開元とした。在位の始めは姚崇、宋m、張九齢などを宰相に任用して官制改革、倹約令、検田括戸など革新に努めた。また外征を抑えて内政の安定に努めたので社会は安定し、経済、文化も発展した。しかし、張九齢を罷免し、李林甫を宰相に任じた頃から政治に倦むようになった。この頃、楊貴妃に溺れた事は白楽天の「長恨歌」などで有名である。李林甫亡き後に玄宗の寵信をめぐり、楊国忠と安禄山が争い「安史の乱」を引き起こすと、唐朝は急速に崩壊に向かった。乱を避けて蜀に向かう途中で退位し、太子の粛宗が霊武で即位した。翌年、長安に戻るが、興慶宮に幽閉状態にされ、失意の内に世を去った。泰陵(陜西省蒲城東北)に葬られ、謚を至道大聖大明孝とされた。


005.宇文融  人名。京兆万年(今の陜西省西安)の人。門閥貴族の出身。玄宗の時に、逃戸の検括(調査)を行って80万戸とそれに相当する田畑を得た。この功により戸部侍郎となったが、朝野には不満と怨嗟が渦巻いたという。中書令の張説らと熾烈な朋党争いを行い、魏州刺史に貶された。再び戸部侍郎に任命されたがわずか100日で失脚し、最後には岩州に流される途中で卒した。

 


006.李林甫  人名。?〜752。高祖の従弟の長平王李叔良の曾孫。小字は哥奴。御史中丞となると、玄宗の寵妃である武恵妃や高力士と結んだ。開元22年(743)には礼部尚書、同中書門下三品となった。玄宗の皇太子問題に絡んで宰相の張九齢と対立し失脚させた。宰相の位にあること19年に及び、政治手腕もなかなかあった人物だが、「口に密あり、腹に剣あり」と酷評されるような人物でもあった。自分の権力を維持するため、異民族出身者を重用したことが、後に安史の乱を引き起こす遠因となった。

 


007.楊国忠  人名。?〜756。楊貴妃の兄。本名はサ。少年の頃から賭博や酒に溺れて、一族からも見放されていた。楊貴妃が寵愛を得ると、金吾衛兵曹参軍から監察御史、御史中丞へ進み国忠の名を下賜された。李林甫と結んで権力を増加させ、李林甫の死後は代わって右相兼吏部尚書となり、自己の権力を固めるために安禄山と対立した。天宝14年(755)に安禄山が楊国忠を討つことを大義名分に兵を挙げると、玄宗に従って蜀へ逃げたが、馬嵬駅で随行の兵士に殺された。

 


008.安禄山  人名。703〜757。営州柳城の胡人。本姓は康、幼名を軋犖山。幼いときに母が安延偃と再婚した時に名を安禄山と改めた。驍勇であることから幽州節度使の張守珪の養子となり、功績により営州都督、平廬軍使となった。視察に来る朝官に厚く賄賂を贈り、玄宗の寵信を得るようになった。天宝の初め、平廬・范陽節度使、河北采訪使となった。後に宰相の李林甫と結び、天宝10年(751)には河東節度使を加えられ、総兵力18万を擁するようになった。李林甫の死後に宰相の楊国忠と対立しついに11月に兵を挙げた。一度は洛陽、長安を陥落させたが唐軍の反撃に合い、膠着状態が続く中、子の安慶緒に殺された。


009.高仙芝  人名。?〜756。高麗の人。騎射に長ず。20余歳の時に父に従って安西(今の新疆庫車)に遷り、開元の末に官は安西副都護、四鎮都知兵馬使となる。天宝6年(747)、吐蕃の勢力下にあった小勃律を平らげ、西域諸国に威を轟かせた。その功により四鎮節度使に抜擢された。9年に石国(タシケント)を攻め、その王を捕らえて京師に連行し、石国の財宝を略奪したので西域諸国の不満は高まった。翌年(751)、怛邏斯城の戦いで大食(イスラム帝国アッバース朝)に敗れた。この戦い(タラスの戦い)で、唐兵の捕虜の中に造紙職人が居たため、製紙技術が西方に伝達したのは有名。14年に安禄山が反すると、天下兵馬副元帥を拝して安禄山を討つが、封常清の敗戦を聞き、潼関に拠って長安を守ろうとした。しかし、監軍の辺令誠に、誣告されて軍中で斬られた。


010.粛宗(李亨)  人名。唐の第7代皇帝。711〜762 在位756〜762。唐の7代皇帝。玄宗の第三子である。安史の乱に際して玄宗に従い蜀に向かう途中、別れて霊武に向かい即位した。ウイグルや西域諸国の兵を借りて長安・洛陽を回復したが、張皇后や李輔国の権勢を抑えきれず、両勢力の抗争の最中に病死した。

 


011.代宗(李予)  人名。唐の第8代皇帝。726〜779。在位762〜779。唐の8代皇帝。粛宗の長子である。安禄山の叛乱に際し、天下兵馬元帥となり長安・洛陽の回復などの軍功を挙げた。即位すると、権勢を誇る李輔国の勢力を奪うべく、対抗馬として程元振を重用し、李輔国を除くことには成功したものの、程元振、魚朝恩らの跋扈を許すこととなった。

 


012.陳玄礼  人名。景龍4年(710)に韋后を除くのに功があった。玄宗の時、龍武大将軍となり、宮禁に宿衛する。天宝4年(755)安禄山が挙兵すると、玄宗に従い蜀に入る途中、楊国忠を馬嵬駅で斬り、楊貴妃に死を賜ることを請う。蜀から戻ると蔡国公に封じられた。上元元年(760)、李輔国の離間策によって玄宗が興慶宮に遷ると辞職した。

 


013.張皇后  人名。天宝年間(742〜756)太子宮に入った。安史の乱の時、太子李亨(後の粛宗)とともに玄宗に従って蜀に逃亡する途中、李亨に従って霊武に赴き、霊武で子を産んだ。粛宗の即位後に淑妃となり、後に皇后に立てられたが、以降李輔国と主に政治に干渉し、権力をふるった。726年に粛宗が病気になると、越王系を太子李豫の代わりに立てようと画策したが、李輔国らに見破られた。張皇后は粛宗の死後に、軟禁され殺された。

 


014.來瑱  人名。曜の子。安禄山の叛乱時に潁州を守り、その功により潁国公に封じられた。官は各地の節度使となり、代宗の時、同中書門下平章事となる。後、程元振の誹りにより播州の尉に貶められて死を賜った。

 

 


015.裴[艸戎]  人名。蔭によって(父祖の遺勲または門閥の余栄によって、特殊の待遇をうけて官を得ること)京兆司録参軍を拝命し、來瑱が陜州で節度使となるとその判官となり、襄州に移り、また行軍司馬となる。來瑱が謀反を企てていることを知ると、朝廷に密告して襄州刺史となり、代宗の命を受けて來瑱を討とうとするが、逆に捕らえられて費州に流されて死を賜った。

 

 


016.裴冕  人名。河東の人。字は章甫。
蔭によって渭南尉になり、殿中侍御使となる。玄宗が入蜀すると御史中丞となり、粛宗に従って霊武に至り、尚書右僕射に昇進する。両京回復の時に冀国公に封じられた。後に罪を得て施州刺史に左遷される。代宗の時、復帰して左僕射、同中書門下平章事を授けられた。

 


017.郭子儀  人名。697〜781。唐の華州鄭県(陜西省華州)の人。字は子儀。謚は忠武。天徳軍使、九原太守、朔方節度使に累遷する。粛宗の時、安史の乱を平らげて功を挙げ、汾陽王に封ぜられる。永泰の初め、僕固懐恩の率いる吐蕃・回[糸乞]の軍を破り、徳宗より尚父の号を賜る。大尉・中書令に進み、身を以て天下の安危を繋ぐこと20年。中書令考二十四を校す。

 


018.李光弼  人名。708〜764。唐の営州柳城(遼寧省朝陽)の人。謚は武穆。厳毅沈果にして大略あり、騎射を善くす。粛宗の時、節度使に拝せられ、安史の乱を平らげて中興の戦功第一となる。郭子儀と名を斉しくし、世に李郭と称せられる。郭子儀に代わって朔方に鎮し、天下兵馬都元帥に至る。封は臨淮郡王。

 


019.安慶緒  人名。?〜759。唐の営州柳城(遼寧省朝陽)の人。初名は仁執。玄宗により名を慶緒と賜る。安禄山の次子。騎射を善くし、年20に未たずして鴻臚卿、広陽太守に任じられる。天宝14年(755)、安禄山が起兵し唐に反すると、都知兵馬使として軍を率いて南下した。安禄山が帝を称すると、晉王に封じられた。しかし、安禄山が安慶恩を寵愛するのを見て不安になり、至徳2年(757)に安禄山を殺して自立して年号を載初とした。翌年、唐将郭子儀ら九節度使に包囲され、史思明により救われるが結局史思明によって殺された。

 


020.徳宗(李[シンニョウ+舌])  人名。唐の第9代皇帝。742〜805。在位779〜805。代宗の長子。少年期に安史の乱が起き、代宗が即位すると天下兵馬元帥となって史朝義を討ち、河北平定に功があった。764年に皇太子となり英明の評判が高かった。779年に代宗が崩じると即位し、楊炎を宰相に任じて財政の全面的建て直しを図り、旧来の均田・租庸調制を廃して「両税法」を施行したことはつとに有名。また、節度使に対して強硬策を採ったが却って叛乱がうち続き、「原の乱」が起こると奉天に逃れた。「己を罪する詔」を下してどうにか一時の安定を得るものの、藩鎮の勢力は依然として残った。


021.朱沘  人名。742〜784。幽州昌平(北京昌平西南)の人。始め幽州廬龍節度使李懐仙の武将となった。朱希彩が李懐仙と代わると信任を受け、大歴7年(772)に李希彩が部下によって殺されると、周りの推薦を受けて節度留後となった。翌年、代宗はやむなく節度使継承を許した。9年、入朝して恭順の意を示し多くの褒賞を得た。12年には李抱玉に代わって隴右節度使となった。建中2年(781)に州の叛将劉文喜を討ち、太尉と中書令を加えられ、風翔節度使となった。翌年、弟の朱滔が叛乱を起こすと軟禁された。4年10月、原の兵変がおこり徳宗が奉天に逃げ出すと、乱兵らは朱[シ比]を擁立して天子の位につかせた。朱[シ比]は長安に拠して「大秦皇帝」を自称し、さらに国号を「漢」とした。後に李晟らの軍に長安を破られ、寧州彭原(甘粛省鎮原東)に逃れたが、部下によって殺された。

 


023.李晟  人名。727〜793。[シ兆]州臨潭(甘粛省)の人。字は良器。才略あり騎射を善くす。18才の時に河西節度使の王忠嗣の軍に投じ、隴・蜀の地で吐蕃、党項を幾度と無く破り戦功をあげ「万人に敵す」と称された。建中の始め、神策軍を率いて険南で吐蕃を破った。二年(781)には軍を率いて河北の田悦、朱滔、王武俊ら叛鎮を討った。四年、朱[シ比]が長安にて叛乱を起こし徳宗が奉天に出奔すると、軍を率いて救援に赴き、朱懐光と力を合わせて敵を破ったが、翌年に朱懐光との対立により徳宗は梁州(陜西省漢中)に奔った。李晟は部下と甘苦を共にし、将士を励まし自ら先頭に立って戦い、遂に長安を回復した。長安に入城したとき、軍紀は厳格で士庶は感泣してこれを迎えたという。この功により司徒兼中書令に任じられた。徳宗が帰京すると東渭橋に功を記した碑を立て、鳳翔、隴右節度使に任じ吐蕃に備えさせた。しかし、その功績の大きさを忌避され、貞元三年(787)に兵権を奪われて太尉に遷った。常日頃から魏徽の諫言を慕っていたため、朝廷の議事には必ず極言した。諡は忠武。


024.渾[王咸]  人名。本名は日進。諡は忠武。年11にして騎射を善くし、従軍して賀魯部を破り、勇三軍に冠たり。後、李光弼に従って河北を定め、又、郭子儀に従って両京を回復して安慶緒を破り、度々吐蕃を破って功を挙げた。単于大都督に進む。徳宗が奉天に奔ると、都慮侯、京畿渭北節度使を授けられた。朱[シ比]の兵が城に迫るや、力戦してこれを退けた。検校尚書左僕射、同平章事に遷り、奉天行営副元帥を兼ねた。朱[シ比]の乱が平定されると、侍中を加えられて咸寧郡王に封じられた。春秋・漢書に通じ、天性忠勤。

 


025.順宗  人名。761〜806、在位805。徳宗の長子。第10代皇帝。780年太子となる。805年に即位するが、その前年から病気の為に言葉が通じなかった。即位後、王懐、王叔文らを任用して宦官の勢力を抑制しようとしたが、在位8ヶ月に満たずして、宦官の劉貞亮に退位を迫られ、太子の李純(憲宗)に位を譲った。自らは太上皇となったが、翌年に病死した。豊陵(陜西省冨平東)に葬られた。

 


026.王叔文  人名。753〜806。越州山陰(浙江省紹興)の人。頗る書に通じ、治道を談ずるのを好んだ。徳宗の時、東宮に仕え、常に太子(順宗)と政事や宮市の弊害を議論し、太子に重んじられるようになった。貞元21年(805)正月、順宗が即位すると翰林学士となり、判度使・塩鉄副使を兼ね、尚書戸部侍郎に転じた。柳宗元、劉禹錫らと結び、政治改革に努めた。宮市(宮中に開かれた市場。宦官が収賄を行う温床となった)を廃し、五坊小儿が民衆に害を与えるのを禁じ、地方の官員が進奉する事を止めさせた。これらは全て宦官が利益を得ることを禁ずるものであった。また、宦官が掌握している神策軍の兵権を奪うべく、范希朝を西北諸鎮行営兵馬使に任じたが、宦官の劉貞亮に阻まれた。8月に憲宗が即位すると、渝州司戸参軍に貶斥され、翌年殺された。


027.劉宗元  人名。773〜819。河東解県(山西省運城西南)の人。字は子厚。世間では劉河東と呼ばれる。貞元の進士で、校書郎、藍田尉、監察御史などの職に任じられた。貞元末に礼部員外郎に任じられ、王叔文や王懐の政治改革に参加し、宦官の専権と藩鎮の割拠に反対した。改革が失敗に帰すると、永州司馬に貶しめられ、後に柳州刺史に遷った。州刺史として政績をあげ、柳柳州と呼ばれた。元和14年に卒す。その文章は韓愈と名を斉しくし、韓柳と称せられる。唐宋八大家の一人。

 


028.范希朝  人名。?〜814。河中虞郷(山西省永斉東)の人。字は致君。建中の時、[分β]寧軍に従って別将となり、節度使の韓游壞に仕えた。徳宗が奉天に奔ると、城を守って功があり、御史中丞を加えられた。貞元4年(788)、振武節度使に遷り、良くその地を治め人心を得た。19年、入朝して検校右僕射、右金吾大将軍となった。21年、順宗が即位すると王叔文に命じられて、左神策、京西諸鎮行営節度使に任じられ、宦官の兵権を奪おうとしたが、果たせなかった。憲宗の時、朔方霊塩節度使となり、沙陀部族を招撫し甘州(甘粛省張液)に帰属させ、兵を用いて戦功を多く挙げた。元和4年(809)、河東節度使に遷り、太子太保となった後に辞任した。

 


029.憲宗  人名。778〜820。在位805〜820。順宗の長子。第11代皇帝。805年4月に皇太子に立てられ、同年8月、劉貞亮に擁立され、順宗より譲位されて即位した。順宗の朝政を尽く廃止し、王叔文、柳宗元ら8人を遠方の司馬へ貶斥した。憲宗は剛明果断な性格で、杜黄裳、皇甫[金專]らを登用し、律令の修正や科挙の整理、官員の削減、財政管理の強化、禁軍の拡充などを打ち出し、安史の乱勃発以来の宿願であった藩鎮の平定を完遂させた。史上では元和の中興と呼ばれる。しかし、金丹を服用し、次第に情緒が不安定になって怒りやすくなり、罪もない近侍や宦官をむやみに殺したため、最後には宦官の陳弘志らによって殺された。景陵(陜西省蒲城西北)に葬られた。

 


030.王承宗  人名。契丹怒皆部出身。薊県(北京西南)の人。王士真の長子。元和4年(809)に父が死ぬと、朝廷の許しを待たずに後を嗣ぎ、畏れて徳、棣の2州を献じた。憲宗がこれを討とうと兵を発すると、罪を認める上表を行い、成徳節度使となった。10年(815)、淮西節度使の呉元斉の討伐を阻み、李師道と結んで宰相の武元衡を刺殺した。翌年、朝廷は討伐のために兵を発し、12年淮西が平定されると大いに畏れ、祖賦を貢じ、子を入朝させた。

 


031.独狐郁  人名。字は古風。兄の朗と叔父のの所で育てられた。すぐれた成績で科挙に合格し、権徳興に認められてその娘を妻とした。元和の初め、右拾遺を拝し俄に史館侑撰を兼ね、右補闕に進んだ。吐突承[王崔]が王承宗を討つと、郁は強く反対し才能がその職に叶うと号し、翰林学士に抜擢された。権徳興が宰相の職を去ると、考功員外郎を拝し、脩撰を兼ねた。徳宗はその才を知って喜んだ。元和9年(814)、病を理由に秘書少監に移り、40才で卒した。絳州刺史を贈られた。議者は宰相の器であったが、早世したのが惜しまれると言った。

 


032.段平仲  人名。字を秉庸といい、武威(甘粛省)の人。隋の民部尚書段達の6世の孫。新志となり監察御史に擢された。磊落気節の士。元和の初め諫議大夫となり、憲宗が吐突承[王崔]に鎮州を討たせようとすると、これに反対し、吐突承[王崔]が功をあげずに戻るとこれを斬る様進言した。再び尚書右丞に移った。太子左庶子に終わる。

 


033.李絳  人名。764〜830。趙州贊皇(河北省)の人。字は深之。謚は貞。貞元の進士となり博学宏辞科に登った。渭南尉、監察御史を歴任した。元和2年(807)、翰林学士となり、知制誥となった。宦官の横暴をたびたび論じ、中書舎人に遷り、吐突承[王崔]に恨まれた。6年、戸部尚書に遷り、憲宗が承[王崔]を淮南監軍として出すと、中書侍郎、同平章事に抜擢された。同役の李吉甫と政策が食い違い、常に論争を行った。翌年、魏博の田季安が死ぬと、田弘正は6州を帰朝させ人心を結ぼうとした。前後して諫め、憲宗は多くその意見を納めた。9年、足の病を理由に宰相を辞め、礼部尚書となった。後に華州刺史、河中監察使として出され、穆宗が即位すると御史大夫に改められた。その発言は常に切直、直道をもって進退した。文宗の時、山南西道節度使となり、太和4年(830)、乱兵に害された。著に李深之文集20巻がある。


034.恵昭太子(李寧)  人名。憲宗の長子。初め平原王に封じられたが、弟のツ、[リッシンベン+宗]、忻、悟なども同時に王に封じられた。憲宗即位後もなかなか立太子しなかったが、李絳の進言により李寧が太子として立てられる事となった。しかし、翌年19才で薨じた。

 

 


035.穆宗(李恒)  人名。唐の第12代皇帝。795〜824。在位820〜824。初めの名は宥。憲宗の第3子。建安郡王から遂王となり、元和7年(812)、兄の恵昭太子が没したのでこれに代わって太子となった。後に王守澄に擁立されて即位した。即位後は憲宗時の方針を一変させ、国政が混乱した。朝廷内では牛李の党争が表面化し、地方では叛乱が相継ぎ、王守澄と宰相の李逢吉が結んで朝廷を壟断すると、政治は更に混乱することとなった。後に金丹を服して死亡し、光陵に葬られた。諡は文恵皇帝。

 


036.敬宗(李湛)  人名。唐の第13代皇帝。809〜826。在位824〜826。穆宗の長子。初め景王に封じられ長慶2年(822)に立太子された。即位後は毎日宴会を開き、打毬、奏楽、角抵を好んで遊楽に耽ったために朝政は混乱を極めた。最後は宦官の劉克明らによって殺され、庄陵に葬られた。諡は昭愍皇帝。

 

 


037.元[禾眞]  人名。779〜831。唐河南(河南省洛陽)の人。字を微之といい、別字を威明といった。北魏拓跋(元)氏の末裔。万年(陜西省)に生まれ、9才にして詩文を良くした。貞元9年(793)に明経に合格。後に制挙(科挙の一種)に応じ、校書郎、左拾遺、監察御史を歴任した。よく諫言を行い分司東都となり不法官吏を弾劾した。元和5年(810)、江陵府士曹参軍に貶された。通州司馬、カク州長史を歴任し、14年には膳部員外郎として入朝した。穆宗が即位すると著書「連昌宮詩」が目に留まり、祠部郎中、知制[言告]に任ぜられた。長慶元年(821)、中書舎人、翰林学士に転じた。自ら宦官と結びつきを強める事によって、皇帝に重んぜられ、裴度を排斥した。翌年、同平章事となったが、李逢吉が誣告されて宰相を罷免されると、同州刺史として出され、任地の租税、戸籍を斉しく定めた。3年、越州刺史、浙東観察使に転じた。後に武昌節度使に任じられた時に急死した。


038.李訓  人名。?〜835。唐陜西成紀(甘粛省秦安西北)の人。字は子垂。初名は仲言といい字を子訓といった。李逢吉の甥。長慶の進士。敬宗の時に連座して象州に流され、文宗の即位時に赦されて戻った。太和8年(834)に鄭注に近づき王守澄を牽制し、文宗の為に「周易」を講じた為に翰林侍講学士を授けられた。翌年翰林学士に進み礼部侍郎、同平章事に遷った。宦官を誅する事、吐蕃に占領されている河・湟地区を回復する事を建議した。王守澄が失権し自殺すると、李宗閔・李徳裕ら大臣に貶斥された。後に金吾将軍韓約らと謀り、左金吾の仗院内の石榴の木に甘露が降ったとして宦官の仇士良らを誘い、尽く誅殺しようとしたが、事敗れて禁軍に殺された。

 


039.李珏(リカク)  人名。784〜852。唐趙郡賛皇(河北省)の人。字は待价。初め明経となり、元和に進士となった。補謂南尉から右拾遺に抜擢された。穆宗の遊興を諫め、茶税の弊害を説いた。太和5年(831)、李宗閔・牛僧孺の執政時に彼らと親交を結び、度支郎中、知制[言告]、入翰林に改められ、中書舎人となった。9年に李宗閔が失脚すると江州刺史に貶された。開成2年(837)、宰相の李固により抜擢され戸部侍郎となった。3年には楊嗣復によって推薦されて同平章事を加えられた。この3人は相結びつき、鄭覃・陳夷行・李徳裕と政争を行った。武宗が即位すると李徳裕が宰相となり、桂管観察使に貶された。再び端州司馬に貶された。宣宗が即位すると河陽節度使に遷った。任地で租税を整理し、府庫は在任以前より10倍となった。淮南節度使に転じ、江淮が旱魃となった時、府庫を開いて民衆を救った。


040.楊嗣復  人名。783〜848。唐カク州弘農(河南省霊宝)の人。字は継之。貞元の進士、博学宏辞科に登る。初め秘書省校書郎、直史館となった。穆宗が即位すると、中書舎人に遷った。楊嗣復・牛僧孺・李宗閔・権徳輿など皆、貢挙の門生であり党派を組んだ。長慶4年(824)牛僧孺が宰相となると権知礼部侍郎となった。文宗が即位すると戸部侍郎となった。太和7年(833)李宗閔が宰相を罷免されると、剣南東川節度使として出された。9年に李宗閔が再び入相すると、西川に遷り、開成2年(837)再び戸部侍郎となり諸道塩鉄転運使を領した。3年、李珏と共に同平章事に進み、門下侍郎も兼職した。武宗が即位すると、李徳裕が入相すると、湖南観察使として出され、また潮州刺史に貶された。宣宗が即位すると、吏部尚書に召されたが、都に戻る途中で卒した。


041.文宗(李ミ)  人名。809〜840。在位826〜840。唐第14代皇帝。穆宗の第2子、敬宗の弟。本名は涵。江王に封じられていたが、宝歴2年(826)に敬宗が宦官劉克明らに殺されると、王守澄・梁守謙らに擁立され即位した。藩邸に居た時、「貞観政要」を喜んで読み、即位後、政治に励んだが、朝中は牛李の党争に明け暮れており、宦官の専横が激化していた。太和9年(835)、権臣李訓・鄭注らと謀って宦官を誅殺しようと謀ったが、事敗れた為に仇士良は宰相の王涯や李訓など十余家を族殺した。これは史に「甘露の変」と称され、これ以降政事は全て宦官によって取り決められた。「周の赧王、漢の献帝は強臣に制されたが朕は家奴に制されている」と涙したという。失意の内に病で崩御した。昭献皇帝と贈謚された。


042.王仙芝  人名。?〜878。唐の濮州(今の山東省ケン城北)の人。元々塩の密売人の頭であったが、乾符二年(875)、衆を率いて濮州の濮陽(河南省濮陽西南)(一説には長垣(河南省濮陽西南))で叛乱を起こした。天補平均大将軍兼海内諸豪都統を自称し、濮州・曹州などを攻め落とし、ここで黄巣が応じて数万の衆を集めるに至った。三年、転じて河南省諸州を攻め、陽テキ、陜城、克汝州を破り、刺史の王鐐を捉えた。その後、湖北へ進み、[呈β]、隋、安、黄などの諸州を破った。唐王朝は左神策軍押牙兼監察御史を与える事により懐柔を図ったが、黄巣らの反対により敢えて命を承けなかった。しかしこの事が原因で黄巣と分裂し、軍を分かつこととなった。四年、顎州(湖北省武漢市武昌)を陥とし、西を攻めて復、[呈β]、キ州、黄などの地に迫った。唐の監軍楊復光が再度帰順を説得すると、部将の尚君長を使者として使わしたが、君長が唐将の宋威に殺された為に、軍を率いて江陵を攻めたが戦いは不利であった。翌年、黄梅(湖北省黄梅西北)で唐将の曽元裕に敗れて戦死した。


043.黄巣  人名。?〜884。曹州冤句(山東省曹県西北)の人。塩賊出身。騎射を善くし任侠を喜んだ。幾たびか進士を目指したが落第した。乾符二年(875)、衆を率いて王仙芝の叛乱に参加した。翌年、王仙芝が唐に降ろうとするのを阻止し、王仙芝と兵を分かち、独自に動き始めた。五年に王仙芝が戦死すると、領袖に推され黄王を自称した。衝天大将軍を号し、年号を王覇とした。中原を攻めたが利あらず、長江を南渡して江西、浙西、浙東、開山路など七〇〇里を移動して福建に入った。六年には嶺南に入り広州を攻め、衆一〇〇万に至った。この年の閏十月、転戦して桂林に至ると大挙して北伐を開始し、信州で唐の主力軍を撃破して、淮北に進軍し率土大将軍を称した。広明元年(880)十一月、洛陽を攻め落としたが、群衆の慰撫に努めたので市内は平穏であった。十二月(881年初)、潼関を破って長安を攻め落とした。長安では逃げ遅れた唐朝官僚を無差別に殺害する一方、厳格な軍律によって一般民衆に対する略奪行為を禁じて民心掌握を図った。ここに於いてついに帝位につき、国号を大斉とし年号を金統と定めた。しかし、唐軍に長安を包囲され、食料などの物資が不足するようになり、また同州に駐屯していた朱温が唐朝に寝返ったため、局面の打開を図って15万の兵力で攻め出したが、かえって大敗し、中和三年(883)長安を脱出し、蔡州に進み、陳州を包囲したが下すことが出来ず、翌年の5月に王満渡で壊滅的な敗北を喫し、翌6月、泰山に至り狼虎谷で自殺した。一説には甥の林言に殺されたとある。


044.朱温  人名。852〜912。後梁の太祖。五代期の後梁の創始者。在位907〜912。宋州?トウ山(安徽省)の人。幼い頃に母に従い劉崇家に養われていた。長ずると雄勇を以て自負するようになった。唐末に黄巣の反乱軍に参加し、中和二年(882)に同州防御使に任じられた。同年、唐の河中節度使王重栄に投降し、河中行営副招討使に任じられ、「全忠」の名を賜った。翌年、宣武軍節度使に任じられ、東北面都招討使を加えられた。李克用と共に黄巣反乱軍の鎮圧に参加し、平定後には秦宗権、朱セン、李茂貞、朱カンなどの藩鎮を滅ぼして梁王に任じられ、宦官勢力を白馬駅で一層して権力を掌握した。天祐元年(904)、昭宗に洛陽に遷るよう強要し、暫くして昭宗を殺して李[木兄](哀帝)を立てた。後に宣武など21道地を擁して、黄河流域を統一した。天祐四年(907)、哀帝を廃して自ら即位し、都を[シ卞](開封)に定め、国号を梁とした。史上後梁と呼ばれる。開平三年(909)、農業の推奨や、税役の軽減、官吏の綱紀粛正などを図って唐朝の弊害を改革したが、河東の李克用・李存勗父子との抗争により国力を疲弊させる事となった。また、地方に赴いている諸子の妻まで閨中に引き入れるなど、私生活の乱れにより、第2子の朱友珪に殺された。


045.王重栄  人名。?〜887。太原祁県(山西省)の人。父の手引きにより軍校となりその勇敢さは軍中に冠たるものであった。広明元年(880)、河中馬歩軍都虞候となり、黄巣が長安を占領すると降伏して節度副使となった。しかし、黄巣の使者を殺して唐朝に帰順すると、朱温、黄?軍を破り、唐朝から河中節度使に封じられ、忠武監軍の楊復光と連携を採ったが、反乱軍に大敗した。中和2年(882)、同州に駐屯していた朱温を帰順させる事に成功し、楊復光と謀って沙陀部の李克用を反乱鎮圧の為に招いた。3年、長安を回復すると、功を以て琅邪郡王に封じられた。光啓元年(885)、宦官の田令孜と河中安邑、解県の塩の専売権を争い、田令孜が禁軍を率いてきたのに対し、李克用と結ぶことによって沙苑で禁軍を壊滅させた。後に田令孜と朱[王攵]が襄王の朱温を擁すると、李克用と共に朱[王攵]を攻めて朱温を殺し、僖宗を迎えて復位させた。部下に対して厳しすぎた為に、部将の常行儒に殺された。


046.李克用  人名。856〜908。沙陀部の人。別号を李[亜鳥]兒。片目が見えなかったので独眼竜と称された。父の朱邪赤心が[广龍]の乱平定の功績により、唐懿宗から李国昌の名を賜っていた。父に従って戦い、軍中では飛虎子と目された。雲州に拠って反したが、敗れて韃靼部に逃げ込んだ。中和元年(881)、黄巣の反乱軍を鎮圧するよう要請された。三年には黄巣軍を討伐した功によって河東節度使となり群雄割拠の一つとなった。四年、黄巣軍を追って東下し、[シ卞]州に至った時、子が朱温に殺された事から仲が悪くなった。光啓元年(885)、王重栄と共に朱[王攵]、朱昌符をうち破り、長安を侵犯して略奪を行った為、僖宗は長安を脱出した。大順二年(902)、朱温及び魏博軍と戦って敗れ、その勢いを衰えさせた。後に子の李存勗が朱温の後梁を滅ぼして後唐を建国した時に、武皇帝と贈謚され、廟号を太宗とされた。


047.宋威  人名。?〜878。列伝が立てられていない為、出身等不明。咸通十年(869)神策軍将軍から西北面招討使となった。翌年には蜀地方の反乱鎮圧の為に右武衛将軍に任じられ、反乱鎮圧に努めた。その後、平廬軍節度使となり、黄巣の乱が起こると、荊南節度招討使に任じられた。王仙芝軍に対して懐柔策を採る楊復光の功績を妬み、投降してきた尚君長を殺害したため、王仙芝は再び反旗を翻した。乾符五年(878)二月、僖宗よりこの失策を問われて招討使を罷免され、同年九月に卒した。

 


048.周岌  人名。?〜884?。列伝が立てられていない為、出身等不明。(許州の出身か?)。広明元年(880)許州節度使の薛能を殺して自らが節度使となった。中和元年(881)、黄巣の反乱軍が迫ると一度は降伏したが後に唐朝に帰順し、朱温、李克用らと共に黄巣の乱平定に努めた。この功により都統左右司馬となった。乱後、許州に於いて自立して藩鎮の一つとなる。中和四年(884)、楊復光の部下であった鹿晏弘が許州を陥とした時に殺された。一説には逃げ落ちたとする。

 


049.秦宗権  人名。?〜889。蔡州上蔡(河南省)の人。一説には許州(河南省許昌)の人。許州節度使の薛能の牙将であったが、広明元年(880)、周岌が薛能を殺して忠武節度使となった時に蔡州刺史を放逐して自らが代わった。翌年、監軍の楊復光と共に許州で黄巣軍に敗れた。楊復光は蔡州を奉国軍に昇進させて秦宗権を節度使とした。中和三年(883)、黄巣が蔡州に迫ると敗れて降伏した。翌年、朱温に討たれ敗れた。黄巣の死後、周囲の藩鎮と勢力争いを繰り返し、光啓元年(885)、帝を称して百官を置いた。近隣を攻めたが、兵力を分散させすぎ、朱温に敗れた。光啓二年、許州を攻めて節度使の鹿晏弘を殺した。朱温、楊行密らと勢力争いを繰り返したが利あらず、文徳元年(888)、朱温に大敗し、龍紀元年(889)、朱温に捕らえられて京師に送られ、刑場の一独柳で斬られた。

 


050.[广龍]  人名。?〜869。徐州(江蘇省)の人。初め徐・泗守軍粮料判官に任じられ、咸通九年(868)、桂林で兵乱が発生するとその指導者に押され、北上して徐州を攻略した。徐州周辺では軍賊や没落農民を多数吸収して一気に一大勢力となった。節度使要求を行ったが、翌年初め、唐朝は康承訓ら諸藩鎮の一八将、兵力七万を動員して徐州を攻められたので、ここにおいて唐朝に対して完全な反旗を翻し、天册将軍に推され、魏博藩鎮兵を壊滅させると引き続き戦略地点である柳子(安徽省宿県西北)を攻めたが利非ず徐州に退いた。七月、西の宋州(河南省商丘南)・亳州(安徽省)を攻め、唐軍を西に誘い出し、宿州の包囲を解かせた。九月、徐州を失った為、兵二万を率いて渙水沿いに東進したが、?県(宿県東南)で敗れ、乱軍中に死んだ。

 


051.昭宗  人名。867〜904。在位888〜904。懿宗の第7子。初名を傑、後に敏と改名。僖宗の同母弟。初め寿王に封じられ、僖宗の死後に楊復恭らによって擁立された。即位当時、宦官による専権と藩鎮が跋扈していた。宰相の崔胤は藩鎮の力を借りて宦官を誅殺しようと謀り、密かに朱温に応援を頼んだ。これに対して神策軍中尉の韓全晦に風翔に連れ去られ、朱温によって風翔を包囲され、食事にも事欠く有様となった。三年の包囲の後、朱温と共に長安に戻ることが出来たが、実権は既に朱温に遷り、洛陽に送られた後に殺された。和陵(河南省南偃師)に葬られ、謚を穆景文皇帝とされた。

 


052.僖宗(李?)  人名。862〜888。在位873〜888。懿宗の第5子。初名を儼という。晉王に封じられ、懿宗が崩ずると宦官の劉行深らに擁立された。即位当初、幼かった事もあり、田令孜らを寵用して「阿父」と呼んで政事の一切を任せ、自らは宮中で闘鶏など遊宴に耽っていた。その影で連年に渡る戦乱や旱魃などで民衆は非常に苦しんだ。乾符の初め、王仙芝、黄巣が相継いで山東で乱を起こすと、数ヶ月後には数万の反乱となった。広明元年(880)、黄巣が洛陽、長安に攻め込むと、田令孜と共に蜀へ逃げた。中和5年、京師に戻ると田令孜と河中節度使の王重栄とが争い、河東節度使の李克用が兵を率いて都畿に迫った為、再び逃げ出す事となった。光啓3年(888)、俄に病を発して崩じた。靖陵(陜西省乾県東北)に葬られ、謚号を恵聖恭定皇帝とされた。

 


053.宋申錫  人名。?〜833。字は慶臣。幼い頃は貧しかったが進士に合格する。校書郎、使府僚佐、監察御史、起居舎人を歴任し、宝歴2年(826)、礼部員外郎となり翰林待譲学士に任じられる。文宗が即位すると、戸部郎中、知制[言告]に任じられた。太和2年(828)、中書舎人となり再び翰林学士となった。文宗はその謹慎で忠厚な振る舞いと朋党に関わりのない所を見込まれ、宦官の王守澄排斥の謀を打ちあけられた。ついで尚書右丞、同平章事を加えられた。太和5年(833)、事が漏れて王守澄から誣告されて開州司馬に貶められ、連座して数百人の死者を出した。この事に憤慨して卒した。3年後にその冤罪が晴れた。

 


054.鄭注  人名。?〜835。絳州翼城(山西省)の人。本姓を魚といったが後に鄭に氏を改めた。寒微の出身で初め医術を以て長安の豪族の家に寄宿していた。元和末、李愬の伝手で襄陽の徐州幕府に移動し、李愬は監軍の王守澄に紹介した。王守澄により重用され、後に文宗の病気を診たことから信用を得て、工部尚書、翰林侍講学士に遷り、茶官の新設を検索して茶法に関わる権利を行使するようになった。又、李訓に誘われて文宗の意を汲み、王守澄の権力を奪った後に之を殺した。風翔節度使として出て、内外協力して宦官を除こうとした。甘露の変の時、兵を率いて京師に近づき、途中で事敗れたのを聞いて兵を帰したが、監軍によって殺された。

 


055.陳敬瑄  人名。?〜893。許州(河南省許昌)の人。僖宗の時の宦官田令孜の兄。幼い頃は貧しく、神策軍に従軍していた。田令孜が権力を握ると左金吾衛将軍に抜擢された。撃毬を得意とし、西川節度使に任じられた。黄巣が長安を破り、僖宗が蜀に逃れてくるとこれを迎え、その功により中書門下平章事となり、後に穎川郡王に封じられた。蜀にあって専権を思うがままに振ったが、光啓3年(887)、田令孜が失脚し、昭宗が即位すると官爵を削られ、宰相の韋昭度による討伐を受けた。大順2年(891)利州刺史王建に成都を破られ、田令孜と共に捕らえられた。景福2年(893)に殺された。


056.韋昭度  人名。生没年不詳。京兆の人。字は正紀。進士となり、中書舎人に累遷した。黄巣の乱の時、僖宗の西狩には兵部侍郎、翰林学士承旨として従い、同中書門下平章事に任ぜられた。京師に戻り、司空を授けられた。再び山南に狩りをし、風翔に戻り李昌府の乱を平らげた。太保に遷り、侍中を兼ねた。昭宗が即位すると中書令となり岐国公に封ぜられた。[門良]州刺史の王建が陳敬瑄を成都に攻めると、西川節度使を授けられた。王建が成都を陥落させ自ら留後としたため、東都留守を罷免された。このとき杜譲能が死を賜っていた為、司徒、門下侍郎となり亦平章事となり、太傅に進んだ。王行瑜が尚書令を求めたのに対して反対したため恨みを買い、王行瑜と李茂貞の讒言にあって辞職した。都亭駅で王行瑜・李茂貞・韓建らに殺された。後に王行瑜が誅されると復官爵し、太尉を贈られた。


057.王建  人名。847〜918。五代の前蜀の創始者。在位907〜918。許州舞陽(河南省)の人。一説には沈州項城(河南省沈丘)の人。字は光図。幼い頃から頼る者無く、屠殺や私塩の販売などを生業としており、「賊王八」と呼ばれていた。唐末には忠武軍の兵卒となり、王仙芝の反乱の鎮圧に参加した。田令孜の養子となり僖宗の入蜀に際して功を挙げ、禁軍の将領となった。光啓2年(886)に利州刺史となった。大順2年(891)成都を攻め落として西川節度使の陳敬[王宣]を殺し、田令孜を餓死させ、両川を兼ねて山南西道の要地を領するようになった。天復3年(903)蜀王に封じられた。天祐4年(907)、成都で帝を称し国号を蜀とし、武成と改元した。史上前蜀と称される。前蜀は豊かであったので、中原の士人が多く乱を避けて逃れてきており、王建は彼らを優遇して良くその提案を納れたため、民を安んじた。但し、養子が数多く、晩年には内寵に居ることが多くなり、后妃の徐氏が権力を振るうようになった。最後は徐賢妃に毒殺され、永陵(四川成都)に葬られ、神武聖文皇帝と贈謚され、廟号を高祖と贈られた。


058.張濬  人名。生没年不詳。字を禹川といい、河間の人。書史に精通していたが志を得ずに在野にいたところ、枢密使の楊復恭に遇されて太常博士に推薦され、支員外郎に進んだ。黄巣の乱が起こると、病と称して母と供に商山に奔った。僖宗が西出すると、急に召し出されて諫議大夫に任じられた。宰相の王鐸が行営都統に任じられると、奏署都統判官となった。乱が治まると戸部侍郎判度使となり、後に同中書門下平章事を授けられた。後に簒奪を謀った朱全忠(朱温)に殺された。

 


059.杜譲能  人名。生没年不詳。字を群懿といい、杜如晦の子孫。進士となり孝を以て知られていた。僖宗が蜀に奔ると、中書舎人、翰林学士となった。京師に戻ると、兵部尚書となり建平県子に封じられた。また、僖宗が山南に奔ると付き従い、兵部侍郎、同中書門下平章事となった。昭宗が即位すると、尚書左僕射に進み、晉国公に封じられ、鉄券を賜われ、太尉に進んだ。李貞茂の勢力を抑えようと画策したが、却って李貞茂の怒りを買い、李貞茂に脅された朝廷から死を命じられた。

 


060.裴度  人名。765〜839。河東聞喜(山西省聞喜県東北)の人。字は中立。貞元の進士。宏辞科に登り、賢良方正科、直言極諫科に応じた。補校書郎となり、監察御史に抜擢された。元和七年(812)に魏博節度使の田弘正を宣諭した功により中書舎人となり、後に御史中条に進んだ。十年、淮西節度使の呉元済が叛乱を起こすと、討伐軍を視察し積極策を上奏した。しばらくして李師道が暗殺されると、憲宗によって中書侍郎、同平章事に任じられ、淮西藩鎮の鎮圧に尽力した。十二年、自ら軍を率いて呉元済を討伐する事を請い、李愬を用いて蔡州を平定して呉元済を捕らえ、恐れをなした河北藩鎮の王承宗は帰朝する事になった。この功により晉国公に封じられた。翌年には李師道を平定し、宦官の五坊使が民衆に被害を与えるとして之を廃止させた。しかし、諫言が過ぎて皇甫鎛の讒言にあい、十四年に河東節度使として出され、さらに元稹に忌まれて兵権を奪われ、東都留守となった。長慶二年(822)に再び入京して平章事となったが、兵部尚書の李逢吉に恨まれて山南西節度使として出された。宝暦二年(826)、再び入朝し、判度支を兼ねた。文宗が即位すると再び宰相となったが、大和四年(830)、牛僧孺、李宗閔が執政を握っており、その功績の高さを疎まれて、山南東道節度使を罷免され、襄州刺史に左遷された。四代に渡って宰相となり、権臣を制して強藩を抑え、その名は華夷を問わず知れ渡った。威望は郭子儀に斉しい。晩年は洛陽の牛橋庄に緑野堂を建て、白居易らと吟宴を開いた。全唐文に三十九編がある。


061.李茂貞  人名。深州博野(河北省北蠡県)の人。字は正臣。元の名を宋文通という。乾符年間に博野軍に従軍して功績を挙げ神策軍指揮使となった。光啓年間に朱玫が叛乱を起こすと、僖宗を護衛した功により武定軍節度使となり、李茂貞と姓名を賜った。後に李昌符を殺して風翔節度使を領し、楊復恭と容姿の楊守亮が興元で叛するとこれを破った。昭宗はその両鎮兼領を許し、秦王に封じられ関中の強藩となった。又、王行瑜、韓建らと共に長安に兵を入れ、宰相の韋昭度、李磎を殺し、昭宗を廃そうと謀った。乾寧三年(896)長安に攻め入り、昭宗は難を避けて華州に逃れ、宮殿は燃やされ坊市は略奪を受けた。天復元年(901)に岐王に封じられ、韓全誨が昭宗を連れて風翔に入ると朱温に包囲された。三年、韓全誨らを殺し昭宗を送り出した。天祐四年(907)後梁が建立されると、自ら岐王府を開き、唐号を用いて官職を置き、最盛期には二十州を有したが、後梁末にはわずか七州を有するのみとなり、後唐に対しては臣従した。


062.崔胤  人名。字は垂休。宰相の崔愼由の子。陰謀を好み、中書舎人、御史中丞を累遷した。崔昭緯に薦められて戸部侍郎同中書門下平章事となった。崔昭緯が贈賄の罪で誅されると武安節度使を罷免された。この頃、朝廷内は南北司間の争いが激化し、それぞれ藩鎮と結んでいたが、崔胤は朱全忠と早くから結んでいた。光化の初め、昭宗が華州に逃れると密かに朱全忠と結んだが、それを昭宗に憎まれて吏部尚書を罷免された。後に召されて司空、門下侍郎、平章事となり、度支、塩鉄、戸部使を領した。宦官の宋道弼、景務脩を殺し、宦官勢力を減退させた。これにより四度宰相となった事から世に「崔四入」と呼ばれた。劉季述を殺害する謀略を図り、その功により司徒に任じられようとしたがそれを断り、昭宗はこれを徳として名を呼ばず字を呼ぶ事となった。宦官勢力を廃滅しようとして韓全誨と衝突し、韓全誨が昭宗と共に風翔に奔ると朱全忠を動かして風翔を囲ませ、韓全誨らを殺し、昭宗を取り返す事に成功した。この功により侍中に進み、魏国公となった。続いて朱全忠の力を押さえ込もうとしたが、却って殺された。