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001.劉知俊  ?〜917。字は希賢。徐州沛の人。若いころから時溥に仕えていたが、時溥が朱全忠と争うと麾下二千人と共に朱全忠に降った。劉知俊は容貌が雄傑であり、武勇に優れていたことから「劉開道」の勇名を持っていた。数々の功績を挙げ検校太尉兼侍中、大彭郡王に封じられたが、朱全忠が諸将への猜疑を強め、無罪の王重師を殺したことから不安を強め、ついに謀反を起こして李茂貞についた。李茂貞の元で対梁戦に功績を挙げ、州節度使となったが、李茂貞の近臣にその功を妬まれて軍を奪われたことから蜀に奔り王建に仕えるようになった。蜀でも功績を挙げたことから、王建は劉知俊に厚遇を与えていたが、陰では警戒しており側近に「吾は老いた。もし吾が死ねば知俊はお前達の能く制するところに非ず。早くこれを図るに如かず。」と云っていた。都招討使に任じられたが諸将の反発にあって功績を挙げられず、反乱を恐れた王建に殺された。

 


002.安重覇  ?〜?。雲州の人。代北の頃から李嗣源と共に李克用に仕えていたが、罪を得て梁に逃れた。梁でもまた罪を得て蜀に奔った。蜀では騎射を能くすることから親将となった。王衍が即位し、宦官の王承休と成都尹の韓昭が結んで専権を専らにすると、王承休に諛って信任を得た。後唐が前蜀に侵攻すると秦、成州を以て降った。天成年間(926〜929)、閬州団練使となり、後に左衛大将軍として召された。常に侫言をもって人の意を迎え、明宗はこれを最も寵愛した。同州節度使となり清泰の初めには西京留守、京兆尹に遷った。清泰二(935)年、雲州節度使に改められたがほどなくして卒した。

 


003.韓昭  ?〜925。字は徳華。長安の人。侫言を用い人の意を迎えるのに長けていた。潘在礼、顧在cらと共に後主に取り入り、宣華苑で共に起居するまでとなった。官は礼部尚書兼成都尹となった。乾徳二(920)年、文思殿大学士となった。王承休、安重覇らと共に後主の秦州遊行を勧めた。後唐軍が成都に迫ると、王宗弼によって亡国の罪を問われ金馬坊門で斬られた。その首は箱詰めにされて魏王李継岌に送られた。

 

 


004.王宗弼  ?〜925。本姓は魏、名は弘夫。高祖の仮子となって王宗弼の名を与えられた。軍功により中書令、北面招討使となり、高祖(王建)が重篤となると遺詔を受けて王衍を即位させた。その功により太師兼中書令判六軍に任じられ、鉅鹿王から斉王へと進爵した。後唐軍が侵攻してくると、綿竹を守るよう命令されたが、それを無視して成都に戻ると太玄門に立てこもり、後主の命に従おうとしなかった。城内の府庫から金品を強奪し、宋光嗣や韓昭、景潤澄らを亡国の輩として誅殺し、さらに混乱に乗じて自分の意に沿わぬものを次々と殺した。西川兵馬留後を自称し、郭崇韜に西川節度使を求めた。この時、宋光葆が宋光嗣の殺害に関して王宗弼を訴えたこと、また、王宗弼の軍が騒ぎをおこしたことから、王宗勲、王宗渥らと共に殺された。