2.宦官と外戚との権力争い

 和帝の次の殤帝・安帝時代には、ケ太后のもと、外戚のケ隲が再び政権を握る事となりましたが、ケ太后が死ぬと、安帝は一部の宦官と結んでケ氏一族を粛正しました。安帝の死後、北郷侯が位を継ぐと外戚閻氏が宦官を殺し、北郷侯(少帝)が病死すると、孫程を初めとする宦官らは閻氏を殺して順帝を立てることとなります。順帝が崩じ桓帝が位を継ぐと、梁太后の後見のもと、梁冀が外戚として権力をふるい、桓帝が側近の宦官と結んで梁冀とその一派を打倒すると、今度は宦官が権力を握り一部の官僚や外戚と結託して政治を独占し、その専横は霊帝の死後まで続いていきます。

 このように和帝以降の政局は、幼帝の即位と太后の後見、太后の一族の専横、そして皇帝の成長と宦官を利用した復権、宦官の専横という繰り返しで展開します。このような形勢のもと、安帝の時、政権を握った宦官らが失意の官僚や下層の豪族を抱え込んで徒党を結成すると、正義派の知識人は彼らをさげずんで黒濁と呼び、正規の方法で任官した知識人を清白と称するようになり、以降いわゆる清流派濁流派の対立がしだいに顕著になっていきます。

 (ただ、この呼び方は、知識人たちが不遇のままに置かれ、宦官とつながりを持つ人間だけが出世していく状況に不満を持ち、宦官及び宦官に組みする官僚達を「濁流」と呼び、それに対して自らを「清流(清白)」と呼んだのであって、士人の立場に立った物の見方であり、「濁流」という言葉から受ける「悪」のイメージは少し和らげて考えて頂きたいですね。正義派の官僚達とて、実力を伴う地位についた場合に決して賄賂などを受けないという事はないのですから。
 ちなみに三国志で有名な曹操の祖父は、順帝時代に勢力を持った宦官でありましたし、袁紹でさえ貴族の出ではありましたが、けっして清流ではなく、彼の父は外戚梁貴の腰巾着であり、一方宦官勢力の首席である袁赦から同姓のよしみということで引き立てられた、いわば宦官派の貴族でした。東漢末の混乱時に活躍した多くの人物が、実は宦官につてを求めて出世していることが判りますね。)