3.宦官と清流派との権力争い

 これらの権力闘争を通じて宦官と外戚、一部の豪族とその徒党らが中央政府の官職や地方官を独占して私利私欲を追求し、国庫を食い荒らしたために、政治は腐敗し混迷するようになります。特に桓帝期の宦官・濁流派官僚の支配時期において、清流派の官僚や知識人・太学生たちは徒党を組んで、組織的に彼らに対抗するようになります。そして一五九年の梁冀の死後、宦官勢力が政府の要職だけでなく、地方の州刺史や郡太守をも独占すると清流派の官僚・知識人・太学生らは李膺陳蕃郭泰らを中心に立ち上がり、宦官・濁流派に対して激しい批判攻撃を展開します。
 しかし一六六年、宦官の傀儡となっていた桓帝は李膺等二〇〇人を党人と呼んで逮捕・投獄した。この時は皇后の父であるケ武らの執りなしで彼らは釈放され終身禁固(二度と官僚になれない)に処せられます。(第一次党錮)
 この事件の翌年(一六七年)、桓帝が没し霊帝が位を継ぐと、竇太后のもと、竇武が政権を握り、陳蕃・李膺らと結んで宦官を排除しようと謀ります。しかし一六九年、その実行をためらっていた竇武・陳蕃らは、その計画を宦官に察知され、先手をとられて殺されてしまいます。これに対して、清流派官僚や知識人、太学生らはふたたび全国的な規模で立ち上がり宦官政治を攻撃しましたが、この時も霊帝は弾圧をもってのぞみ、李膺ら百余人を殺し、六,七百人を禁固処分とし、党人の親族、門生、故吏をも免官、禁固に処する事になりました。(第二次党錮)
 この二度にわたる弾圧で国の将来を憂う清流派官僚や士人らは野に追放されてしまいました。