このように、宦官と外戚、清流派官僚による政権争奪が繰り返されて、政治が腐敗していく過程において、民衆反乱が増加していくのは当然の事でした。桓帝の時代には、比較的自然条件の穏やかな江流域以南、江南地方にまで民衆反乱が続発し、黄巾の乱が全国的な規模で発生する素地はすでにできあがっていました。
一八四年二月、黄色の頭巾をつけて彼我の区別とした衆徒は、三六方の指揮のもと、全国一斉に立ち上がり、官府の門や壁などに甲子の文字を白書して放火・略奪し、各地で暴動を展開しました。これが有名な「黄巾の乱」と呼ばれる民衆叛乱なのですが、それまでの民衆叛乱とは規模が全く違ったため、慌てた政府は急いで対策を協議し、まず党人の禁固を解いて黄巾との連動の可能性を断ち、禁銭(内帑銭)を放出し帝室所轄の馬を解放して軍士に分配する一方、皇甫嵩や朱儁・盧植らを左・右・北中郎将などに任じて討伐軍を率い、各方面の黄巾に向かわせました。
結局、さしもの大規模な反乱も、首謀者張角が病死し、弟の梁と宝とが捕らえられる事によって、その年内に壊滅しましたが、しかしそれはいわばつる草の本根が除かれたに過ぎず、すでに各地に根を張っていた支根は統一的指導者を欠いたまま暴動を繰り広げました。このような状況の中で中平六年(一八九)、霊帝が崩ずると、何皇后の兄、外戚何進らは宦官の誅滅をはかり、并州牧の董卓の力を借りようとしたが、先手をとられて宦官に殺された。そこで司隷校尉の袁紹は、兵を率いて宮中に入り宦官を悉く誅滅しますが、都に入ってきた董卓に追われたため、董卓を追倒すべく檄をとばして各地の武人を糾合しました。まもなく董卓は部下に殺されたが、袁紹の檄に応じて立ち上がった武人たちが各地に割拠する形勢となり、ここに東漢王朝はその実を失うこととなりました。
