まずは、東漢の制度をそのまま引き継いだ劉蜀を見てみましょう。劉蜀は後期になって人材が不足し、君主が小人を寵愛するようになると、たちまち宦官が勢力を増大させ滅亡する事となりました。これは劉蜀政権が正統王朝を自称していたため、東漢の制度をそのまま受け継がざるを得ず、運営面を以て宦官抑制を行っていた事に原因があると考えられます。この制度では、運営面を受け持つ丞相や侍中などの政権トップが有能な場合は、有効に働きますが、君主が凡庸であったり、政権トップが腐敗したりすると、たちまち効果を失ってしまうのです。
次に孫呉を見てみましょう。孫呉政権は、曹魏とほぼ同じ宦官抑制政策をとったのに、孫皓が即位するようになると、たちまち宦官勢力が増大し、政治腐敗の進行と相まって滅亡への道を辿ることになります。これは孫呉の政権体質に原因があるのではないかと考えられます。孫呉は江南の豪族による共同体から始まったという経歴があり、君主の孫氏に対して他の豪族達の影響力が大きく、相続争いが非常に激しくなる可能性が高いのです。実際、孫呉は孫権以降、血で血を洗うような相続争いが続き、その度に君主の権威は低下しつづけました。そのために孫呉の君主は、自らの権威増強の為、宦官を多用するようになります。孫皓の場合、後宮の人数が多かったという直接的原因もありましたが、それ以前から宦官を用いるケースは多かったと考えられます。
では逆に何故曹魏政権だけが、宦官抑制に成功したのでしょうか。まずは徹底した宦官抑制政策を行った事が挙げられるでしょう。士人階層中心の政権故に、宦官に対する拒絶反応がそれだけ激しかったものと思われます。そして、もう一つ挙げられるのは「皇室自体が力を持っていなかった」という事が挙げられるでしょう。曹魏は宦官の勢力抑制を図ると共に、外戚の勢力をも抑制しています。東漢中期に宦官が外戚と組んで猛威を振るった事を考えれば、当然の措置とも考えられます。この二つの点及び比較的名君が続いた(暗君が出なかった)事が成功の秘訣といえるのではないでしょうか。
さて、三国それぞれの政策とその結果を簡単に書いてみましたが、ここで少し纏めてみるとしましょう。
士人層が中心となって建国された曹魏、正統王朝を自称した劉蜀、江南の豪族の集合体である孫呉、この三国の宦官抑制政策とその結果は、宦官制度というものを考える上で、大変面白い実験結果となっています。各政権とも、東漢末の宦官による弊害を充分に理解し、それに対する政策をとっています。しかし、結果として宦官抑制に成功したのは曹魏だけでした。これは何故なのでしょうか?。
