十六国の政権は、南方の東晉政権と対峙する一方、相互に攻め合って中国北方の覇権を争います。その中で中原の漢文化の影響を色濃く受ける事となり、政治制度について言えば、ほとんどの国が晉の制度を引き継ぐこととなりました。当然の事ながら、その中には宦官制度も含まれていたのです。
また、その前趙を滅ぼした石氏の後趙も、三代皇帝の石虎(太祖)も武将としては敵なしの強さを誇ったのですが、繁栄に溺れて遊猟と土木工事にふけり、さらに後宮を拡張して民間から数万に及ぶ婦女を徴発し、「十万盈宮(十万人の婦女が後宮に満ちる)」と称される程になっていました。
この前・後趙以外の政権でも晉の政治制度を吸収しましたが、宦官勢力は余り成長しなかったようです。そんな中でユニークなのは氐族の貴族であった符健によって建てられた前秦です。前秦は十六国時代で最も隆盛をきわめた王朝となるのですが、この政権では学問を奨励しており、後宮においても宦官や女官までが博士によって学問を教えられる程でした。そのため、「博聞にして文を能くし、直言を好む。上書して面諫する事、前後五十余(資治通鑑)」と言われる程の趙整という人物がいたり、武勇に優れていた張蚝[虫毛]という人物がいたりと、晉の時代では余り考えられないような人物を輩出しました。
今まで述べてきた事を纏めてみると、十六国の政権はほとんど全てが晉の封建制度を受け入れることによって宦官制度も引き継いでいました。しかし、群雄割拠の時代であったために、政治が乱れて宦官が跋扈し始めると国自体が滅んでしまい、宦官勢力が発達するまえに国ごと消滅してしまいます。
特に、西晉を直接滅ぼした漢(前趙)政権では、三代皇帝の劉聡(烈宗)の頃に西晉を滅亡させるのですが、西晉を滅亡させた事で気が緩んだのか、それまで名君であった劉聡は、国力を遙かに超える宮殿を大増築して後宮の規模を拡大しはじめます。また、西晉の首都である洛陽から連れてきた宦官を、その宮殿で使い始めたために、それに伴って宦官の権力が増大する事となりました。
特に、中常侍の王沈、宣懐、愈容などが寵信を受け、さらに王沈と宣懐の養女は左皇后と中皇后とに立てられたため、外戚となった彼らの権力は一気に増大していきました。さらに劉聡は酒食に溺れ、ろくに政務を見ることがなかったので、全ての権力は宦官に集中します。劉聡の死後、宦官たちの勢力は減衰しますが、前趙政権も10年余りで滅ぼされてしまいました。
後宮の人数が増えれば、自然と宦官の数も増加します。更に石虎の時には太子の石宣と弟の石韜を初めとする後継者争いが激化していき、その争いの中で宦官達も党派を作って関与していく事で頭角を現していました。
結局、特別な時期以外では宮廷の雑役に従事するだけにとどまり、国政を専断するような事例は、ほとんど見る事ができませんでした。