南朝では、晉の制度を引き継いだため、中常侍の廃止、皇太后諸卿の士人専任化、大長秋の権力削減など、制度的にも宦官勢力を抑える下地は出来ていました。結果として南朝ではほとんど宦官勢力が増大する事はありませんでしたが、その原因となったのは、その制度以外の部分によるものが大きかったと考えられます。
まず一つには、南朝の君権が弱かった事が挙げられます。南朝の各王朝は、名族の力が強くて君権が弱いという東晉の性格を引き継ぎ、中央では門閥貴族、地方では豪族の勢力が強く、対照的に君権が弱い政権が続きました。それは、漢末三国時代に作り出された九品中正制度をきっかけとして急成長した貴族制によるものでした。琅邪の王氏、陳郡の謝氏に代表される貴族は、東遷後の東晉に於いても勢力を誇り、常に君権を圧迫していましたが、寒門出身の劉裕が劉宋の時代になってようやくその勢力を減じる事となりました。貴族に代わって台頭してきたのは寒人と呼ばれる土着豪族達でした。
また、頻繁な戦乱により宦官総数が減少していたことも、宦官勢力の減衰の原因になっていたと考えられます。例えば、劉宋末期の前廃帝が皇后を建てたところ、皇后宮の宦官が不足したため、諸王の宦官をかき集めてそれに充てなければならなかった事が資料に見られますが、これは、宦官になっても栄達の道が閉ざされている上に、王朝交代の戦乱や宮廷内の混乱などにより、宦官自体の数が減っていたことを表しています。
南朝に於いては、これらの理由により宦官勢力の増大はほとんど見ることが出来ませんでした。
また、南朝の地方刺史(特に軍事的に重要な荊州)は、北朝への防備のために多くの兵権を握り、それが逆に中央政府に対して大きな脅威となっていました。これらの原因により政局は常に不安定であり、どの政権も五十年前後で簒奪されることになります。
南朝を通じて、劉宋の文帝(劉義隆)、蕭梁の武帝(蕭衍)を除いてほとんどが短い期間で帝位を交代しています。劉宋の統治期間は60年間でしたが、後半の30年の間に7人。南斉はわずか24年という短命政権でしたが、この期間中に7人。蕭梁の56年の内、最後の10年で7人。陳は33年で5人と、まさに皇帝の座の暖まる暇すらないような状態でした。この様に在位の短い皇帝が続けば、自ずと皇帝権が低下し、従って皇帝の権力を背景として勢力を伸ばす宦官達もその機会を与えられずにいたのです。
チャンスがあるとすれば、皇帝が君権の強化を謀った時でした。漢代に於いては和帝と鄭衆に見られるように宦官を使うのが常でしたが、南朝においてはそのチャンスに乗じたのは貴族に反発していた寒人たちでした。南朝の君主は、寒人を登用して権力バランスを操る事で、一人の大臣に権力が集中するのを防いだのでした。このために宦官が政治に関与する事はほとんどありませんでした。
南宋末に宦官である徐龍駒は後閣舎人に任じられ、寒人勢力との結合により権勢を握る事となりますが、これは特例といってもよいでしょう。
