1)北魏の宦官について 

北魏の華北統一図  鮮卑族と呼ばれる民族の拓跋部という部族が主となって作られた北魏は、道武帝(拓跋珪)から太武帝の三代にかけての連年にわたる征戦の結果、ついに北中国を統一します。この年(439)より北中国は北朝と呼ばれる時代へと入っていくのですが、北朝の中でも北魏の時代に、宦官勢力は急速な膨張を見せることとなります。南朝の宦官たちが衰退していくのに比べて、実に対照的です。
 北魏は北方を平定していく過程で多くの国を滅ぼしたのですが、そのときに敵国の宦官を捕虜にして内廷に入れたために、領土が広がれば広がるほど北魏内廷の宦官の数も増えていきました。北魏は少数民族ゆえに同族が少なく、圧倒的多数を占める漢人を支配するのに民族や身分に関わらず、有能な人材を登用しようとしました。使役するのに民族間の軋轢がない宦官のうち、経験と才能のある人物が重用されるのは、自然な事でした。
 孫小という人物は、元々咸陽の石安の人で、後秦に仕えていた彼の父が大夏の軍勢に殺された時に捕虜となり、宦官として大夏の宮廷に仕えるようになりました。そして大夏が北魏に破れた際に再び捕虜となり、北魏の宮廷に仕えるようになったのですが、孫小は知略があり聡明であったために取り立てられ、軍功を挙げて州刺史に任じられました。
 この様に、北魏では建国初期の頃から、宦官が内廷以外の役職につくことが抵抗無く行われていたのです。

 また、北魏は基本方針として漢化政策を推し進め、君権の強化を目指していました。この急速な漢化政策は、既得権を持つ鮮卑貴族たちの強烈な抵抗を招き、同族から浮き上がる存在となった北魏の君主はますます自分の手となり目となる家奴が必要となってきました。
 華北を統一した大武帝(拓跋Z)は更なる漢化を押し進め、君主専制を確立しようとしました。君主の権威を高めるためには、臣下と君主との間に越えてはならない一線を引くことが、一番手っ取り早い手段です。臣下と頻繁に接触することによって、ただの人間としての正体をバレてしまっては権威が保てないという訳です。この「君主と臣下との間を隔てるもの」、それが宦官なのです。
 北魏では宦官というものに対する嫌悪感が少ないという理由もあって、宦官が外廷の職に就くことに対して抵抗はほとんどありませんでした。

 これらの理由により、北魏は東漢末期や唐末期と比べても遜色のないくらいに宦官が勢力をもつ政権となりました。北魏において宦官勢力が爆発的に増大した時期は3度あります。まず一つが先に述べた太武帝の時。この時は、宗愛という宦官が権力を握り、その権勢は太武帝、安南王余を殺害するなど、政治・軍事の両面において専権を振るいました。
 残りは文明太后(馮皇太后)霊太后の臨朝の時でした。過去の例からいっても臨朝を行えば、宦官勢力が増大するのは良くあることなのですが、北魏の場合はその度合いが甚だしく、「まるで王侯の様に振る舞った。」と史書に書かれています。
 しかし、孝明帝の死後に爾朱栄が兵変をおこすと、専制を行っていた霊太后と年わずか三才の幼主を黄河に沈めて殺すという事件(河陰の変)が発生しました。この時、一緒に公卿百官も二千人ほど殺されましたが、この中には霊太后の寵信を受けていた宦官も数多く含まれていました。かくして北魏王朝で専権を振るった宦官たちは、一気にその勢力を失うこととなりました。