2)北斉・北周の宦官について 

北魏分裂後の中国  紀元534年、北魏は六鎮出身の高歓宇文泰とが各々皇帝を擁立して対峙した事で分裂状態となります。両者とも自らを正統の後継者であると称して国号を魏としたために、前者を東魏、後者を西魏と称して区別します。550年に、東魏は高歓の子の高洋が孝静帝より禅譲を受けて即位し、国号を斉とします(北斉)。その7年後には西魏も、宇文泰の子の宇文覚が恭帝より禅譲を受けて即位し、国号を周としました(北周)。北周は577年に北斉を滅ぼしますが、その北周も4年後には隋王朝に取って代わられます。爾朱栄が兵変により一度は滅んだかと思われた宦官でしたが、絶えることなく存在しつづけました。北周・北斉の両国で宦官たちがどうなっていったのかを見てみるとしましょう。

 北斉では、高歓が斉王の頃(東魏時代)より宦官を使役していました。ただし、この頃は単なる使い走りの役目しか与えられておらず、政治干渉を行うような宦官は現れませんでした。しかし、第4代の武成帝(高湛)の頃になると様相は一変します。武成帝は軍事には滅法強いが、政治に関しては全くの無軌道という人物で、政治を顧みず享楽生活に溺れたために宦官にとっては付け入りやすい君主でした。さらに次に君主となった後主緯(高緯)は、父の悪い所ばかりを受け継いだような暗君でしたので、武成帝のときに政治干渉へのきっかけを得ていた宦官勢力は、一気に膨張していくこととなります。
 しかし、この乱れにつけ込んだのは宦官だけではなく、宦官以外の佞臣らの勢力も増大し、両者は寵愛をめぐって熾烈な争いを繰り広げ、互いに牽制しあったので、北魏ほどの勢力拡大までには至りませんでした。
 北斉は、勲貴と呼ばれる北鎮出身の武将たちと、北魏時代の漢人貴族、そして商人出身の和士開に代表される恩幸と呼ばれた成り上がり者たち、この三者が互いに勢力を争うようになりました。特に貴族と恩幸は皇帝権をバックに勢力を伸ばしたため、ここに宦官の入る余地はなかったのです。
 北斉書や北史に姓名のわかる宦官は30人以上いますが、彼らの事跡はほとんどわからず、そのほとんどが「奸佞をほしいままにする」という負の評価しか受けていません。ただ一人の例外が、後主緯のときの田敬宗です。彼は後世の文人より「北斉の賢閹」と賞されるほどで、こういう人物が出てくるのは北魏の遺風なのかもしれません。

 北周では、宇文泰以降、英明な君主が続き、特に武帝(宇文邕)による改革が功を奏して朝政を清明にしたために、北魏や北斉と比べると宦官による政治干渉はほとんどありませんでした。武帝は幼少の頃から聡明であり、即位した後も政務に励み、特に、国家財政の見地から仏教・道教を禁じたことで有名です。宮殿を金銀財宝で飾ることもせず、当然、後宮の女性も十人ほどしか置かなかったので、宦官の総数も非常に抑えられたものとなっていました。
 北斉を滅ぼした後、残存勢力の討伐の為に出陣していた武帝が陣中で没すると、代わって即位した宣帝(宇文贇)は初めて北周に現れた暗君で、佞臣を重用して武帝時代の重臣らを殺し、子女を後宮に集めて10日以上も入り浸る事が続いたため、公卿や近臣で請事をしようとするものは、全て宦官に取り次いでもらわなければならず、このことは宦官勢力の増大を招くこととなりました。
 宣帝は、帝位についてわずか2年で病没すると、静帝が即位しますが、外戚、宰相として世望を集めていた隋公楊堅(後の隋文帝)が実権を掌握し、581年に静帝から禅譲を受けてここに北周は滅びます。宣帝時代に勢力を増大させた宦官でしたが、北周滅亡までにあまりにも時間が短く、名前が残るような宦官が現れることはありませんでした。