1.隋王朝の宦官について

 隋王朝建国の祖である楊堅(文帝)は、中国統一後、中央官制の整備に着手し、北周の官制を大きく改革します。宦官機構についても大きく改革を加え、それまで漢代の中常侍大長秋、北斉の中侍中省長秋寺など、皇帝に侍る系統皇后(後宮)の事務を司る系統とに分かれていた内廷事務を統一し、内侍省という機構を作り上げます。この制度は後に唐王朝にも受け継がれていきます。
 隋初の宦官は、文帝が政変により北周を乗っ取った事により、ほとんどが北周の朝廷に仕えていたものを引き継ぎ、それに陳の宦官を加えたものでした。
 しかし、文帝は有名な恐妻家であり、とくに独孤皇后の嫉妬心が強かった事、また、北周が外戚に乗っ取られた事を教訓にして、後宮の規模は小さく、宮女の数も60人程度と非常に少なかったのです。

 しかし、次の煬帝は奢侈を好む性格だったので、宮殿などの規模を拡大して后妃や宮女の数も飛躍的に増加していきます。当然、宦官の総数も増加していくのですが、隋代を通して宦官の行動が資料に残ることはほとんどありませんでした。
 煬帝は、宦官の増加に伴って官制を改めて内侍省長秋監としました。それと同時に、この長秋監の長官、次官には士人を充て、宦官が就くことのできる最高の職の品秩を、それまでの従四品下の内侍から、正五品の内承奉へ下げることで、宦官勢力の増大を防ごうとしました。
 隋代における宦官勢力の増大が発生したのは、政権寿命が短かったこともありますが、この制度改革による抑制が大きな要因となっていたことは間違いないでしょう。