2.唐王朝の宦官について

 宋代の人で「資治通鑑」の遷者としても有名な司馬光は、唐代における宦官勢力の発展経過を四つの段階に分けています。「資治通鑑」によると、「宦官の禍は明皇(玄宗)の時に始まり、粛・代宗の時に盛んとなり、徳宗の時にその勢力を確立し、昭宗の時に極まったといえよう」とあります。
 この司馬光が挙げた四つの区分は、おおよそ唐代における宦官時代区分を表しているといえます。が、ここではその前段階も説明しようと思いますので、唐代を初期、武則天〜睿宗期、玄宗期、粛・代宗期、徳宗期以降のそれぞれの時代に分けて考えてみようと思います。

 1)唐初期の宦官について

唐の高祖(李淵)  紀元618年、煬帝が江都で殺されると、李淵は長安で皇帝を称して唐王朝を建国します。唐王朝は隋の制度を多く引き継ぎ、宦官制度についてもほぼ隋の制度をそのまま引き継ぎました。
 また、煬帝の頃に膨れ上がっていた後宮の宮女を大量に削減し、宦官の総数も大幅に削減します。
 唐の太宗は建国後において、彼らの職責範囲を厳しく制限しました。太宗はその下詔で「宦官に物事を任せず、ただ門閣の警備と廷内の掃除、食事の世話だけを行わせよ」と明確に規定していることからもそれがわかります。
 その上、宦官が任じられる職の品帙を四品に抑え、また養子を持つことも禁止するなど、制度的に宦官による政治干渉を抑えようと図ったのです。
 また、宦官に対しても厳密に法を行使しました。これは一見するとごく当たり前の事のように思えますが、悪事を働く宦官は皇帝の威を借りている場合が多く、さらには、常に皇帝の側に侍っているので、下手に法を適用して裁こうとすれば、逆に誣告されるのは目に見えていました。このため、それまでの王朝では、官吏が罪を犯した宦官を罰しようとしても、成功しない事の方が多かったのですが、唐の初期には、君主が宦官を罰することに何らためらいを示さず、逆に官吏の側に立って宦官を弾劾したため、宦官に対しても容赦なく法が適用されることとなりました。
 制度だけでなく、皇帝自らが宦官勢力の抑制に歴然とした態度で臨んだため、唐初においては宦官が勢力を作り上げることや、政治に干渉するようなことは起こりませんでした。