2)武則天〜中宗、睿宗期の宦官について

唐代墓内の壁画にあった宦官  第三代皇帝高宗の後期、皇后の武則天が政治の大権を握った後、玄宗が即位するまでの約50年の間に、武則天の即位・中宗の復位・韋氏一族の専権など激しい権力争いが繰り返される事となります。
 武則天の執政時に、内侍省は司宮台と改名されますが、中宗の即位後に内侍省に戻され、その後、また内侍監と改名されますが、後に元の名称に戻ります。これらは名前の変更だけにとどまらず、その人数も大幅に増加し、その任職の品帙も上がっていきました。「旧唐書」によれば、「このころには宦官の総数は3000人以上に上り、七品以上の品秩を与えられたものが1000人以上となった。」とあって、唐初に比べて大幅に人数・品秩の上昇が見られます。ただ、この頃は五品以上の品秩を持つ宦官はまだ少なかったようです。
 武則天の退位後、わずか8年の間に三人の皇帝が次々と即位することになりますが、その都度血なまぐさい事件を伴っており、この一連の政変において、多くの宦官が参与することになりました。
 その結果、宦官の品帙制限は有名無実のものとなり、内侍省の官職以外に任じられるものや養子を持つことを許される宦官が出てくるようになりました。
 玄宗期に宦官勢力が政界に進出してくる土台づくりは、この頃には出来上がっていたのです。