3)玄宗期の宦官について

 玄宗が即位する前から、宦官はある程度の勢力を持つようになっていました。その中でも玄宗の即位に功があった高力士は、特に高い官職に任じられることとなります。しかし、開元年間には妖崇による建議などにより、政務に関与することはほとんどありませんでした。しかし、玄宗が女色に溺れて政治に飽きると、高力士に代表される宦官たちはついに政治に関与できるようになりました。旧唐書の高力士伝によると「全ての奏文は、まず高力士が目を通し、その上で玄宗に上奏されるが、細かいことは高力士によって決裁された。玄宗は常に『(高)力士が居るからこそ、私は安らかに眠ることが出来る。』というほどで、常に宮中に留まり、自宅に戻ることすら希であった。」というから、高力士が玄宗からとても大きな信任を受けていた事が判ります。
 当時の宦官が実際に勢力を握ったのは、内廷における事務処理の範囲に限られていましたが、宇文融、李林輔、楊国忠、安禄山、高仙芝ら、軍を掌握している将軍や、国政の要職にある大臣たちと交誼を結ぶことにより、間接的にではありますが、朝廷全域にその権勢を強めていきました。
 この事は当然、さらなる宦官勢力の増大を招きます。武則天の頃に数えるほどしかいなかった五品以上の宦官が、わずか5、60年後の開元・天保年間には、千人以上に膨れあがり、また「監軍」という宦官専任の職が制度化される事により、太宗以来続いてきた宦官を内廷以外の職に任じないという不文律が破られる事となりました。
 では、なぜ玄宗の時に、宦官たちは急速に勢力を伸ばしていったのでしょうか?
 唐も玄宗期になると、律令体制と現実との乖離が大きくなり、次第に律令体制が崩壊していく過程にありました。この過程において、皇帝・官僚間の公的関係から、皇帝・宦官間の私的関係へという流れが、歴史の表面に現れてきたのではないかと思われます。

(補足説明)
唐代では、宦官たちはその役所の場所から北司と呼ばれ、宰相など国政を司る官僚たちは南司と呼ばれていました。公的関係の南司から私的関係の北司への勢力の転移といった現象は、禁軍においても見ることができます。
 元々、唐の禁軍は、唐朝創立の頃の兵士達から選ばれた者で、元従禁軍と呼ばれていました。彼らは宮城の北壁中央にある玄武門に駐屯し、則天武后から玄宗期の間に次第に拡張されて、北衙禁軍と呼ばれるようになっていました。
 これに対して府兵制により募兵された首都警備兵は、その駐屯位置から南衙禁軍と呼ばれていました。国軍的存在である南衙禁軍に対して、北衙禁軍は皇帝との私的関係の強い親衛軍的存在であり、府兵制の崩壊に伴う南衙禁軍の縮小に対して、北衙禁軍が拡充の一途を辿った事は、律令体制の崩壊過程に、私的関係が支配秩序として歴史の表面に現れてきた現象になります。