4)粛宗・代宗期の宦官について

 天宝14年(755)、平廬、范陽、河東の三つの節度使を兼ねた安禄山が叛乱を起こし、安禄山の死後も跡を継いだ史思明が反抗します。この9年も続いた安史の乱(755〜763)により唐王朝の国力は一気に傾いていくことになりました。安禄山は挙兵後、洛陽を陥として長安に迫る勢いを見せました。この事態に慌てふためいた玄宗は、乱を避けるために四川に逃げ出し、その途中で太子の李亮が霊武という所で即位して粛宗となります。粛宗は即位して6年で崩じ、その長子の李予は宦官に擁立されて代宗となります。粛宗、代宗期は、李輔国、程元振、魚朝恩の三人が相次いで大権を握り、宦官勢力は益々増加して行くこととなります。
唐王朝後半帝室系図  李輔国は、玄宗期には太子東宮に勤める単なる一宦官にすぎませんでしたが、粛宗の擁立に功績があったことから粛宗の信任を得て、政治に関与するようになります。李輔国は特に官府内の刑罰の決裁権を握ることで自分の権力を固めます。また、太上皇帝の玄宗を欺いて高力士を追放し、宦官勢力内部での地位を不動のものにしました。
 粛宗の病が重くなると、後継者争いを巡って張皇后と対立し、先んじて張皇后を殺し、その一派を粛正して李予(代宗)を擁立します。代宗の擁立後、李輔国は傲慢に振る舞うようになり、このことに代宗は我慢がならなかったのですが、李輔国が禁軍を握っていたために何も出来ませんでした。そこで、代宗は李輔国の対抗馬として程元振という宦官を重用するようになります。程元振は禁軍の統率権を李輔国から取り上げたのをきっかけに李輔国の権力を削り始め、ついには李輔国に勝るようになります。権力を失った李輔国は、最後には代宗の刺客に暗殺されてしまいます。
 李輔国の失脚により、急激にその力を増やしてきた程元振は、自分の敵となりそうな将軍や宰相を排斥し、自分の権力を固めていきましたが、その結果として有能な政治家や功績を挙げた武将たちが次々と粛正され、次第に政府の人材不足を招くことになりました。
 代宗の廣徳元年(763年)、チベットの吐蕃が長安に侵入するという事件がおこりました。代宗は各地に詔を出して兵を集めようとしましたが、今まで、功績を挙げた将軍が程元振に殺されていたために、誰も詔に応じるものがいませんでした。代宗は諸将軍の不満や世論を静めるために、程元振の官爵を削って郷里に追放します。
 程元振が失脚すると、代わって権力を握るようになったのは、やはり宦官の魚朝恩でした。魚朝恩は粛宗の時に監軍となっており、安史の乱の際に、九節度使の連合軍の実質的な統帥となるなど、軍事面にて功績を挙げていましたが、代宗が即位するに際してさらに取り立てられ、程元振失脚後の宦官勢力のトップとなりました。しかし、魚朝恩も勲功を誇って増長した所を代宗に厭われ、朝臣の元載らによって失脚させえられます。ここにおいてようやく李輔国・程元振・魚朝恩による専権は終わりを告げることとなります。

 この時期の宦官の特徴は、宦官勢力が増大した事により、ついには皇帝とも争うようになったということです。太上皇帝を欺き、皇后を殺し、新君を擁立するといったことは、玄宗期には考えられなかった事です。但し、この時期の宦官勢力は、まだ禁軍の確保を制度化するまでには至っていないため、皇帝との個人的関係により権勢を振るわざるを得ず、結局、何らかの理由によりその関係が途切れてしまうと、簡単に誅殺されてしまうのです。