5)徳宗期以降の宦官について

 魚朝恩が誅殺された後、代宗一代では禁軍(神策軍)の指揮権を宦官に委ねることはありませんでした。しかし、次の徳宗から昭宗の時期になると、宦官は禁軍の指揮権を完全に握り、政権の中枢を抑えると共に、皇帝に対する殺生与奪の権まで持つようになりました。その権力のあまりの増大ぶりに対して、君主と朝臣とが連合して宦官に対抗しようとしますが、それらはことごとく失敗してしまいます。唐の末期にようやく地方の藩鎮の力を借りて、宦官勢力に対して壊滅的なダメージを与える事ができましたが、時を同じくして唐王朝も滅びる事となります。

 代宗の時に、禁軍の支配権を奪われた宦官でしたが、その復権は意外と早いものとなりました。徳宗の建中末期、叛乱鎮圧の為に動員された源節度使の妖令言が、逆に長安に攻め込むという「源の兵乱」と呼ばれる事件が起こりました。急な兵乱だったので諸軍の動員が間に合わず、徳宗は禁軍に命じてこれを防がせようとしました。ところがです。肝心の禁軍が全く役に立たなかったのです。
 この時の禁軍(神策軍)は、神策軍使白志貞という士人の指揮下にあったのですが、白志貞は自分が禁軍募集に関する一切を取り仕切っているのをよいことに、禁軍を富豪層の税役逃れの場所とさせ、彼らから金銭を徴収する代わりに在籍証明を濫発したので、禁軍兵士は名簿上は存在していても、実際には存在しない者が多かったからなのです。この事件の後、徳宗は禁軍の指揮権を士人に与えた事が今回の事件の原因であると考え、宦官に指揮権を委ねるようになったのです。
 こうして禁軍の支配権を取り戻した宦官は、さらに政治への介入の度合いを強めていきます。代宗の頃、枢密使という宦官専任の官職がありました。代宗の頃は単なる配達係に過ぎなかったのですが、次第にその権力を増していき、憲宗の頃には宰相と共に国政に参加するほどの役職となっていました。この左右枢密使と、先ほど述べた禁軍の左右神策軍中尉は併せて「四貴」と呼ばれ、唐後期の宦官が専権を行うのに必要不可欠な官職となりました。

 また、「牛李の党争」に代表される官僚同士の派閥争いも、宦官の勢力増大に大いに寄与することとなりました。この党争はイデオロギーの争いではなく、各党派の領袖たちが、皇帝権を有効に利用し、いかに自己の党派勢力を強化して反対派を追い出すかという側近官僚体制内の主導権争いでした。各党派の領袖は、宦官との結合を強めることにより、新皇帝路線から外れないようにしたため、宦官が擁立した皇帝に対して異議を唱えることはありませんでした。また、擁立された皇帝も数多い皇帝権継承候補者の中から自分を選び出してくれた宦官に対しては、一目も二目も置かざるをえませんでした。  この時期になって、ついに宦官は皇帝の擁廃立を自由に行えるようになりました。唐代の後期、第12代の穆宗から実質上の最後の皇帝である昭宗に至る8人の皇帝の内、敬宗を除く7人が宦官によって擁立されていることからも、そのことがよくわかります。

 この原因となるものは、上記の2点に加えてもう一つ大きな要因があります。
李勣 明版『集古像賛』  それは、唐代には皇帝継承者の選定に関して、本来参加すべき大臣たちが、「皇帝の家事」であるとして関わろうとしなかった事です。この風潮は、第3代の高宗の時の李勣(李世勣)の発言に端を発するものなのです。
 高宗は武后(後の則天武后)を王皇后に代えて皇后に立てようと思い、長孫無忌ら重臣達に相談した事がありました。猛反対する重臣達に対し、李勣は高宗の意を汲んで「これは陛下の家事。改まって外部の人に問う必要はありません。」と答えた。この李勣の発言は、後の武后専権時代を招く大きな役割を果たすことになり、この風潮はこれ以降の官僚達にも受け継がれていったのです。

 この様に皇帝権が権力寄生者の飾り物に過ぎなくなった状況に対して、皇帝権を自らの手に取り戻すべく抵抗を試みた皇帝が現れました。第14代の文宗は、官僚と宦官とが手を取り合っているのを感じると、第三勢力を作り上げて官僚と宦官の勢力を押さえ込もうと考えました。まず、党派と関係のない李訓と鄭注を登用し、牛李両党を中央から追い落として宰相以下政界の中枢を第三勢力で固めると、宦官打倒の計画を推進しました。太和9年(835年)11月、文宗は李訓、鄭注らと謀って「大明宮内の石榴の木に甘露が降った」という偽の吉兆を告げさせ、その真否を当時の実力宦官仇士良らに確かめる役目を与え、その場に兵を伏せて到着した宦官を一網打尽にしようとする計画を立てました。
 ところが、一陣の風が伏兵を隠していた幕を吹き上げたために仇士良たちが危険を察知し、仇士良らが文宗を奉じて宮廷を脱出した事で計画は全くの失敗に終わりました。いわゆる「甘露の変」と呼ばれる事件でしたが、怒った仇士良はこの事件を謀反事件として処理し、李訓一党や宦官の反対勢力など全て首を刎ねられる事態に至ったのでありました。この変以降、宦官は皇帝には政治に関心を持たせないように努め、道教信仰の道に導いて不老長生への憧れをあおり、丹薬服用で自ら命を縮めさせるようなこともしました。この変以降、皇帝は完全に宦官の手中に収められ、唐滅亡までそれは続いていくのでした。

 第18代の僖宗の乾符2年(875)夏、黄河下流域、現在の山東・河南両省の省境にほどちかい地方で、まず王仙芝が数千の衆を率いて蜂起し、ついで黄巣が、やはり数千の衆を率いてこれに呼応しました。そしてこの二つの乱集団は、数ヶ月の間に数万の勢力へと成長します。これに対して官僚や宦官は全く役に立たず、もっぱら藩鎮や異民族の傭兵、黄巣軍からの帰順武将に頼るほかありませんでした。藩鎮と反乱軍とが猛威を振るい、唐朝がその支配力を失っていったとき、ようやく官僚と宦官との争いに終止符が打たれることとなります。
 第19代の昭宗の時、宦官の韓全誨と宰相の崔胤とが対立し、韓全誨は風翔節度使の李茂貞と、崔胤は宣武節度使の朱全忠と結んで対立しました。李茂貞は朱全忠の長期に渡る攻撃に耐えかねて講和を図りますが、朱全忠側からの講和条件に宦官の誅殺があったために、風翔に逃げ落ちていた韓全誨を初めとする宦官たちはここで皆殺しにされます。さらに昭宗とともに長安に戻った朱全忠は、長安城内にいた800人程の宦官をも皆殺しにします。これにより、唐代後期にあれだけの専権を振るった宦官勢力はその終わりを告げることとなります。長年の政敵であった宦官勢力を藩鎮の力を借りることで排除した官僚貴族側も、翌年には朱全忠により黄河の藻屑となって消え去りました。唐中後期の政治史を彩った宦官・官僚貴族・藩鎮のうち、かくして藩鎮のみが生き残って、この後の五代十国の軍閥割拠時代をもたらす事となりました。