1)五代十国の宦官の出自
天復三(903)年正月、朱全忠の進言により長安城内の宦官たちは虐殺され、地方に赴任している宦官に対しても誅殺を命じる詔勅が下されました。これにより各地に監軍使として赴任していた宦官たちの多くが殺されることになりますが、これで国内の宦官が全て殺された訳ではありません。朱全忠に反発する勢力に赴任していたものや、宮中の下働きとして残されたもの、また、長安城内から逃げ延びることに成功したものも数多くいたのです。(※1)この生き残りの宦官たちが五代十国の各政権で採用されることになります。例えば、呉越国の創始者である銭鏐は、節度使時代に長安の禍から逃げてきた周延誥を初めとする二十五名の宦官たちを保護しますが、建国後には彼らを正式に王国付きの宦官に登用したのです。
唐代中期より各地の節度使は、監軍使として赴任してきた宦官を朝廷とのパイプ役として重用してきましたが、時代が下るに連れて唐王朝の権威が落ちてくると、彼らの関係は変化していきます。特に地方で独立傾向を強めていく国においては、本来の節度使監視の役割を果たせない監軍使は、節度使を君主として仕えるような関係を結ぶ傾向が強くなっていきました。このように各地の節度使内で起こった小王朝の中には、成徳藩鎮の王鎔のように、宦官に政治を任せてしまうような節度使まで現れるほどでした。
五代十国の各政権の創始者は節度使の出身者が殆どであり、さきに上げた朱全忠や、後唐の基礎を作り上げた李克用、呉を作り上げた楊行密、前蜀の創始者である王建と列挙に暇がありません。彼ら王朝の創始者は、節度使時代からすでに宦官を用いており、唐朝滅亡後に割拠政権を作り上げたときも、既存の宦官組織を利用することになったのです。
2)五代十国の宦官の興亡
後梁では、創始者の朱全忠が唐王朝の宦官を排除して朝廷の実権を掌握した経緯もあって、宦官を重用しようとはせず、崇政院 (唐代の枢密使)、宣徽院使、飛龍使など三十前後の初司使名は残ったものの、これらの司使には士人が任命されることとなり、宦官が政治に容喙する機会はありませんでした。
後梁が滅んで後唐が成立すると、後梁時代に冷遇された宦官たちは再び重用されることになります。
十国の諸政権では、王建が四川に建てた前蜀(907〜925)が 唐制に倣って枢密使を置き、建国当初の頃は後梁と同じく士人の専任としていましたが、王建の晩年になると後宮内の争いが起こったこともあって、宦官が勢力を増して枢密使となる者も出てくるようになります。また、広州を中心とした南漢(917〜971)は特殊な事情により、宦官が過去に例をみないほどの大きな権力を持つようになりました。
3)五代の養子制度
各国で宦官制度が復活するに従って、宦官の養子制度も復活しました。史料によると、北宋の頃の宦官である石和顒という人物の曾祖父は後梁で尚食使を務め、祖父の石守忠は後晉の朝廷に仕え、父の石希鐸は時期は不明ながらも高位の宦官であったという宦官の家系の出身で、当の石知顒も後周、北宋の二朝に仕える宦官でした。石氏の一族は五代を通じて朝廷に仕えた宦官であり、五代が終わって北宋となっても引き続き内廷に仕えたのでした。この様な例は他にも少なくなく、五代を通じて宦官の養子制度が受け継がれていたことがこれで判るのです。
(※1)「時宦官盡死,惟河東監軍張承業、幽州監軍張居翰、清海監軍程匡柔、西川監軍魚全?及致仕嚴遵美,為李克用、劉仁恭、楊行密、王建所匿得全,斬他囚以應詔」(『資治通鑑・唐紀八十』)
(※2)唐末期の枢密使は、皇帝側近で宦官専任でしたが、五代に於いては軍政を司る重職であり、唐初の兵部尚書にあたるものでした。
唐代に於いては、内侍省が宦官にとっての基本的な組織であり、五代に於いても史料に内侍監、内侍、内給事などの官職名が散見することから、唐代と同じように内侍省が設置されていたものと思われます。
しかし、内諸司使については大きく変化することになりました。崔胤による内諸司使全廃の奏請により、唐末には宣徽使など九使以外の宦官専任の諸司使は廃止されることになりました。
ただし、『資治通鑑 後唐紀2』に「内諸司使は、天祐年間以来に士人が専任されていたが、ここに至って宦者を再び用いるようになり、政治に浸干するようになった」とあるように、唐王朝と同じように宦官が政権中枢部を専有したわけではありません。
唐末の混乱を鑑みた後唐では、士人と宦官を併用することにしたのです。例えば、軍政を司る重要な官職の枢密使(※2)ですら、士人と宦官の両者が任じられたのでした。ただし、この現象は後唐政権だけで、これ以降の後晉、後漢、後周などの諸政権では宦官を枢密使に充てることはありませんでした。
「唐末誅宦官,其有逃逸者,散投外鎮及為私家所養」(『資治通鑑・後唐紀二』胡三省注)
