3−1.南漢初期の宦官について

 南漢は、今の広東省及び広西壮族自治区を中心に勢力を広げた国家で、その成立は軍閥が勢力を広げて国家としての形を作り上げるという五代十国期によく見られる形のものでした。
 この過程においては、政権が安定していなかったこともあって、宦官は政治に口出しするほどの勢力を築いてはいませんでした。しかし、南漢という国家は、末期には人口比率において宦官が最も隆盛を誇ったと云われる明代末と同程度に宦官が多い国になります。宦官たちがどのように勢力を増していったのか。それをこれから説明していこうと思います。

 唐代において宦官勢力が急激に勢力を増すことが出来たのは、武韋の禍をクーデターによって玄宗が制したことがきっかけでした。唐代における宦官隆盛は、宗族の助力を得られない玄宗が、高力士を初めとする宦官たちの力を利用しはじめたことに始まるのです。唐制を模倣する南漢においても、宦官が勢力を持つようになったのも、やはりお家騒動が原因となりました。

 南漢の基礎を築いた高祖劉巌が大有十五(942)年に崩じると、劉巌の三男である劉玢が即位(殤帝)しますが、即位した殤帝は、殯中であるにも関わらず宴会を催し、近侍の者で気に入らないものを次々と殺すなど、思うがままに振る舞うようになります。ちょうどこのころ、張遇賢というものが乱を起こし、京師の興王府から東北にわずか150公里ほどの距離にある循州を攻め落とすなど、各地で叛乱が起こっていました。ところが、国内の叛乱よりも朝廷内における自分の立場の安定にしか興味のない殤帝は、臣下に対しても猜疑心を募らせた挙げ句、宴会の参加者たちの服を脱がせてまで、凶器を持っていないか検査するようなことまでしたのです。  こんな状態が長く続くはずもありません。即位からわずか一年後の光天二(943)年三月、宴席で酔いつぶれた殤帝は、都指揮使の陳道庠や力士の劉思潮らに絞め殺されてしまいました。

 代って即位した中宗は、殤帝弑殺に関与した陳道庠や劉思潮らを功臣として、厚い恩賞を与えましたが、このことは殤帝弑殺に中宗が深く関与していたことを国内に喧伝したようなものでしたので、朝廷の内外で、中宗即位を疑問視する声があがり始めました。この声を圧殺しようとした中宗は、自分の帝位を狙う可能性のある弟たちを殺し続け、ついには全員を殺してしまいます。このように自分の帝位を脅かしそうなものを次々と排除していった結果、権力の集中という一点に於いては成功を収めますが、その反面、政権を支える人材が足りなくなるという事態を招いてしまいます。中宗はその空白を埋めるべく、有能でありながらも自分を絶対に裏切らないと思える存在、すなわち宦官を利用しはじめたのです。

 国内を制した中宗は、この機に北方にあった楚の攻略を思い立ちます。
 楚の攻略を命じられた内常侍の呉懐恩は、賀州、昭州を初め、桂、宣州などの諸州を攻略して楚の南部を奪いました。これによって、南漢は嶺南地方全域に勢力を伸ばすことに成功したのです。  翌月には、内侍省局丞の潘崇徹が兵を率いて南唐の南西部に攻め込み、南漢に隣接する州を攻略します。この結果、南漢の支配地域は過去最大になるのですが、ここで一つ注目したいのが、この侵攻作戦の司令官となったのが、両方共に宦官であり、しかも潘崇徹に至っては、宦官の中でも中堅クラスであった人物が抜擢されているということです。それまでの南漢では、軍事において司令官を務めるのは皇帝の親族が多かったのですが、ここで宦官たちがその役割を担うようになっていったということは、南漢の軍事権が宗族から宦官たちの手に移っていったことを表しています。宦官は係累を持たないことから、宗族や官僚と異なり何のしがらみもありません。才能のみを基準に登用することが出来るので、効果を上げやすかったという利点があることも、宦官登用の理由として特筆すべき点といえるでしょう。

 また、中宗が信任していた宦官に林延遇というものがいました。林延遇は中宗の弟たちを誅殺するための策略を練るなどして、ますます中宗の信任を厚くしていったのですが、その恐怖政治ぶりは諸弟だけに向けられたものではなかったようで、乾和十四(956)年に林延遇が死んだときには、国中の人が手を打って慶賀を唱えたといいます。
 このように中宗期は、いままで宗族や官僚が持っていた軍事権や参政権が、宦官や女官らに移っていった時期にあたりました。